曇り、26度、77%
女の人って、せっせと家にいろんなものを持ち運んできます。毎日の食べるものから、身に付けるもの、家の中の細々したものを日に日に持ち込みます。食べるものは、目の前から消えて行きますが、衣類や食器は、溜まる一方。義母や母を見ていても分かりますが、食器などもう要らないだろうと思うのに、色々理由付けをして買って来ます。ましてや私の母は、ほとんど料理らしきものをしませんでした。それでも、皿小鉢を買い込みます。
食器に至っても、好みが全く違う母と私です。食器の整理も潔く始めることが出来ました。香港から食器の類いを持ち帰るまでの、当座の主人と私の使う皿とお椀、これらは、いずれ処分するものです。それ以外に、私が使い続けようと思ったものをごく少々残しました。先日、荷物を開けて使い続けるつもりの残したものの少なさに、選択した私ですら呆れる程です。
見出し写真は、京都で焼き物をなさっている番浦史郎さんの銀彩の15センチ正方の皿です。これは母が最後に求めた食器だと記憶しています。亡くなる10年程前のことです。福岡で個展をなさった時に求めたのだと言っていました。ちょうど、番浦さんが見えていて、一枚お皿をおまけにくださったとも言っていました。和食器は普通5枚一組、ここには6枚あります。「福」の字も伸びやかで、この皿に何をのせようかと想像が膨らむ皿です。
これ以外は、6つの片口だけが私の食器になります。 片口やピッチャーなどの口のついた食器が大好きです。丸でも四角でもない、ちょっと口がついているだけで、アクセントになって、大きいものも小さいものも片口はテーブルに変化を付けてくれます。元々、お酒を注ぐ酒器が片口の初まりとされていますが、片口に残った汁物は、始末よく元の瓶に返すことも出来ます。
母の使っていた片口を見て、私の片口好きは、母譲りだったのだと気付く有様です。母の片口は古くから使っていたものばかり、今では見かけないやさしい形をしています。片口、ひとつ難があります。このかわいい口が欠け易いことです。母の片口、欠けの入ったものもあります。母の使ったもので残したのはこれだけ、そう思うと大事しなくては。