モルツーの日々@競馬と本と日本史他

本が好きな書店員(出版社営業部から書店員に出戻りました)。史跡巡りの写真を素敵に撮りたい。馬も好き。

大河ドラマ『平清盛』に秀衡登場

2012年08月20日 | 奥州藤原氏

京本正樹だそうですよ!藤原秀衡。

コチラのニュースの写真に鼻血噴きそうでした。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120819-00000313-oric-ent

清盛とは交易で繋がりがあり、しかし源氏の義経を匿うことでその関係に一石が投じられる・・・的なカンジなようです。
上記ページの写真が妖艶すぎてビックリです。

秀衡と言えばこれまで、大抵「じじい」として描かれて来ました。
中央政権に取り込まれず、かといってあからさまに対立するでもなく・・・という、今の日本の政治家に見習って欲しいほどの外交上手。
付かず離れずのバランスを見事に取っていた「タヌキジジイ」なイメージです。
今回、その策謀ぶりは存分に描かれるようですが、いやいや、若いですな!
・・・と思ったのですが、よくよく考えてみるともしかすると秀衡ってそんなにジジイじゃなかった可能性もあるのです。

没年齢がハッキリしないのですが、一説(『結城系図』)では没年齢66歳と書かれているとか。
亡くなったのが1187年なので(『結城系図』はこの没年が1年ずれてるのでハッキリしないわけですが)、とりあえずまとめてしまうと「1187年に66歳で死亡かも」となり、てことは清盛が全盛期を迎えてる中で起きた大事件「鹿ケ谷事件」(1177年)当時、平泉の秀衡は56歳。
京本正樹はウィキ情報で今年53歳。
というワケで、むしろ忠実な年齢配役なのかもしれません。

まぁそもそも今年の大河ドラマは7歳児や11歳児をそのままオトナの役者が演じていたり、松田聖子が70歳近いはずの役をやっていたりしてるので、もはや見た目年齢はアテにならない事態にとっくになってるので、いまさら秀衡がジジイ姿でなくても大した問題ではないのかもしれませんけれども。
ちなみに清盛は、前回放送(太政大臣・1167年)49歳。
1177年には59歳。
秀衡の方が3歳年下だった可能性もあるんですねー。

念のため繰返しますが、享年66歳説はあくまで「説」の一つですが。



ところで実はその他、神木隆之介の義経もすごく楽しみすぎて(タッキーの『義経』で、幼少期の義経役をやっているのですが、その義経がかわいかった!
なんとこのブログを書き始めた2005/1/16に「かわいい!」と書いてました。
(コチラ→ http://blog.goo.ne.jp/mal23131/e/dc9f407b24306c76f01562059b1e26f6 )
2005年が『義経』の放送年だったわけですね。
1/16ということは始まりたてで、まだタッキー義経にまで成長してない頃ですね。
タッキー姿に成長しなかった神木義経がどんなか、とても楽しみです。
これまで録画してはいても観たはしから削除してた『平清盛』ですが、神木クンと秀衡が出てくるのでは、保存版にするしかありませんなっ。


なぜか視聴率の悪い今年の大河ドラマですが、面白いです。
毎週、楽しみに観ています。
皆さまも良かったら、ぜひご一緒に♪



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奥州藤原氏の小説~新刊と今更気付いたものと~

2011年09月21日 | 奥州藤原氏
風の浄土
クリエーター情報なし
光文社

中津文彦 著 (2011/7/20発売)
義経を中心とした、奥州藤原氏の物語。
新刊です。



駿女 (中公文庫)
クリエーター情報なし
中央公論新社

佐々木 譲 著 (中公文庫 2008/11発売)
(単行本は2005/11発売)

馬に乗る少女と、義経の落胤の少年が、頼朝の奥州平定の戦に巻き込まれていく。
義経が泰衡に謀殺されるところから物語が動き出すので、泰衡、出て来ますよー!!



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平泉行ってきました

2011年08月16日 | 奥州藤原氏

世界遺産登録後の平泉に行ってきました。
(・・・7月末の話でして、このお盆休みに行ったわけではないのですが。)

8年ぶり、4度目の平泉です。

現地では、mixiでお世話になってるすーさんに案内していただいたり(すーさん!その節はお世話になりました!)、駅前の軽食屋さんのおばさまから「東日本フリー切符の時は駅前もとても賑わった」という話を聞いたり、金色堂付近にたまたま居たバスガイドさんを捉まえて棺の置かれてる向きを解説してもらったり。(その人のツアーとはゼンゼン関係ない個人旅行なのに!)

そして聞く人聞く人、一様に「世界遺産効果アリ」とおっしゃってました。
たしかに大層な賑わいでした。
文化遺産センターでも中尊寺でも、観光バスがどかどかと到着してて。
特に中尊寺の宝物館(三衡蔵)のあの混み合いっぷりは、世界遺産バブルを非常に感じました。
人混みが苦手な私としてはややストレスの溜まる状態ではありましたが、繁盛してるのは良いことです。
観光産業であれば、寂れてるより賑わってるほうが良いのは間違いないわけで。

ただ、中尊寺・文化遺産センター・毛越寺以外はあまり賑わっていなくて、旧観自在王院庭園も高舘も無量光院跡も柳之御所遺跡も、私がかつて訪れた時の観光客数に数人足した程度の人数しか居ませんでした。
あ。柳之御所資料館には観光バスが停まってたので、彼らが居る間は人口密度高かったです。
なんとなく、中尊寺~毛越寺ライン(途中に文化遺産センターがある)は「団体観光客向け」で、それ以外は「歴史マニア向け」になっている印象がありました。
世界遺産になっても、全体を見渡せば思ったほどの変化はないのかな、と。

また、現地の雰囲気も、思ったほど浮かれてはいませんでした。
もっとあちこちに「祝!世界遺産!!!」みたいな幟とかポスターとかが掲げられまくっているかと思ったのですが、平泉駅前に少しあったきりで、むしろ途中通った一関駅のほうが幟や小旗をみかけたような印象です。
沿岸部の被災地を慮ってのことかもしれませんが、町中を移動してるときも、そんなにわっしょいわっしょいなってる気配はなくて。
地に足ついてるカンジが、非常に好ましかったです。



その世界遺産問題。
今回、平泉が世界遺産になってネットでよく目にしたのが、「平泉なんてガッカリ遺産じゃねぇの?」という批判でした。

目立ってる存在にいちゃもんつけるヤツは必ず出てくるものですし、そんな俗っぽい言いがかりをいちいち相手する必要はないと思いますが、やはりいい気分はしないものです。
なので、「実際に行って、平泉の遺跡がいかに貴重ですばらしいものかを解説できるようなネタを仕入れたい!」と思っていました。

しかし、無駄なのかもな、と、あの団体客を観てて思いました。

「あんな風にちらっとしか観ないでその土地の何が分かるんだろう」と思ったのです。
世界遺産だろうがそうでない名勝地だろうが、そもそも観る人に「知ろうとする意識」がなければ伝わらないな、と。

そして、「旅」についてちょっと考えてみました。

非日常を味わう『旅』には、「ガイドブックに載っている有名な場所に『行ってきた!』と自慢することが目的な旅」と「その土地のことが知りたいと思って行く旅」という二種類があるのだろうと思いました。


平泉を「ガッカリ遺産」だと思う人はたぶん前者で、「自分はこんな凄いのを見たんだぜ!」と自慢するためには、ビジュアル的に「凄く」なければ自慢にはならないわけです。写真を見せた瞬間に「わぁ~!凄い!」と相手に言ってもらえるようなビジュアルが求められます。
残念ながら、平泉にはそれがありません。
金色堂はビジュアル的にはかなりの合格点なのですが、あいにく金色堂の前では写真が撮れないため、「金色堂をバックに自分が映る」ということができない、つまり証拠写真が残せないのですね。これではなんとなく不満が残るわけです。

一方、「その土地のことが知りたいと思って行く旅」をする人は、ビジュアルにこだわりません。
景色とか音とか空気とかの五感での印象や「その土地の人とのふれあい」ってやつを大事にするでしょうし、たとえそこに建物が残っていなくてもその「史跡」に萌えることができます(ワタシはコレ)。
目に見えないものの価値を大事にして、むしろそれに「酔う」ことが目的なわけです。
この中の史跡に萌えるタイプは、その土地にまつわる知識にもこだわります。
現地での説明板が重要ですし、事前に知識を仕入れてから行ったりもします。

ただし、どちらが良いというわけではないのです。
知識タイプの私も損してるなと思うことがありますし・・・例えば巨大建築物的な「ビジュアル系観光物」を突然観に行ってもその建物の由来がよく分からないままだと、ビジュアル派が素直に「すごーい!!」と言ってる横で、「なにが?」みたいに冷めて観てしまって、そんな時は間違いなく損をしてると思うので(素直に凄い!と受け止めればいいじゃないかと)、楽しみ方はそれぞれだと思うのです。

しかし、殊、平泉に関しては、ビジュアル系の楽しみ方ではなく、知識系観光地なのだということを踏まえたうえで、じっくり時間をかけて観てまわっていただきたいなと思うわけです。
金色堂と毛越寺をちょろっと見ただけで「観たつもり」にならないで。
知識系観光地であると認識しておかないと、せっかくの遺跡見物が無駄になってしまいます。
私も歴女のはしくれとしてそれなりにあちこちの史跡を訪ねてますが、平泉ほど「分かりやすい遺跡」が見られる場所はありません。
建物跡である「礎石」がキレイに並んでますし、浄土庭園の「池の跡」がそのまま存在している。
文化遺産センターで知識を仕入れて、そして史跡を観て、ぜひ想像力を働かせてください。

平泉は、遠い昔にも確かにそこに人が居て、そこから現代へ続いてる「歴史」をリアルに感じることができる、貴重な場所だと思います。

きっと現地でも今以上にもっと、想像を手助けしてしてくれる解説展示が増えていくと思います。
(私的には、iPhone等のカメラを向けると画面の中に再現映像が浮かぶAR技術での展示を待ち望んでいるのですが!!)
平泉が世界遺産として今後どう発展していくのかも楽しみにしつつ、私もまたチャンスを伺って訪ねて行きたいと思います。



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世界遺産へ行こう♪

2011年06月26日 | 奥州藤原氏

平泉ってどこ?奥州藤原氏ってナニ??

昔、よく聞かれました。
私が「奥州藤原氏についてを卒論のテーマにする」と、友人に話すと。

「義経が逃げてった場所だよ」とか「中尊寺金色堂のある場所だよ」「奥州藤原氏がそれを建てたんだよ」と説明してきました。
たぶん一般的には、「金色堂以外なにがあるんだろう?」という印象なんだろうな、と思います。

そんな印象でしかないことに残念な気持ちはありますが、しかしシンプルに考えると、その「金ぴかのお堂」こそが、世界遺産としてとてもふさわしいのではないかと思えます。
見た目がすごくキャッチーだし。
外国人にもアピールできるし。
「金」で「お堂」。
京都の「金閣寺」の印象も借りて、「黄金の国ジパング」をアピールできるじゃないですか!
日本人の感覚だと京都と岩手は一回の旅行で行くにはアリエナイ遠さですが、遠く海外から来る観光客にとっては、京都も岩手も大して変わらないのではないかと思いますし。
京都で金閣寺を観たあとは、岩手・平泉で、世界遺産に登録ほやほやの中尊寺金色堂も観ていただく、と。

遺産登録の便宜上、「浄土思想を現していてすばらしい」とか「『仏国土を表す資産として、顕著な普遍的価値』を認める」とかの理由付けがなされていますが、つまりは権威付けだし、そんな話は、歴史に興味無い人にとっては「ふーん」で終わってしまうハナシ。
平泉LOVEな立場からすれば、登録によって知名度が上がり、観光客が増えて、平泉の町が賑わってくれたらいいなぁと、思うのです。
付随して、お金が入れば発掘や研究もきっと進む。
そしたら今以上に「当時の平泉」の様子が分かるようになって、私も嬉しい、と。


で、キャッチーな金色堂から平泉に興味を持ってもらえたところで、それ以外の見所もご紹介。

まず挙げるべきは、毛越寺!
もうつうじ、と読みます。
ここは、まさに「浄土思想」のポイント。
今も現役のお寺なのでよく年末の「行く年来る年」に出てきたりもしますが、ここに、浄土庭園があります。
京都宇治の平等院と同じものが、遥かみちのく・平泉に、残っていたのです。
庭園の「お堂」はもう無いのですが、「池」と橋の中間地点である「中島」と「お堂の柱跡」によって、当時の様子が偲ばれます。
全て残ってるわけではないのが、ミソ。
池の対岸からお堂のあった方向を眺めると、当時の様子が目に浮かぶのです。
目の前には赤い橋が弧を描いて架かっていて。
その先には艶やかなお堂が、両脇に回廊を延ばして建っていて。
池にはきっと舟も浮かんで、女房なんかが乗っていて。
平等院だとまんま残っている分、想像の余地が無いのですが、毛越寺ならダンゼン「1000年前」を想像しやすいです。
そんな「浄土庭園跡」が、平泉にはあと二つもあります。
観自在王院と、無量光院。
いくつも残っているというのは重要で、当時、頼朝が鎌倉幕府を開く直前のあの時代、京都からはるかに離れた東北の奥地にそんなにいくつものお寺や庭園をそなえた「都市」が建設されていたことは、実はもっと驚き、注目されるべきことなのではないかと思うのです。
例えば今なら・・・「過疎化がめっちゃ進んでそうな山奥の地域(具体的に〇〇県の山奥、とか言うのは回避)に、突如ビックカメラとヨドバシカメラとヤマダ電機と都庁のツインタワーその他ビルが建ち並んでて人も新宿並に居て賑わいまくってるカンジ」でしょうか。
京都が中心だった当時、他の地域では成し得なかった「都市の模倣」を、奥州藤原氏は平泉で成し得ていた、ということなんだと思います。


ま、シブイ浄土思想なんちゃらや歴史的価値云々はイマイチ!というかたへは、この御仁のおチカラを拝借。

源義経。
ヒーローですね。

鞍馬寺を抜け出した若き日の義経が過ごした場所が、この平泉です。
そして頼朝の挙兵に駆けつけ一旦は平泉を去りますが、後に兄に追われて逃げ込んだ先も、この平泉。
あちこちに、義経一行の気配があります。
中尊寺の山の入り口には弁慶の墓。
高舘は、義経自刃の地と言われています。
住居だったといわれる衣川舘も。(コレって伝承でしかないんでしたっけ?)
それらの史跡としての信憑性は、正直あやふやですが、彼らがこの平泉を歩き回ったことは、確か。
史跡巡りの醍醐味はこの「想像」で、平泉を歩きながら「あぁ、この道を義経はどんな気持ちで歩いたんだろう」と思いながら、ぜひ散策していただきたい!


そうそう。
金色堂のある中尊寺も、金色堂だけではありません。
月見坂という名前のついた、参道。
すごく気持ちのいい、アレ的な言い方をすれば「パワースポット」です。
中尊寺は山のあちこちにお堂やら建物やらがある作りで、金色堂はそのてっぺんにあります。
金色堂を目指すには、その山を登っていくことになり、けっこうな傾斜でご年配の方が心配になる道なのですが、その道がなんとも気持ちよいのです。
確か両側には、杉。
すらりとそびえる並木の1本1本が立派で。
途中の展望台からは、衣川古戦場一帯のたんぼが眺められて。
どこでもドアがあったら、私はまずあの月見坂に行きたい!と思うくらい。
気持ちのいい場所です。
ついでに言えば、金色堂の手前には中尊寺の「寺」としての本堂があるのですが、ここで売ってる「衡年茶」、オススメです。



ところで。
観光地としての平泉をこんな風にオススメしてる私ですが、観光地化や開発に気がかりな気持ちがないわけではありません。

初めて平泉を訪れたのは、大学3年生の夏。1998年。友人と二人で。
次は、翌年の1999年の夏。卒論のテーマに決めていて、就活から卒論へのシフトチェンジの区切り目として、一人で。
その次は、2003年の春先。雪解けを待って、友人と3人で。

一番ショックだったのは、2003年の、三度目に訪れたとき。
高舘からの景色が、一変していたのです。
初めて訪れた時の高舘からの景色は、すばらしいものでした。
北側を流れる北上川が緑の中を悠然と流れていて。
暑い夏だったのに、風が気持ちくて。
義経も、この景色を観て死んだなら少しは慰められたんじゃないか、なんて思いながら。
それが、バイパス工事開始の影響なんだと思いますが、緑が刈り払われていて、「開発」の哀しさを思いました。
また、駅から中尊寺への国道も、非常に整備されて歩道も広くなって「田舎道」の気配は全く無くなっていました。
山から木々が垂れかかってくるような国道が、すごくいい雰囲気だったのですけれど。

もちろんこれは、普段そこに住んでいない、観光客の勝手な言い分です。
そもそも柳之御所遺跡が見つかったのだって、バイパス工事計画による発掘調査があったからで、それがなければ今回の世界遺産への動きも無かった可能性もあるわけで。
開発や観光地化があればこそ、私も「平泉の当時の姿」を知ることができるので、それらを否定するわけにはいきません。
イチバンは、なによりその地域の人の生活なわけで。
来月、8年ぶりに平泉に行こうと思っています。
バイパスがどんなふうに柳之御所横・高舘横を通っているのか、観光地・平泉がどんなふうに進化しているのか、そんなわけでちょっとドキドキしています。
変わらずにいてほしい気持ちと、賑わっていて欲しい気持ちと。
うん。
でもまずは、やっぱり、地域の皆さま念願の世界遺産登録達成を喜び、祝したいと思います。
これを期に、より多くの人に平泉のことが知ってもらえますように。
奥州藤原氏の知名度が上がりますように。
折しも来年の大河ドラマは「平清盛」。奥州藤原氏と同時代の人物の物語です。

盛り上がれ!東北!!と、思います。


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平泉が世界遺産へ!

2011年05月07日 | 奥州藤原氏

まだ「内定」の段階ではありますが。

コチラ記事( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110507-00000002-maip-soci )によると、『6月にパリで開かれるユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産委員会で正式に登録が決定される見通し』とのこと。

どうやらここまでくると、もう登録は決まったも同然であるような気配です。
…「内定取り消し」なんてことがこれまでに例があるのかどうか、私にはよくわからず調査中ですが、「まだ分かんないぞー」と言ってる人は今のところ見当たらないので、たぶん大丈夫なんでしょう。

ずっと願ってたコトだっただけに、感慨ひとしお。
めちゃめちゃ嬉しいです。

これまでの経過は、コチラのページが分かりやすく信頼できそうです。
岩手県教育委員会による、世界遺産登録への専用ホームページ。
http://www.pref.iwate.jp/~hp0907/sekaiisan/index2.html
「世界遺産へ」のトップページから、左上「世界遺産の概要」→左下『世界遺産登録に向けた動き」と開いていった先のページがコレです。
(内定のニュースは土曜日早朝だったからか、震災関連でお忙しいのか、5/7(土)11:00am現在更新されてないのが残念ですが、そのうち更新されるかと。)

ここの表を見ると、暫定リストに載ったのが2001年(平成13年)。
国内のライバル争いを制して「日本代表」としてユネスコに推薦してもらえることになったのが2005年(平成17年)。
夢叶わず「登録延期」と決定されてしまったのが2008年(平成20年)。
でもすぐに文化庁・県・地元自治体でのチームがリベンジを決定。
「登録」への要素(どの建物や遺跡を「世界遺産」として推薦するのか)を見直し、再度、推薦書を提出し(2010年/平成22年)、審査を受けて、今日の「内定」にまで辿り着いたというわけです。


私が卒論で奥州藤原氏のことを一日中考えていたあの年は1999年なので、まだ世界遺産への盛り上がりはあまり目に見えなかったのが、今思えば残念。
しかし、私が社会人になってからずーっと登録を目指してがんばり続けていたのだと思うと、その時期の長さに、またもや感慨ひとしお。
長かったですね。。。

折しも、東日本大震災の復興真っ只中ではありますが。
但し平泉は、震災の影響は受けていないとのことです。
揺れた直後は、電気が止まってたりはしたようですが。
新幹線も、全線開通してます。
一関駅からの在来線や直通バスも、動いてるようです。

登録前の平泉。
すごく行きたくなってます。
観光を盛り上げるのも、復興支援になると言いますし!


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継桜王子の秀衡伝説を初めて知った

2010年12月05日 | 奥州藤原氏
熊野古道に藤原秀衡にまつわる伝説があることを、つい先日知りました。

きっかけは、こちらのブログさん。

「継桜王子」ってなんだろう?
「奥州藤原氏にまつわる話」ってなんだろう?
と検索してみたところ、ウィキペディアに項目がありました。

曰く、「継桜王子」という神社があって(王子様の名前ではなく社の名前なのですね)、そこには下が檜で上が桜というフシギな木がかつてはあって、その桜は「秀衡桜」とも呼ばれていて、なぜ呼ばれていたかというと、

「藤原秀衡が熊野に詣でた際、山中で夫人が産気づき男児を出産した。
乳児を連れて参詣を続けるわけには行かず、熊野権現の夢のお告げを頼りに立願し、滝尻王子の裏手にある窟に赤子を残して参詣の旅を続けた。
しかし、野中のあたりに差し掛かったとき、やはり我が子のことが気になり、それまでついてきた桜の枝の杖を地面に突き刺し、置いてきた赤子が無事ならこの桜も育つだろう、それが叶わなければこの桜も枯れるだろうと祈り、旅を続けた。
帰路、ふたたび野中に着くと桜は育っており、喜んだ夫妻は道を急いだ。
赤子は山の狼たちに護られて無事に育っていた。この子が後の和泉三朗忠衡である。」
(ウィキベディアからコピペさせていただきました)

という伝説があるのだそうです。
・・・置いてくなよ!狼かよ!!と、まずはツッこんで・・・、と。

そんな伝説があるだなんて始めて知りました。
ただ、ウィキペディアでも言及されていますが、秀衡が熊野に来た記録は無いようです。
熊野信仰はしていたそうですが。

とはいえ、秀衡氏が熊野に伝説を残してることが、嬉しいです。
当時、京でもよく知られた人だったんだろうなぁと、改めて思えて。

熊野古道に行くチャンスがあったら、ゼッタイ、探し出してお参りします!継桜王子!!



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求ム!「平清盛」に奥州藤原氏!

2010年12月04日 | 奥州藤原氏

2012年の大河ドラマは、「平 清盛」。
主演は松山ケンイチに決定し、ライバル役には玉木宏だそうです。(→コチラでニュースが読めます。)

この時代の大河ドラマは、楽しみ。
なぜなら、「えさし藤原の郷」も撮影場所になるハズで、画面の中の建物が奥州藤原氏に関するものであると思うだけでちょっとシアワセな気持ちになれるから。

「えさし藤原の郷」とは、奥州藤原氏の時代に平泉にあった建物を再現したもので、もとは奥州藤原氏を描いた大河ドラマ「炎立つ」の時に造られたもの。
そのロケが終了したあとも、観光地として、また、時代劇のロケ地として、活用されています。
最近では、「龍馬伝」も行われた部分があるようで。(ロケ予定も公表されていて、なんだか親切です)

しかし!
欲を言ってもいいかしら。

大河ドラマ「平清盛」に、奥州藤原氏も登場しないかなぁ・・・。
関連のセットが使われる、ってだけじゃなくて。
時代的には、基衡晩年と秀衡の時代。
劇中、奥州藤原氏の存在がクローズアップされると良いのですが・・・。

清盛が30歳の頃、平泉では基衡が摂関家からの年貢値上げ交渉のやりとりをしてる頃。
清盛が40歳の頃に「保元の乱」「平治の乱」。平泉では基衡が死に、秀衡の時代になってる頃。
清盛50歳頃には秀衡が鎮守府将軍に任じられて(1170年)、中央政府に奥州藤原氏のチカラが正真正銘、認められた頃。
清盛は六十数歳で亡くなっているのですが、その直前が、頼朝挙兵。
その際には京都の貴族の間で「奥州藤原氏が頼朝を打つために動いたらしい」「いや、それは誤報らしい」と、ウワサになっていて(『玉葉』などにその様子が。)、奥州藤原氏は源平争乱における「第三勢力」として認識されていたのです。

・・・クローズアップされても良い存在だと思うのですが!!!

出ないかな~出てきてくれないかな~奥州藤原氏!
もっと言えば、基衡!!登場に期待!!!
劇中で存在が触れられる程度でもいいからっ!!!
日の当たらない二代目に、ぜひスポットライトを~~~!!!


こんなの発見。ポチっちゃいました♪

都市平泉の遺産 (日本史リブレット)
入間田 宣夫
山川出版社



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東北地方の馬産からの変遷って?

2010年05月23日 | 奥州藤原氏

競走馬についての本や競馬についての本を読んでいると、「日本の馬の育成ノウハウレベルは欧米に比べて低い」という評価を、時々見かけます。
それらの評価をしてるのは馬産をしている人たち自身や、競馬サークル内にいる人たちなので、私としては「そうなのか、そーゆーモンなのか」と思うしかないのですが、いやでもやはり、どうにも不思議でならないのです。

確かに、日清・日露戦争あたりの「騎馬隊」についての本を読むと、たいてい「馬が人間の言うことを聞かなかった」とかいう話が出てきて、西洋の馬を乗りこなせていない日本人の姿が見え隠れし、それを思うと、「日本の馬育成ノウハウ」についても「歴史が浅いからなぁ」と納得しそうになってしまうのですが、そこでふと、思うのです。

奥州藤原氏(鎌倉時代直前の頃、岩手県平泉に本拠地があった一族)について学んでると、「東北地方は駿馬の産地だった」ということが、よく出てきます。
摂関家への献上物についての文献にも「清衡馬」なんて記述が出てきたり(「藤原清衡」は、奥州藤原氏の初代)、その馬が「競馬(くらべうま)」で勝ってたりして。
また、遠野物語には、馬と結婚しちゃう女の話が出てきます。
曲り家なんかでは、馬と一つ屋根の下に暮らしてました。
馬が軍用馬として活躍していた当時の「軍歌」からは、馬に「戦友」として接していた様子が見て取れたりします。(「」「愛馬行」「愛馬よさらば」「愛馬進軍歌」など。歌詞を紹介してるページにリンク貼りました。ちょっと泣けます。)

これらを思うと、日本人と「馬」の関係ってそんなに浅いものではないと思うのに、どうして「欧米に比べて育成ノウハウのレベルが低い」という評価になってしまうのか。
東北での馬産ノウハウは、北海道には受け継がれなかったのか。
そもそも、現在、北海道で馬産をしてる人はどこから来た人なのか。(馬産をしに土地を求めて移ってきたのか、移ってきた土地・住んでた土地で馬産を始めたのか)
日本の在来馬の育成と、西洋馬(サラブレッド)の育成は、そんなにも違いがあるものなのか。
もしかすると、在来馬の馬育成はすっかり「農耕のための育成」となっていて競走馬・乗用馬の育成ノウハウは失われていたのか。(武士が騎馬としてたくさん使っていた時代にはそれなりの育成をしてただろうなぁと思うのです)
あぁ、「欧米に比べて育成ノウハウのレベルが低い」というのは、具体的にどのへんのコトについてなのかも、気にしておかないといけないか。


何をどんなふうに調べていけば分かるのか今はさっぱり検討がつきませんが、ちょいとあれこれ「お勉強」してみようかな、と思っています。
研究者とか本とか、なにか情報があれば、よろしくです。
(自分用メモとして、リンクしておきます)

参考予定ページ
http://www.iwatesan.com/iwate-keiba.html
http://www11.ocn.ne.jp/~abba/rekishi.htm
http://www.replan.ne.jp/blog2/?p=1926
http://blogs.yahoo.co.jp/replankeigo/56389426.html
http://www.town.shibecha.hokkaido.jp/yakuba/hyper/HIS8.HTML
http://www.iwanichi.co.jp/feature/hoof/item_5730.html

チェック済関連本
http://blog.livedoor.jp/twomalt/archives/cat_50048088.html


そうそう。
ついでに、「奥州藤原氏」以降の東北史も知ることができれば一石二鳥。
実は私、奥州藤原氏が滅ぼされてからのコトって、よく知らないのです。
頼朝によって「南部氏」という一族が赴任されてきたり、伊達政宗が史跡保存のなんちゃらをしたらしい、とかいう話がちらちらと見えつつ、幕末の「奥羽越列藩同盟」があってその後、会津藩が斗南藩へ・・・といったカンジで、飛び飛びというか細切れというか。
まぁこちらは、図書館の地方史コーナーに行けば充実してるとは思いますが。

語ってるうちに熱くなってまいりました。
久々に、歴女モードに火が点きそうです。


柳之御所遺跡、再現!

2010年05月01日 | 奥州藤原氏

柳之御所 史跡公園が開園、という記事を見つけてしまった!!
http://www.iwanichi.co.jp/ichinoseki/item_18004.html

ニュース映像もある。
http://news.ibc.co.jp/item_13546.html

ゴールデンウィーク直前の、4/24が開園日!
知ってたらゼッタイ連休使って行ってたけど、いやいや、岩手!新幹線を使えば近いハズ!
近々、土日でゼッタイ行く!
行ってくるっ!!!
堀とか池とかが再現されてる他、資料館には出土品も展示してるとのこと。

見たいぞー!!!
見に行くぞー!!!


追記:
こんなニュースも発見。
無量光院も、調査&アピールが進んでるようで。
http://news.goo.ne.jp/article/kahoku/region/20100421t35005.html

昔訪ねたとき、田んぼが池跡のラインを描いて作られていたのが印象的でした。
明らかに池の中島(橋が架かってる、真ん中部分)の跡が、田んぼの中に浮き出されているのです。
歴史と共に今の生活があるのだと実感できる、ステキな風景でした。


平泉~世田谷美術館~

2009年03月14日 | 奥州藤原氏
初日に行ってきました。意気込み充分。
平泉展。
しかも、大矢邦宣氏の講演も聞いて来ちゃいました。整理券ゲットして。
あんなに集中して人の話を聞いたのは久しぶり。
メモとか取って、聞いてしまいました。

非常に満腹。

展示の目玉は、やはりあの仏像でしょう。
普段は、とても近づけない金色堂の、さらに中にいらっしゃる仏像さまがた。
それを、1メートル未満の距離まで近づいてじっくりとこの眼で見ることができます。
もちろん展示はガラスケースの中ですが、通常の状態であればあんなにしげしげと細部まで見ることは叶わないワケで、ここぞとばかりに見まくってきました。
仏像の背後とか。

その次は「紺紙金銀字一切経」。
紺色の紙に、金文字と銀文字を一行ごとに色を変えて書いた写経。
キレイです。
金文字だけのものは中央政府でもやってましたが、銀字を交えたものを作ったのは、日本では平泉だけ。(元ネタは中国にあるそうですが。)
色の珍しさだけでなく、お経の前部分に描かれている絵にも珍しさが。
普通はもっとカタイ題材の絵柄になるその部分に、形式ばらない、自由なモチーフの絵が描かれています。その部分の絵だけ見ても楽しめるカンジ。
かつて豊臣秀吉によって、平泉から高野山へと大部分が移されてしまったのですが、今回のこの展示では、それらを合わせて展示してくれているとのこと。

そして、さすが美術館での展示。
螺鈿での装飾を、復元して展示してくれてました。
キレイなんだ、コレが。
レプリカであるとはいえ、当時の様子を想像するにはサイコーの展示。
黄金と螺鈿細工で飾った金色堂内部は、さぞかし光溢れる空間だっただろうと、うっとりしちゃいました。

他にも、透かし彫りのようにして作ってある荘厳具の展示もステキなコトに。
上からのライトに照らされて透かし彫りの模様が落とす影もその模様のままで、魅入ってしまいました。意図的なのか偶然なのか・・・いやでも「さすが美術館!」と思わせられました。意図的だと思いたい!

そして、中尊寺で売ってるあの「衡年茶」を、ミュージアムショップでゲット♪
懐かしの味なのです。あの緑色巾着風の袋もステキ。


困ったことに、4月に入ったところで展示が一部交代するらしいのです。
もちろん、それを観に、また行きます。