朝から嬉しいニュースが飛び込んで来て、休日の朝寝もぶっ飛んでブログ書いてます。
高橋成美・マービントラン組、2012年の世界フィギュアペアで3位!
銅メダル!!
日本初の快挙です。
技術的な詳しいことは私のような素人があれこれ言っても大した解説にはならないので他に譲りまして、彼らがどんなステキペアなのかを語らせていただきます。
快挙な上に、結果を知った高橋選手の喜び方がはっちゃけてます。
そろそろハタチも越えてる年齢だったような気がするのですが、この抱きつきっぷりはもう天性の才能としか思えないオイシサ。
みんなで遊びに行く時にこのキャラが居たら楽しいだろうなぁ、と思わされる具合。
ずっとこのままのなるちゃんでいて欲しいです。
相方のマービンもすごくイイ感じで、「やんちゃなお兄ちゃん」な印象。
思い切り喜んでる姿やペア相手を気遣ってる様子にきゅんきゅんきます。
かなり豊かに喜びを表現しているのに、なるちゃんのリアクションがさらに上を行っているのであまり目立っていませんが。
国籍問題でオリンピックどうするの?ってのがあるペアではありますが、この二人、放っておいても結婚しちゃうんじゃないのと私は思ってるのですが、如何??
ともあれ、まずは映像をどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=61OOffoS0ZY&feature=youtube_gdata_player
5分30秒あたりでぶらぶらだっこ&顔覗き込み、
7分40秒あたりで終わった後のグータッチ(演技直後の映像では見えなかった)と頭なでなで、
8分以降がキス&クライの映像で、おサル飛びつきが、それぞれ観られます。
キス&クライでの歓喜ぶりを実況するEURO SPORTのアナウンサーの笑い声に愛が感じられてステキ。
しかしチームが抱き合って喜んでる姿を見ているうちに、本当にすごい快挙を成し遂げたのだなと感じられて、泣けてきてしまいました。
映像終盤のがに股ガッツポーズも見逃せませんが、それに加えてステキなガッツポーズ写真を発見したのでリンクを。
(直接写真を持って来れれば良かったのですが、そういうワケにはいかないようなので。イイ画です。)
http://www.nikkansports.com/sports/news/f-sp-tp0-20120331-926148.html
フィギュア大国なんて言われてる日本ですが、ペアやアイスダンスは寂しい限りなのが現状。
日本スケート連盟がその実力を認め、バックアップしている選手のリストを見ても、シングルは本当にいっぱい選手がいて、層が厚いってのはこーゆーことだよね!これぞフィギュア大国!と思えますが、ダンスとペアは一組ずつしか居ません。(ビバ!木下工務店!!)
↓
http://skatingjapan.or.jp/national/national_list.php?sports_id=2
アイスダンスでは、外国から引っ張ってきた姉弟が頑張ってますが出始めた頃は日本語しゃべれてないくらいでしたし、今回のこのペアもマービンは日本国籍ではありません。カナダ人です。
それでも、「ようやく…ようやくここまで来た!」という印象を、高橋・トランペアから感じることができます。
女子シングルでまず引っ張って、男子シングルが続いて、ペアとダンスはこれから!という所なのではないでしょうか。
なにより、この高橋成美という存在。
このキャラクターを活かしてフィギュアペアの一般認知度が高まれば、今はシングルでやってる選手達がペアもイイカモと思うきっかけが生まれないとも限りませんし。
ダンスは、もっとテレビで放送してくれれば、観てて楽しいのはむしろダンスだろう!と思ってもらえるでしょうし。
年金世代に社交ダンスが流行ってるのだから、それを氷上でやってるアイスダンスがウケないはず無いですし。
今夜のフジテレビのフィギュア放送で(今日は男子シングルフリーがメインですが)このペアの快挙がどう扱われるか、あえて希望を持って楽しみに待ちたいと思います。
なるちゃんへのインタビュー、観たいですっ!!!
追記:
Twitterで出回ってる写真ゲット。なる・・・オトコマエすぎるやろ。
♪いいね!と思ったら♪
♪ポチリお願いします♪
先端肥大症とか先端巨大症とか、または巨人症といった病状を聞いたことがありますでしょうか。
先日、ブラタモリの時間に代わりにNHKで放送されていた番組「NHKと東日本大震災」という番組が、とても興味深かったです。
「自分達は命を守る報道ができていたのか」という反省をふまえ、当時を振り返り、今後どうしていくかを検討・紹介した番組でした。
NHKオンデマンドで観られるようです。
(リンク先のページの右上に検索窓が)
報道というものに誇りをもって取り組んでいるであろうNHKの報道マン達にとって、津波襲来の警告を充分に伝えきれなかったという自責の念があるのだろうなと感じられて、胸に迫るものがありました。
折しもつい数日前の地震で津波注意報が出た時、私はテレビを観てはいませんでしたが、Twitterで「NHKのアナウンサーの呼びかけが洗練されている」という評価をみかけました。
恐らく、改善されて初めての津波注意報。
がらりと変わった警告アナウンスをしていたのだろうなと思っていたタイミングで今回のこの番組を観て、頼もしさを感じたのでした。
しかし私にとって興味深かったのは、私は震災当日の報道をほとんど観ていなかったのだということに、この番組を観てようやく気付いたことでした。
震災当日、私は職場待機の状態でした。
電車が止まり歩いて帰るのは無理がある状態で、食糧確保後はオフィスで電車の復旧を待っていたのです。
テレビはありました。
そのテレビで津波の映像を観た覚えはあります。
なので、報道を観るチャンスは大いにあったはずなのに、その時の内容をろくに覚えていないことに気付いたのです。
テンパってたんだなぁ・・・と、今更ようやく気付きました。
今回のこの番組で、東京湾にも津波警報が出ていたことを知りました。
当時、会社の誰も、あの場所での津波対策を心配する人はいませんでしたし。
それほど標高の高い場所ではないのですが、海からは遠いことで全く心配していませんでした。
今なら、地下鉄を通じて水がくる可能性に思い至って恐怖するかもしれません。
また、翌日・翌々日にかけての原発報道も、なぜか記憶にありません。
もう家に帰り着いて、ACのCMに悩まされながらテレビを点けていたはずなのに。
電力不足については心配してたので、原発がどうなっていたかは知っていたんじゃないかと思うのですが、あまりのことに脳みその理解が付いていって無かったのかも知れません。
原発事故の今後や放射性物質にえも言われぬ恐怖を覚えるのは、会社に行った火曜日だったと思います。
この時間差は一体なんだろうかと、自分で自分が理解不能です。
色んなことが同時に起きすぎて、とりあえず目の前のことで精一杯になってしまったのかなぁ、なとど自己分析しつつ、今回のこの番組を眺めたのでした。
当時分からなかったことが後になって見えてくることがある。
これは、歴史を学んでいると時々感じることですが、規模は小さいながら自分でそれを体験したのでした。
数年後に振り返ったときには、また違うものが見えるのだろうかと思いつつ、平穏な日々を願うばかりです。
♪いいね!と思ったら♪
♪ポチリお願いします♪
続きです。
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その一
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その二
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その三 (イマココ)
8. 13日(日曜日)
電力不足のことを知ったのがいつだったかは、よく思い出せません。
mixiのアカウント名に「△△@ヤシマ作戦中」といったものを見かけるようになって「なんだろう?」と思っているうち、「節電して被災地を支援!」のような投稿を見かけるようになり、「ヤシマ作戦」が何かを思い出し、電力不足で関東大停電の恐れがあることを知り、首都機能停止=被災地支援不可能ということを把握し、全力で節電に努めました。
そのうちに「計画停電」とか「輪番停電」とかのことが聞こえてきて、でもまさか電車は動くでしょうよ、とタカをくくってる気持ちがありました。
この日は確か午後からツレと会いました。
地元のファミレスでいわゆる「震災後の再会」を果たし、互いの状況報告をしてるうちに、近くの席にいた若者グループがスマホで停電の情報を得たらしく、「この辺は〇時からだってよ!」みたいな話をしていて、すぐさま自分も確認。
通勤に必要な電車の運行が気になりだし、ツレと共に最寄り駅へ。
改札まで登って行って目にした「計画停電のため終日運休」の張り紙のあの風景は、写真に撮ってあり今も時々眺めます。
これが、「自分の居る場所も被災地である」ということを認識した瞬間でした。
大きな揺れを味わっても、当日帰ることに苦労をしても、日常生活に支障がなければ問題はないのです。
すぐに立ち直って「コッチはもう大丈夫だから、そちらを支援しますね」と、力強く言えるのです。
しかし、通勤ができない・日常生活ができないとなると、精神的ダメージを受ける。
「終日運休」の文字は、私にイチバン精神的ダメージを与えた事象でした。
とりあえず上司に連絡し、出社できそうにない旨を伝えて休むことにさせてもらいました。
「運休が続くようなら方法を何か考えましょう」と。
次に、停電に備えるには何をすれば良いのかを考えました。
輪番停電の時間についてもよく分からないことが不安で、市内の地域によって細かく分けられた時間帯を読み解いて把握しようと必死でした。
トイレを流すための水をお風呂にため、買い置きの飲用水を確認。
あとはなんだろうなんだろう、どうしたらいいんだろう何が必要だろう…と、軽くパニックになっていたのだと思います。
余震も相変わらず続いていましたし。
9. 14日(月曜日)ホワイトデー
翌朝になると、終日運休の予定は変更され、朝の時間はどうやら会社までたどり着けることは分かってきました。
Twitterやら鉄道会社の公式ページやらをあちこち見て情報収集するうちに。
しかし、帰りの時間の保障が無いので、散々迷ったあげく、やはり休ませてもらうことにしました。
そして、まず自転車の修理。
放置したままだった自転車を近所の自転車屋さんに持って行き、パンクが無いかのチェック、チェーンに油、ブレーキもチェック、そしてライトも確認してもらって、使える状態に戻しました。
自転車さえあれば、平行してる他の路線の駅までたどり着けます。
あるいは、電車の来てる駅まで行けば、そこから乗ることもできます。
そう思って、その駅まで行けるかどうか行ってみようと思いました。
思えば、放射性物質がイチバン降り注いでる時だったかもしれないと今は思います。
原発が爆発したことも、知っていました。
それでもその時は「まぁ大丈夫でしょう」と、切迫感をもたずに行動してました。
しかしいざやってみて、電車の来ているその駅まではあまりに遠くてその方法は断念。
平行している他路線の駅まで行く方法に心を決めたのでした。
こっちの方法なら、かつて高校生の頃に毎日通っていた道(+数分)の距離。
道も分かるし、大丈夫だろうと思えました。
夜には会社から社員への一斉メールで「明日はちゃんと定時に来るように」と指示が。
停電が実施されても電車の運行が止まらない地域に住む経営陣と、電車が来なくて陸の孤島となっている地域に住む自分達との温度差を非常に感じた出来事でした。
ガソリンも不足してるから車で送ってもらうこともできないし。
もし首都直下地震がおきたら、車のガソリンは貴重な資源だし。
そんなことを考えていました。
10. 15日(火曜日)以降、それから
目に見えない放射性物質がどれだけ降ってきてるのか不安になりながら自転車40分+15分徒歩の通勤をしたり、帰宅時間に計画停電が実施されて真っ暗な中を走るバスに乗ってバス停からは懐中電灯を頼りに歩き、人はそこに居るはずなのに真っ暗に静まっている住宅街の異様さに恐れ戦いたり、水道水がヤバイという話が出てきて飼ってる亀の水槽の水はどうしたものかと悩んだり、亀という小さな生き物にとって水がどれだけ大切かを思うと自然を汚してしまっている自分達人類にどうしようもない嫌悪感を抱いたり。
事故が収束しないまま暴走したらアニメやマンガで観るような荒廃した世界に日本がなるのだろうかと想像して絶望感に苛まれたり。
(立入禁止区域に住んでたかたは、まさに今その状態なのだろうと思うと胸が苦しくなります)
ボランティアに行きたい・駆けつけたいけど、自分の体調不良やすぐに頭痛がする体力の無さを思うと現地に行くことは出来ずにもどかしく、信頼できる支援団体を探すのに必死になったり。
節電を頑張れば計画停電をしなくて済むのだ!と、計画停電地域(主にベッドタウン)で一日中過ごす人の為にオフィスでの節電を、「絆」という言葉を信じて頑張ったり。
そういえば、17日(木曜日)の夕方には、「大規模停電の恐れ」とかなんとかいう話になって、できるだけ自宅に帰ってくださいみたいな勧告が出たとか出ないとか。
勤務先の会社はどこ吹く風で定時まで働くよねモチロンダヨネみたいな流れで私も定時までいましたが、帰ろうとすると駅のホームは人で溢れていて、大変なことになっていました。
ふだんなら時間的に分散している帰宅ラッシュが、夕方イッキに発生した状態で。
あのパニックっぷりは、恐ろしかったです。
もしなにか都内から急いで避難しなければならないような事態になったら、ここは大混乱になる土地なのだなと思いました。
ありきたりな言い方になってしまいますが、とにかくなんだか色々ありました。
今こうして思い出しながら書き出してみても、うまく書き出せない気持ちがありますし、忘れてしまっていることもあると思います。
しかし書こうとしてみたことで思い出したことも色々ありました。
一年以上経っても、まだぜんぜん「終わって無い」と思います。
それは、復興が進まない、原発事故も終わってない、放射性物質の影響が分かるのはこれから、等のことの他、
地震活動期に入った以上、今後まだ大地震に見舞われる恐れがある、ということ。
ここ数日、少し大きめの地震が続いていますが、これが余震なのか、前震なのか、素人にはもうなんなのかサッパリ分かりません。
私にできることは身の回りの「備え」として、家具の固定をして揺れた際に怪我をしないようにして、避難生活に不自由しない準備をしておくこと。
そして、被災地へのなんらかの支援を続けること。
アクションを起こすこと。
そのモチベーションのために、あの当日のことを時々思い出してみるのは、有効なのではないかと思い、今回書き出してみました。
面白い読み物のようにメリハリをつけて展開できればよかったのですが、そのウデが無いため、このようなシロモノになりました。
お付き合いいただき、ありがとうございました。
「震災体験談」。
それぞれの立場、それぞれの地域での体験を書き残しておくことは、それなりに有意義なことではないかと思います。
あの日を忘れず、未来に語り継ぐためにも。
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その一
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その二
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その三 (イマココ)
♪いいね!と思ったら♪
♪ポチリお願いします♪
続きです。
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その一
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その二 (イマココ)
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その三
5.運転再開と帰宅途中のTwitterの威力
そして10時過ぎくらいに、私がいつも使ってる私鉄が運転再開とのTwitter情報が流れ出しました。
鉄道会社の公式ホームページは混みあっていてアクセスできなかったのですが、何人かの人が「今改札を通してもらった!」「間もなく動くって!」と、呟いたことから、デマではないだろうと判断。
そのうちに、私鉄公式Twitterアカウントからも運転再開の情報が発信されてきました。
大江戸線と乗り継げば家に帰れます。
ヨシ!と、帰る準備を始めました。
運転再開直後は物凄い混雑だろうなとは思いながらも、なんとなく本能の部分で、一刻も早く自分の「巣」に帰りたかったでのです。
しかし、この時の大江戸線のチョイスは失敗でした。
社内が混みあってるだけならまだしも、電車が進まないのです。
一駅停まっては15分くらい停まり続けます。
災害に強い設計になっているとの大江戸線。
地震の揺れが来ても大丈夫だろうと思えたので怖くはありませんでしたが、ぎゅうぎゅうの状態で駅に停まり続けるのはかなりキツかったです。
実は私鉄運転再開とほぼ同時に、いつも使ってる別の地下鉄も運転再開していたのです。
そっちに乗ればよかったなーと、非常に悔やみました。
(*この時は東京湾への津波のことは全く考えませんでした。東京湾を津波が襲った場合の地下鉄・地下道への被害が指摘されてるのを知った今、同じ状況になったら、地下鉄を使うのは控えるかもしれません。)
そして私鉄に乗るのも大変でした。
入口前に人だかりができていたのです。
みんな入口の方を向いて立っているので、入るために並んでいるのかな?とは思えましたが、確証はありませんでした。
係員が出て案内をしている様子もありません。
なんの情報も無いままで、これが本当にホームへの行列なのか分かりませんでしたし、本当に運転再開しているのかすら不安に思えてきました。
並んでる人に聞いても「やー、たぶん並んでるんだと思うんですけど・・・」と、やはりみんな確証はない様子。
行列の前の方の人なら状況が見えるのでしょうけれど、駅舎内にも入れないでいる状態では、さっぱり様子が分からないのです。
ここで役に立ったのは、やはりケータイで見たネット、特にTwitterでした。
駅名でキーワード検索すると、同時刻に同じ路線を使ってる人が情報を発信してくれていました。
自分の今いる駅が入場規制していること、その列が駅の外まで続いていること…。
この震災では何度も何度も、Twitterのありがたさを味わいました。
停電にならず、また、アクセス集中でもサイトがダウンしなかったことが大きいですが、「リアルタイムの情報」として最強でした。
デマに惑わされないよう、情報を受取る際に発信者の信憑性や他の発信者からの情報と照らし合わせること(軽い「ウラ取り」)が必要ですが、それを踏まえたうえで使えば、こんな頼りになるものは無いな、と。
自分のいる場所が入場規制の列の最後尾だと理解でき「ここで待っていればそのうち順番が回ってきて電車に乗れる」という安心感を得て、また人が集まってる中で風はよけられたので寒くは無かったので、あとはじっと待つだけと思って過ごせました。
しかし、ヤマダ電機の巨大街頭モニターの映像で「宮脇書店 気仙沼店前にいます。火災が発生しています。」というリポート映像が流れているのを眺めたあの時間は、一生忘れられないと思います。
書店さんは、私にとってお客様。
その書店さんからの電話も何度か受けた事があると思います。
見知った書店さんの前からの中継映像が凄まじくて、どうか無事で、と、強く祈っていました。
また、これから日本はどうなっちゃうんだろうと、心細くて泣きそうにもなりました。
ただ、この時はまだ「地震も津波も、日本人は何度も経験してその度に乗り越えてきたはず。」と自分を励ますことができました。
原発の問題をまだ知らずにいた頃です。
6.自宅到着、そして当日を振り返る
帰り着いたのは、午前2時過ぎでした。(当時のTwitterで確認できます)
会社を出たのは10時過ぎ・・・10時半くらいだったかもしれません。(こちらは確認できるものナシ)
大江戸線でハマってしまいやたらと時間はかかりましたが、混んでないルートを選べば多少途中で待つ程度で帰りつけたかもしれません。
実際、私より後に会社を出た人が(別路線の人ですが)先に自宅に帰り着いてたりしましたし。
今振り返ると、その数ヵ月後に台風で電車が止まって帰れなくなった時と、状況は同じでした。
私の場合、
・会社の建物がそれほど揺れず、避難の必要が無かった
・家族の安否が確認できた
・保護しなければならない人(子供など)がいなかった
・電車が夜のうちに復旧した
これらの条件が幸いしていました。
地元に子供がいて「不安な気持ちで待ってるだろうなぁ」と思ったら、徒歩でもなんでもとにかく家に向かって進もうとしたと思います。
じっとしてはいられなかったと思います。
また、高層ビルは長周期地震動によって、「ここに居たら危ない」と思う揺れだったのだと思います。
だから、そこから避難した人で都内が溢れたのだと思います。
そして、これは今後の自分単位の防災でも気になっていることですが、停電や火災が起きなかったことが何より幸いでした。
想定される首都直下地震でどうなるのか、今回の地震の経験が生かせるだろうことと、今回使えたものが使えなくなった場合のことを想像しながら、防災・減災の方法を考え続けたいと思います。
7. 12日(土曜日)
帰り着くと、エアコンが点いていました。
当時はいつも、帰ってくる時間に合わせてタイマーを仕掛けていたのです。
予定の時間に帰って来られなかったことで、数時間点けっ放しに。
すごく暖かかったです。
こちらは消して寝ましたが、余震が怖く、灯りとテレビは点けたままにしました。
結果、ひっきりなしの「緊急地震速報」に悩まされました。
消してしまうことも考えましたが、速報を知らされない恐怖を思うと消すこともできず。
後から、あれは誤報もだいぶ混ざっていたと聞いて、消しても良かったなーとは思いますが、あの時はとてもそんなことは出来なかったと、やはり思うのです。
翌日12日は、地デジ化工事とエアコン取替工事を同時に行う日でした。
「天気が悪かったら中止もある」と、日程が決まったときに言われていたので「昨日地震があったけどやるのかな」と疑問に思いながらも、その準備の為に部屋のエアコン周りを片付けていました。
寝不足でしたが。
朝10時前から始まって、14:45に「地デジ化完了!」とTwitterに投稿してます。
工事中は当然ながらエアコンは使えず、寒い中で過ごしました。
ネットをやりながら。
この頃はまだ、電力不足も原発事故も、私の脳みそには届いてなかったと思います。
どこかで情報を目にしてもただの噂と思ったか、まだその報せが広まっていなかったか…・
とりあえずこの日は、完了した地デジ放送を「映像、キレイなだー」とか思ってた気がします。
そして、CMが全て「AC」なことを、地デジのせいだと思っていました。
地デジ放送のCMはこれだけなのだと思っていました。
我ながらマヌケではありますが。
「ACのCMウザイwwww」みたいな呟きがネットでされるようになって初めて、事態を把握したのでした。
それと、この日のうちに、前々から「そろそろ買わなくちゃ」と思っていた米とトイレットペーパーを購入。
品薄になるだろうと予測して即座に行動した自分を褒めたいですが、あそこまで買占めが過熱するとは思いませんでした。
首都直下地震の危険が高まってるとの話が出回り、「東北の事態は明日のわが身」と考えた人達が行動した結果なのだろうとは思いますが、震災への備えはこれまで為されていなかったのだなぁとガッカリした覚えがあります。
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その一
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その二 (イマココ)
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その三
♪いいね!と思ったら♪
♪ポチリお願いします♪
あの直後の期間は、何がどうだったのか、よく説明できない気がして、ブログにまとめることができませんでした。
東日本大震災。
特に身内に被害が出たわけでも無いし、怪我をしたわけでもない。
「被害」と言えば、当日電車が止まってしまって帰れなかったことと、翌日以降の電力不足による不便さぐらい。
(どれくらいの被害を受けてるかよく分からない「放射能」という問題はあるけれど)
当時どんなだったかを書いておきたいなと思ったものの、手元のメモノートに思いついたままにメモしているだけで、一年過ぎてしまいました。
丸一年と一週間という中途半端な日ですが、私にとっての震災の記録を、当時のツイッターの記録と直後のしばらくの間書いていた覚書をもとに、書き出してみようかと。
ストーリ展開とか盛上りとか見せ所とか全く考えず、時系列にそって、「2012年3月半ばの今、思い出せる当時のこと」を書き綴っていきます。
長いので、いくつかに分けて。
1.当日昼間
「今日が終わればお休み♪」と、週末の予定に思いを馳せてました。
今週は競馬やりたいなー、なんて。
お昼ごはんは、当日が開店初日だった、大戸屋 飯田橋店へ。
オープンしたての、従業員さんのテンパり具合を観察して「大変そう~うひゃひゃ」みたいなカンジで楽しませてもらったりして。
2.揺れた瞬間
地震が起きたのは、その後。
私と入違いで休憩に出る上司が、その休憩から戻ってきたときでした。
上司がその大戸屋のチラシをどこかからもらってきて私に渡してくれたことが、揺れの記憶と同時なので強烈な記憶になってます。
最初は、フロアを歩いていたその上司が気付かない程度の揺れでした。
震源が遠かったから、グラグラと揺さぶられるカンジではなく、ゆったりと揺られるカンジの揺れだったのだと思います。
そして、途中で突如グラッ!と大きく揺れ出したのです。
これが怖かった。
今まで体験したことも話に聞いたこともないパターンだったので。
途中から突然大きくなって、しかもいつまで経っても収まらない。
異様さを感じて、そのことが怖かったです。
ただ、命の危険は感じませんでした。
他の場所(東京都内・東京近郊)にいた人の話を聞くと、コンクリ道路が波打ってたとか、ビルのガラスが湾曲してて落ちてくるかと思ったとか、街頭がぐにゃぐにゃ揺れてたとかが、聞こえてきますが。
私は、4階部分にいて、しかも柱近くの壁際の席で、机の下にもぐっていました・・・たぶん。
どんな行動をとったかハッキリとは思い出せないのですが、揺れが収まったときには机の下にいて、地震速報を受け取るために(当時すでに)会員になってたウェザーニュースから送られてきた地震情報を見て震源が宮城県だと知って驚いた覚えがあります。
…机の下でケータイを見た。
揺れた瞬間はチラシを受け取ってたわけだから、その時は席に座って上司とやりとりをしていたのだと思います。
そこから、「これは大きい、ヤバイ」と、机の下にもぐったのだと思います。
本当に大きな揺れはそんなことも出来ないほど激しく揺れると聞いているので、潜り込む余裕があることで気持ちの余裕もできていたのかもしれません。
正直、電車が止まるほどの事態だとはその時は全く思わなかったです。
目の前のことで頭がイッパイになってそのことに思い至ってなかっただけかもしれませんが。
非常事態であることを認識したのは、しばらくして窓の外を見たら近隣のオフィスから人が出てきてたのを見た時。
あ、揺れが収まったら建物の外に避難しなきゃいけないのか、と。
そこで、社内の一部の人(外への避難希望者)たちと、上着を着て鞄を持って、建物の外へ。階段で。
「そこまでする必要は無いでしょ」的な、あるいは「いや、こんな時は外に出る方がヤバイんだ」的な考えの人は、建物の中に残っていました。
ちなみに飯田橋のそのビルのエレベーターは、階数表示のランプが消えて止まっていました。(復旧は翌日の昼過ぎだったとのこと。約20時間。)
3.一息入れてから、飯田橋の様子を
少し外で「揺れたねー」「怖かったねー」とやりとりしたあと、「(自社の)他の人出て来ないねー」「戻るかー」というカンジで戻って、余震が続くなか定時まで仕事を続けました。
親・兄弟・ツレとメールでの連絡がつかないことが不安ではありましたが、電波が繋がらないなら仕方ないヨネーといった具合で。
(およそ1時間後くらいにはそれぞれからメールが届きました。その後も、リアルタイムのやりとりは無理でしたが何度か送信を試せば飛ばせました。)
そのうちにJR・私鉄・地下鉄が止まっていて復旧時間不明との報せが入ってきて、「電車が動き出すまで時間がかかるならそれまでの食糧が必要だな」ということになり、買出し部隊が出掛けますが、目ぼしい食糧がもう売り切れていて、菓子くらいしか手に入れられず。
この辺りから、私も危機感が出て来ました。
買出し部隊第二陣が出ることになったので、社内でじっとしてるのもキツイし街の様子も見たいしと思い、私も付いていくことに。
口開けてエサを待つタイプじゃないんだな、自分。と、改めて認識しました。
女子3人で繰り出した飯田橋は、異様な事態になってました。
駅前は、バス待ち・タクシー待ちの行列がつづら折。
車道はすでに大渋滞。
食糧を求めてラムラに向かったのですが、内部のホール部分では早くもシートを敷いて座っている人が沢山いて、そして靴売場が大盛況でした。
公衆電話に行列もできていました。
外は寒く風が強くて、「歩いて帰るのは無理!」と早々に諦めました。
混雑した地域を徒歩で抜ければ、途中までツレに車で迎えに来て貰って帰れるかな等と考えていたのですが、あの強風ではとてもとても。
電車の復旧待ちが確定した瞬間でした。
幸い、食糧は店員さんに無理を言ってラストオーダーを受けてもらって確保できましたし、遅くとも朝になれば電車は復旧するだろう、もしダメでも昼間の暖かい時間なら歩いて帰れるだろう、という算段をした覚えがあります。
そこからは、社内に戻って長い待ち時間を待ちました。
4.職場待機
非常事態ということでなし崩しに解禁になってしまった「会社でのネット閲覧」を憚ることなく行い、Twitterで呟き、やりとりをし、電車の運転再開の情報をひたすら待ちました。
応接室にあったテレビ(地デジ化にともない処分されてしまいましたが、当時はまだアナログ放送だったのでそのテレビも観れたのです)で津波の映像も観ていました。
しかし当時は、被害の大きさを知らずにいました。
家が流されてはいましたが、住人はちゃんと逃げているだろうと思って観ていました。
(いや、「逃げていてくれ」と祈るような気持ちもあったかも知れません。つまり「逃げ切れずにいる人がいるかも」と、ココロのどこかで思っていたような気もします。)
その時は正直、「東北の市街地で火災が起きている」というニュースの方が恐ろしかったです。
どうか無事で・・・!と。
雪が降っているのもショックでした。よりにもよって・・・と。
それらのニュースをテレビを見ていた頃、こちらの地元を走る消防車・救急車のサイレンも聞こえました。
たくさん走っていく音が聞こえて、もしや火事が発生しちゃったのかなと不安になりました。
テレビでは九段会館のことが報道されていたので、そこへ駆けつける車両だったのかもしれません。
九段会館の被害についても、その時はまだ、けが人が出た程度なように思っていたような気がします。
Twitterやその他ネットを使いこなしまくりの人が多い我が社。
中東武力グループが中継・発信する被災地映像を見たり、「東京タワーが曲がった」という情報に「うっそだぁ」みたいな反応をしたらデマではなく本当だったり、なんだかいろんな情報が飛び交ってた気がします。
大江戸線が真っ先に運転再開したのだったと思います。
さすが。
練馬駐屯地と国会議事堂を繋いでいるという話はダテじゃないなと感心しました。
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その一 (イマココ)
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その二
私の東日本大震災(1年経って思うこと) その三
東日本大震災支援でちょっとステキだなと思うものに遭遇したので、ご紹介。
Twitterで見かけてページに跳んでみたら、どうやらシャンティ国際ボランティア絡みのものなようで。
ここがやっている「絵本に翻訳シールを貼って海外の難民キャンプの子供達に贈る活動」に時々参加させていただいてるので、ここならお金を渡しても安心できると思える団体。
被災地への支援活動でも、発生直後の食糧不足が一通り落ち着いたあとは、移動図書館で支援をしているこの団体。
本絡みなのでとても私は興味を持っていたのですが、そこが、図書館再生の支援をすると知っては素通りできません。
早速私も参加させていただきました。
本はココロの栄養。
支援のチャンスを与えてもらって、感謝感謝です。
とある1頭の馬を軸にして紡がれる、戦争が引き起こす悲劇を描いた作品。
動物モノで戦争モノだなんて、薄っぺらいお涙頂戴なモノだったらヤだなと思ってましたが、そこは巨匠スティーヴン・スピルバーグ。
芸術性の高い、面白い映画でした。
特に、クライマックス。
主人公である馬が戦場を駆け抜けるシーンは、説明など無いまま、とにかくただ馬が走り抜けていくだけなのに泣けました。
そこに至るまでのストーリーの中で描かれてきた、戦争によって辛い思いをした人間達・馬達の、抑圧されていた様々な思いがほとばしっているようで。
私の勝手な投影かも知れませんが、盛り上がるBGMと相俟って気持ちが高ぶってしまい、人間の勝手で戦場に連れてこられた主人公(馬)が全身でその哀しさ・辛さを表現しているように感じられて、泣けて泣けて。
セリフやストーリーではなく、そんな風に観客を泣かせられるあたりが、巨匠、流石です!と、大満足させられてしまった次第。
動物モノによくある「動物の一生を追う物語でそいつが死んでハイ哀しいね。」なんてゆー作品ではなくて、とても大満足でした。
ところでコレ、原作を全く知らずに映画を観ていてふと不安になったのですが、原作ではもしや動物達がしゃべったりしちゃいませんかね?
映画の中では、アヒルや馬2頭がいつ人間の言葉をしゃべり出すやらと不安になることがしばしば。
馬が主人公なのだからそんな雰囲気になるのは仕方ないにしても、時々、「ナルニア国物語」の動物達のようにしゃべるんじゃないかと思わせられる演出があったのが、ひっかかると言えばひっかかりました。
ひょっとして何か原作に沿うカタチだったのかなと思うと、原作を読んでみたくなってみたり。
いずれ、読もうと思います。
原作はコチラ。
戦火の馬 | |
クリエーター情報なし | |
評論社 |
マイ読書ブームもやや下火に。
3冊しか読めなかった。
マイ仏教 (新潮新書) | |
クリエーター情報なし | |
新潮社 |
震災本だらけじゃ気が滅入りそうだったので、箸休め的なものを。
みうらじゅんによる、仏教エッセイ。
みうらテイストに包まれながらも仏教の思想が分かりやすく伝わってくる気がしました。
世界が感嘆する日本人~海外メディアが報じた大震災後のニッポン (宝島社新書) | |
クリエーター情報なし | |
宝島社 |
ただのお涙頂戴だったらイヤだな~と思っていたけれど、大丈夫だった。
国別に震災報道・反応を書き出していて、興味深かった。
中国・台湾・韓国それぞれの違い、アメリカ、イギリスそれぞれの反応、EU各国の「お国柄」が出ている反応など。
もちろん、全ての国が日本の困難に同情し心配してくれている気持ちが伝わってくるので、読んでて涙は流れてしまうのだけれど。
震災と鉄道 (朝日新書) | |
クリエーター情報なし | |
朝日新聞出版 |
『震災と鉄道、と鉄道』が正しいタイトルだと思う。
もっと、震災後の鉄道マンのアツい心意気の話が読めると思って期待したが、後半は完全にテツな話なだけでした。
リニアがどうとか新幹線の経営がどうとか。
前半の震災復興の話でも、他人のケンカのグチを聞かされてる気分になるような、あまり客観的に語られてはいなかった。
テツじゃない人が読むと、金返せと思っちゃうんじゃないかしらん。
ところでこれらを読んでいた2月の末、ツレに脳下垂体腫瘍があることが判明。
今のところ、本人はとても元気ではありますが、腫瘍が今後引き起こすであろう症状を考えると放っておくことはできないシロモノだとのことで、どうやら入院&摘出手術になるようです。
(詳しくはコチラへ→「股旅ギャンブラー」by股旅庵馬ん次) …パチンコの話?
びっくりしたし、手術だなんて怖い気持ちもありますが、物心両方での支援を力の限りしようと決意している次第です。
ま、日程などまだ決まってないので、来月も相変わらず本は読みまくると思いますけど。
いつもは年末年始のイチバン世間に商品が溢れてる時期に買っておくのですが、今回はすっかり忘れてました。
愛用の家計簿。
こだわりがありまして。
毎月給与支払日の25日から始めたい。
4月~3月のサイクルで続けている。
なので、「日付なし」の家計簿でないといけないのです!
愛用は、能率のメモリー家計簿。A5版。日付無し。
数年前にもやらかしたのですが、時期を逃すとホント手に入らなくなる。。。
あちこちの書店を周っても、もうコーナーが撤収されてるし。
amazonではプレミアが付いてかなりのいいお値段だし。
検索でひっかかってきたサイトに申込みましたが、その数年前には、申し込めてホッとしたのもつかの間、数日後に「すみません、売り切れでした~」みたいなメールが来てガッカリした覚えが。
今回はダイジョブかしらん。
ドキドキ。
新年度の用意はお早めに。