memory of caprice

浮世離れしたTOKYO女子の浮世の覚書。
気まぐれ更新。

小津安二郎がいた時代~恋せよ乙女~

2014-10-27 06:36:18 | 
小津安二郎の映画が好きです。
温かさと端正で簡素で粋でモダンな感覚が共存し、豊かな知性と品格があり、心のゆとりも感じさせる。

監督自身の人柄を語るエピソードを紹介した記事を転記します。


 小津安二郎と野田高梧(こうご)が2人で脚本を書いていた蓼科高原(長野県)の山荘を訪れた顔触れは実に多彩だ。映画関係者や地元の人々ばかりでなく、20代の若者たちも数多く訪れている。
 その中の一人に井上和子(79)がいた。和子の実家は、野田の鎌倉の実家近くにあり、両家は家族ぐるみの付き合いだった。和子の兄や姉も蓼科をよく訪れた。
 和子は、小津と野田がお互いに敬語で話していたのが印象的だったと言う。特に小津は10歳上の野田にとても丁寧な言葉を使っていた。それでいて、意見が合わないときは2人で黙って不機嫌そうな顔をしていた姿も見ている。
 和子のえピソードは映画にも登場する。和子の父が入院した時、何月何日の何時に見舞いに来いと指定したことがあった。あとで医師と見合いをさせようとしていたことがわかる。「彼岸花」(1958年)では、浪花千栄子が娘の山本富士子を医師に会わせるため画策した話として出てくる。若者がどんな言葉を使っているかなど、小津と野田はよく和子に尋ねた。
 和子は「ユーモアがあって筋の通った方でした。皮肉もおっしゃるけど」と小津を語る。「おまえは気がきかないなんてよく怒られたのよ。なんで怒られたのかわからなくてふくれてました」
 小津と野田は、まっすぐで気後れしない性格の和子を可愛がった。
 そんな和子が、北鎌倉の小津の自宅を訪ねたことがあった。蓼科でよく顔を合わせた映画監督井上和和男との結婚を、親に反対され悩んでいた時、野田から和子に小津宅へ用事を頼まれた。ついでに小津に相談してみては、という野田の配慮だった。
 少し話をして帰るとき、小津は、さりげなく「ゴンドラの唄」をハミングした。「いのち短し 恋せよ乙女・・・」。歌詞を思い浮かべた和子は、若い2人の恋を見守っていた小津と野田の思いやりが心にしみて。
 結婚したばかりのころ、小津と野田に呼び出されて田中絹代らと食事をしたことがあった。小津は「おまえは着ているものの趣味はいいけど男の趣味は悪いな」と冗談を言った。「その時の写真をみると小津先生はいばっていらして、私はまたふくれっつらしてるんです」。和子は笑う。「でも結婚した私の様子を心配して、おふたりが呼び出して下さったんでしょうね」
 今になって思う。「戦後のすさんでいた時期に、貴重な青春時代を過ごせたことはすごく幸せでした」


そのときのふくれっつらの和子さんといばっている?小津監督(1961)の写真が添えられた記事。
実に、おしつけがましくない情を感じるエピソ―ドだと思ったことでした。
 


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