memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

高倉健とイノダコーヒー

2015-05-06 07:02:33 | 
2015年4月28日朝日夕刊記事より

「京ものがたり」のコーナーで高倉健のコーヒーブレイク、という記事がありました。
あのお店に・・・そうなのか、しっくりくる構図だわ・・と思い、そういう場所を持てるというのも人生において大切なのでは、と感じたので、全文転記致します。


 高倉健にとってコーヒーは生活必需品だった。仕事や私的に訪れる土地に、なじみのコーヒー店がいくつもあった。
 その一つが、京都の老舗コーヒー店「イノダコーヒー」だ。約50年勤めたコーヒー職人の猪田彰郎(82)は、「祇園祭の時、萬屋錦之介さんと浴衣姿で見えたのが最初でした。任侠もので人気が出る前。ほれぼれしました」と語る。
 その後、猪田が接客した三条支店に、多いときは一日に朝晩2回通った。店の顔でもある楕円カウンターを好み、昼は、光が差す窓側中央、夜は、柱が目隠しになる入り口側の真ん中が定位置だった。
 モカを基調にした同店オリジナルブレンド「アラビアの真珠」を、砂糖なし、ミルクたっぷりで。うんちくは語らない。一口飲んで、ギョロッと目を見開き、満足そうに「おいしいです」とひと言。

 寡黙な役柄が多かった高倉だが、一緒にコーヒーを飲んだ人たちは皆、「よく話をされました」と振り返る。猪田の前でも、朝は無口に新聞を読んでいたが、夜はおかわりを重ねて、旅した欧州の思い出などを生き生きと語った。
 「冗舌さの根底にあるのは、秘めた孤独感でしょう」と、30年にわたって高倉を取材した出版プロデューサーの谷充代(61)。孤独と、個の時間を知るからこそ、心を許す人や、好きな空間に浸るときは、言葉がほとばしるのだとみる。

 常に精進し、高みを目指す高倉を、共演した田中邦衛(82)は「峻烈な山」にたとえた。20数年前、それをどう思うのかと、谷が高倉に尋ねると、熟考の末、「人は誰でも幸せになるために必死でもだえているんじゃないでしょうか。きれいごとではない。修羅場です。でも確実に幸せに向っている。そう信じたいんです」と答えた。
 高倉がもがきながら進んだ人生には、逃れきれないスターの孤独や、愛する人との別れがあった。1982年、元妻の江利チエミが急死したとき、混乱を避けて彼女の自宅の裏でこっそり手を合わせた。母親が危篤のときは、周囲に迷惑をかけまいと映画の撮影を続けた。
 「俳優ってつらいな」。東映時代から親交があり、江利を弔う私的な旅に同行した京都市の会社経営者、西村泰治(76)は、そうつぶやく高倉の孤独を間近で見た。「旦那(高倉)は、太陽みたいにすごい人ですが、その分つらいことも、ぎょうさんあったと思います」
 西村もまた、イノダコーヒーに高倉と通った。印象的なカウンターは今も変わらない。
 高倉が世を去って5カ月あまり。コーヒーブレイクを共にした人たちは、その時間を「人生の宝物」だと語る。


*イノダコーヒーを訪れた高倉健さんが、コーヒーと一緒に、時々注文したのがチーズケーキだ。「意外でしょうが、甘いものが好きなんですよ」と西村さん。包装のセロハンを丁寧にはがし、いつもおいしそうに食べていたという。
 現在、店で提供するチーズケーキは、東京・銀座で人気のあった老舗ドイツ料理店「ケテル」(閉店)のレシピを受け継いだものだ。本家のノウハウを生かし、自社工場で手作りしている。甘さは控えめで、中のレーズンがアクセントに。本支店で食べられるほか、直営のケーキ工房「ケテル」(京都市中京区六角通高倉東入堀之上町128 ☎075・254・2504)でも購入できる。


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