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人生、消去法
世捨て人のつぶやき




私が師と仰ぐネット賢人、finalvent氏が超久しぶりにブログを更新された。


なんとその前の記事は1年以上前の2021/9/18である。



最新記事は献本された本を読んだことに始まる。



著者は高村友也さんという方で、東大の理系から哲学科(理科二類から文学部)に移り、慶応の大学院に進み、哲学を学んだ人のようである(Amazonの著者紹介による)。



その本は、「死の恐怖をめぐる哲学エッセイ」という副題が付けられていることからもわかるように、「死」についての哲学的思考をまとめたもののようだ。



おそらくこの著者は、finalvent氏なら「わかってくれる」と思ったのだろう。



そこはfinalvent氏も察して、「死の恐怖」についてこれまでブログに書いてきたことを思い返しておられる。



しかし、finalvent氏の反応は少しばかり芳しくない。



60歳を過ぎ、まだまだとはいえ老境の初めに足を踏み込んだfinalvent氏からすると、「若いなぁ」というのが率直な感想なのだろう。



この本では、「性」のことが避けられているらしく、そこにfinalvent氏は一段の深みからの考察を加える。



ここからは、私の話になる。



このブログの過去のエントリでも書いたが、私には「死の恐怖」というものがない。



全く「理解」できない。



それは、死の恐怖から哲学的問いに追い詰められる高村さんや、夢で死の恐怖を感じて絶叫して目覚めるというfinalvent氏に比べれば、幸運なことなのかもしれない。



しかし、である。



私の到達した答えは、むしろ、絶望的なものだった。



かんたんである。



「私は生きていない」ということなのだ。



生物学的には確かに生きてはいる。



しかし、「魂」の次元で「死んでいる」のである。



おそらく、この感覚を共有できる人は多くはない(が、少ないとも思わないが)。



私には、高村さんやfinalvent氏がその意味で少し羨ましい。



こんな言い方をしたら、お二人からは嫌われてしまうだろうが。



「確かに生きている」という実感があるからこそ、「死ぬ」ことが恐ろしく感じられるのである。



ここはもう理屈ではない。



確かに生きている人間には、死は生の対極として現れる。



逆に言えば、生きていない人間にとっては、死はどこまでも「手に入らないもの」なのだ。



私ももう四十八だ。



四十歳で初老と言われるのだから、私も立派に老境に差し掛かっていることになる。



しかし、未だにわからない。



「死」というものが。



私の死によって失われるものなど何もないようにしか感じられないからだ。



finalvent氏のブログ内容に戻ろう。



氏はそこで哲学者の中島義道について言及する。



中島が、師となる大森荘蔵の門を叩いたときのエピソードだ。



これは、私も中島の著書のどこかで読んだ記憶がある。



ここで、やはり私はスタート地点に立てていないのだなという絶望にとらわれる。



仕方がないといえば仕方がないのではあるが。



はてさて、私はいつになれば「生き始める」ことができるのだろうか。


 


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