まちなかを歩いていて立ち止まるということが苦手である。
なぜかはよくわからない。
他人の目を気にしている、というのはある。
なぜ気にするのかはよくわからない。
挙動不審だと思われるのがイヤ、というのもあるような気がするが
どうもそれだけではないような気もする。
いつも歩いていて気づくのは
とっさに思ったことや、感じたことに対して反応するのに
いつもワンテンポ、いやツーテンポくらい遅れるということだ。
以前に比べればいくらかマシになった気はする。
しかし、例えばすれ違いざまに肩をぶつけられた場合、
むかっと来るのがワンテンポかツーテンポ遅れるのだ。
確かにぶつかった瞬間に、何かしら「ムカッ」の前駆体のような反応が身体のなかに起こる。
ところが、反射的にこの反応は押さえ付けられ、
ストレートには絶対に表出されない。
ここに、自分の感覚や感情に対して、根源的な不信感あるいは不安があると私は見ている。
ストレートに反応したらそれは不適切なのではないか?
場にそぐわないことになりはしないか?
何か自分にとって不利なことになるのではなかろうか?
・・・・・
こんな感覚がどうも私に身体の奥の方に巣食っているような気がする。
ここで「ダブルバインド」という言葉が思い浮かぶ。
「また親のせいか」という意見もあろうが。
自分のストレートで自然な反応が「不適切ではないか」という不安。
それはやはり受容というものを知らずに育ってしまったことによるのではなかろうか。
「意識」のレベルではなく「身体」のレベルにおいて、
自らをメタ化し、抑圧するという「癖」が染み付いてしまっている。
それによってさらにタイミングがずれ、遅れて表出されたものは
ますます「不適切」なものとなってしまう。
それがさらに「表出」を押さえ込もうという機制を動機づける。
悪循環とはこのことだろう。
頭ではわかる。
ところが「身体」に染み付いた癖はなかなかぬぐい去ることができない。
今年を振り返ってみて、この問題について改善された部分はどこだったか。
まずは、先ほどあげたようなむかっとするような場面で「比較的すばやく」舌打ちができるようになった。
あまりよいことではないが・・・
しかし、まぁ前進は前進である。
いつになれば私は自分で自分を否定せずに生きられるのだろうか。
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