2015年6月10日(水)が3回目。
「人生の贈りもの~わたしの半生」で、ウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルさん(64)が思い出を語っている連載があるのだが、色々と興味深いことばかり。
その中で、今回は、同時代のバイオリニストについてのコメントが興味深かったので、そこだけ引用しておこう。
11歳で初めてバイオリンを持ち、9年後にはウィーン・フィルで弾いているなんて。信じられません。
色々と幸運に恵まれていただけですよ。私の前任だったウィリー・ボスコフスキーさんがたまたまコンサートマスターをおやめになったんです。確か60とちょっとで。それで、師事していたフランツ・サモヒル先生が、後任のオーディションの準備をきちんとしてくださったから。わたしは別にポストが欲しかったわけではなく、オーディション会場に行って演奏して帰ってきた。それだけです。
緊張しましたか?
いいえ、まったく。オーディションは、いかにリラックスして弾くかが大切ですね。自分が審査員を務める立場になったいま、そのことがよくわかります。オーディションに来る若手の中には、何が何でもこのポストに就かければ、と相当なプレッシャーを抱えている人がたくさんいますからね。
でも私はそんなことをまったく考えていなかった。「オケと一緒にコンチェルトを弾けるのは楽しいな」「ホルスト・シュタインが指揮してるなぁ」という心持ち。気持ちよく、何のプレッシャーも感じることなく演奏したのがよかったのでしょう。
シュタインが指揮ですか!
ええ、彼は当時、ウィーン・フィルの重要な指揮者の一人でしたから。コンマスのオーディションは2日にわたって行われます。初日は1人でソロの作品を奏でて、2日目はオケと一緒。オケの中で弾いたり、コンチェルトの一部を演奏したりします。
学生時代、ウィーン・フィルはよく聴いていましたか?
いいえ。学生時代に実際に足を運んだのは、ウィーン・フィルが演奏しているウィーン国立歌劇場のオペラだけ。それも、学生用の安い立ち見席で2,3回見たくらいです。ウィーン・フィル単独のコンサートには一度も行っていません。ニューイヤーコンサートは白黒テレビで見ていましたけどね。
一度も?
ええ。でも、当時の代表的なバイオリニストの演奏はほとんど聴いています。オイストラフやグリュミオ―、コ―ガンも。例外はハイフェッツとアイザック・スターン。ハイフェッツは戦後、オーストリアに来なくなったし、スターンも1950年代に一度来て以来、ウィーンになかなか来ないので聴きそびれました。
印象に残る巨匠は?
あのころ巨匠と呼ばれていた人たちは、それぞれが特別な存在だったのです。誰もがほかの誰とも違う。それこそ目を閉じて聴いていても、「これは誰だ」とわかるくらい、個性の際立った人たちばかりでした。残念ながら、いまはそうではない。若い人たちは同じような演奏をしますね。
特に印象に残っているといえば、オイストラフでしょうか。彼とはいろんな思い出があるんですよ。
往年のバイオリンの巨匠、オイストラフとの思い出とは何ですか?
あれは1970年の第4回チャイコフスキー国際コンクールでした。舞台から客席を見ると、そこにオイストラフとシゲティとコ―ガンという3人の大物が座っている。オイストラフは慈悲深いお父さんのような雰囲気。コーガンは、小柄でとても険しい顔をしていました。19歳だった私はかなり緊張しましたよ。
その2年後、ブタペストへウィーン・フィルの公演で行ったときです。クラウディオ・アバドの指揮でハイドンの「バイオリンとオーボエ、ファゴット、チェロのための協奏交響曲」を弾いていたら、客席にまたオイストラフが座っている。彼がいると、やっぱりいい演奏をしなければという意欲が高まります。
そうそう、チャイコフスキー国際コンクールのことを伺いたい。本選には進めなかったのですか?
出場した顔ぶれがすごかった。1位はギドン・クレーメルで、2位は指揮者になったウラジーミル・スピバコフと藤川真弓。藤川さんは素晴らしい演奏でした。
長くヨーロッパを拠点に活躍し、高く評価されてきた藤川さんですね。確かに、名手ぞろい。
クレーメルの最初の奥さんだったタチアナ・グリンデンコもいましたしね。とにかくすごい面々が本選まで進んでいましたから。私は最初でダメでした。
えっ一次で?
ハハハ。でも最後まで会場に残って他の人の演奏を聴きましたよ。
なぜ落ちたのですか?途中でとまったとか?
私の演奏より、みなさんがよかったということ。
録音が残っているかどうかわかりませんが、2度と聴きたくないですね。でも、みなさんの演奏を聴けたのはとてもいい経験でした。
周りはキュッヒルさんが1位と予想したのでは?
それはないでしょうね。師事していたフランツ・サモヒル先生も、おそらく私に経験を積んでほしいと思っていたはず。それに当時、旧ソ連は国としてとてもコンクールに力を入れていました。出場者も多いし、とにかく彼らはチームだった。そもそもこのコンクールは長い間、優勝はほぼ旧ソ連の人という時期がつづいていましたから。
「人生の贈りもの~わたしの半生」で、ウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒルさん(64)が思い出を語っている連載があるのだが、色々と興味深いことばかり。
その中で、今回は、同時代のバイオリニストについてのコメントが興味深かったので、そこだけ引用しておこう。
11歳で初めてバイオリンを持ち、9年後にはウィーン・フィルで弾いているなんて。信じられません。
色々と幸運に恵まれていただけですよ。私の前任だったウィリー・ボスコフスキーさんがたまたまコンサートマスターをおやめになったんです。確か60とちょっとで。それで、師事していたフランツ・サモヒル先生が、後任のオーディションの準備をきちんとしてくださったから。わたしは別にポストが欲しかったわけではなく、オーディション会場に行って演奏して帰ってきた。それだけです。
緊張しましたか?
いいえ、まったく。オーディションは、いかにリラックスして弾くかが大切ですね。自分が審査員を務める立場になったいま、そのことがよくわかります。オーディションに来る若手の中には、何が何でもこのポストに就かければ、と相当なプレッシャーを抱えている人がたくさんいますからね。
でも私はそんなことをまったく考えていなかった。「オケと一緒にコンチェルトを弾けるのは楽しいな」「ホルスト・シュタインが指揮してるなぁ」という心持ち。気持ちよく、何のプレッシャーも感じることなく演奏したのがよかったのでしょう。
シュタインが指揮ですか!
ええ、彼は当時、ウィーン・フィルの重要な指揮者の一人でしたから。コンマスのオーディションは2日にわたって行われます。初日は1人でソロの作品を奏でて、2日目はオケと一緒。オケの中で弾いたり、コンチェルトの一部を演奏したりします。
学生時代、ウィーン・フィルはよく聴いていましたか?
いいえ。学生時代に実際に足を運んだのは、ウィーン・フィルが演奏しているウィーン国立歌劇場のオペラだけ。それも、学生用の安い立ち見席で2,3回見たくらいです。ウィーン・フィル単独のコンサートには一度も行っていません。ニューイヤーコンサートは白黒テレビで見ていましたけどね。
一度も?
ええ。でも、当時の代表的なバイオリニストの演奏はほとんど聴いています。オイストラフやグリュミオ―、コ―ガンも。例外はハイフェッツとアイザック・スターン。ハイフェッツは戦後、オーストリアに来なくなったし、スターンも1950年代に一度来て以来、ウィーンになかなか来ないので聴きそびれました。
印象に残る巨匠は?
あのころ巨匠と呼ばれていた人たちは、それぞれが特別な存在だったのです。誰もがほかの誰とも違う。それこそ目を閉じて聴いていても、「これは誰だ」とわかるくらい、個性の際立った人たちばかりでした。残念ながら、いまはそうではない。若い人たちは同じような演奏をしますね。
特に印象に残っているといえば、オイストラフでしょうか。彼とはいろんな思い出があるんですよ。
往年のバイオリンの巨匠、オイストラフとの思い出とは何ですか?
あれは1970年の第4回チャイコフスキー国際コンクールでした。舞台から客席を見ると、そこにオイストラフとシゲティとコ―ガンという3人の大物が座っている。オイストラフは慈悲深いお父さんのような雰囲気。コーガンは、小柄でとても険しい顔をしていました。19歳だった私はかなり緊張しましたよ。
その2年後、ブタペストへウィーン・フィルの公演で行ったときです。クラウディオ・アバドの指揮でハイドンの「バイオリンとオーボエ、ファゴット、チェロのための協奏交響曲」を弾いていたら、客席にまたオイストラフが座っている。彼がいると、やっぱりいい演奏をしなければという意欲が高まります。
そうそう、チャイコフスキー国際コンクールのことを伺いたい。本選には進めなかったのですか?
出場した顔ぶれがすごかった。1位はギドン・クレーメルで、2位は指揮者になったウラジーミル・スピバコフと藤川真弓。藤川さんは素晴らしい演奏でした。
長くヨーロッパを拠点に活躍し、高く評価されてきた藤川さんですね。確かに、名手ぞろい。
クレーメルの最初の奥さんだったタチアナ・グリンデンコもいましたしね。とにかくすごい面々が本選まで進んでいましたから。私は最初でダメでした。
えっ一次で?
ハハハ。でも最後まで会場に残って他の人の演奏を聴きましたよ。
なぜ落ちたのですか?途中でとまったとか?
私の演奏より、みなさんがよかったということ。
録音が残っているかどうかわかりませんが、2度と聴きたくないですね。でも、みなさんの演奏を聴けたのはとてもいい経験でした。
周りはキュッヒルさんが1位と予想したのでは?
それはないでしょうね。師事していたフランツ・サモヒル先生も、おそらく私に経験を積んでほしいと思っていたはず。それに当時、旧ソ連は国としてとてもコンクールに力を入れていました。出場者も多いし、とにかく彼らはチームだった。そもそもこのコンクールは長い間、優勝はほぼ旧ソ連の人という時期がつづいていましたから。
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