平泉ってどこ?奥州藤原氏ってナニ??
昔、よく聞かれました。
私が「奥州藤原氏についてを卒論のテーマにする」と、友人に話すと。
「義経が逃げてった場所だよ」とか「中尊寺金色堂のある場所だよ」「奥州藤原氏がそれを建てたんだよ」と説明してきました。
たぶん一般的には、「金色堂以外なにがあるんだろう?」という印象なんだろうな、と思います。
そんな印象でしかないことに残念な気持ちはありますが、しかしシンプルに考えると、その「金ぴかのお堂」こそが、世界遺産としてとてもふさわしいのではないかと思えます。
見た目がすごくキャッチーだし。
外国人にもアピールできるし。
「金」で「お堂」。
京都の「金閣寺」の印象も借りて、「黄金の国ジパング」をアピールできるじゃないですか!
日本人の感覚だと京都と岩手は一回の旅行で行くにはアリエナイ遠さですが、遠く海外から来る観光客にとっては、京都も岩手も大して変わらないのではないかと思いますし。
京都で金閣寺を観たあとは、岩手・平泉で、世界遺産に登録ほやほやの中尊寺金色堂も観ていただく、と。
遺産登録の便宜上、「浄土思想を現していてすばらしい」とか「『仏国土を表す資産として、顕著な普遍的価値』を認める」とかの理由付けがなされていますが、つまりは権威付けだし、そんな話は、歴史に興味無い人にとっては「ふーん」で終わってしまうハナシ。
平泉LOVEな立場からすれば、登録によって知名度が上がり、観光客が増えて、平泉の町が賑わってくれたらいいなぁと、思うのです。
付随して、お金が入れば発掘や研究もきっと進む。
そしたら今以上に「当時の平泉」の様子が分かるようになって、私も嬉しい、と。
で、キャッチーな金色堂から平泉に興味を持ってもらえたところで、それ以外の見所もご紹介。
まず挙げるべきは、毛越寺!
もうつうじ、と読みます。
ここは、まさに「浄土思想」のポイント。
今も現役のお寺なのでよく年末の「行く年来る年」に出てきたりもしますが、ここに、浄土庭園があります。
京都宇治の平等院と同じものが、遥かみちのく・平泉に、残っていたのです。
庭園の「お堂」はもう無いのですが、「池」と橋の中間地点である「中島」と「お堂の柱跡」によって、当時の様子が偲ばれます。
全て残ってるわけではないのが、ミソ。
池の対岸からお堂のあった方向を眺めると、当時の様子が目に浮かぶのです。
目の前には赤い橋が弧を描いて架かっていて。
その先には艶やかなお堂が、両脇に回廊を延ばして建っていて。
池にはきっと舟も浮かんで、女房なんかが乗っていて。
平等院だとまんま残っている分、想像の余地が無いのですが、毛越寺ならダンゼン「1000年前」を想像しやすいです。
そんな「浄土庭園跡」が、平泉にはあと二つもあります。
観自在王院と、無量光院。
いくつも残っているというのは重要で、当時、頼朝が鎌倉幕府を開く直前のあの時代、京都からはるかに離れた東北の奥地にそんなにいくつものお寺や庭園をそなえた「都市」が建設されていたことは、実はもっと驚き、注目されるべきことなのではないかと思うのです。
例えば今なら・・・「過疎化がめっちゃ進んでそうな山奥の地域(具体的に〇〇県の山奥、とか言うのは回避)に、突如ビックカメラとヨドバシカメラとヤマダ電機と都庁のツインタワーその他ビルが建ち並んでて人も新宿並に居て賑わいまくってるカンジ」でしょうか。
京都が中心だった当時、他の地域では成し得なかった「都市の模倣」を、奥州藤原氏は平泉で成し得ていた、ということなんだと思います。
ま、シブイ浄土思想なんちゃらや歴史的価値云々はイマイチ!というかたへは、この御仁のおチカラを拝借。
源義経。
ヒーローですね。
鞍馬寺を抜け出した若き日の義経が過ごした場所が、この平泉です。
そして頼朝の挙兵に駆けつけ一旦は平泉を去りますが、後に兄に追われて逃げ込んだ先も、この平泉。
あちこちに、義経一行の気配があります。
中尊寺の山の入り口には弁慶の墓。
高舘は、義経自刃の地と言われています。
住居だったといわれる衣川舘も。(コレって伝承でしかないんでしたっけ?)
それらの史跡としての信憑性は、正直あやふやですが、彼らがこの平泉を歩き回ったことは、確か。
史跡巡りの醍醐味はこの「想像」で、平泉を歩きながら「あぁ、この道を義経はどんな気持ちで歩いたんだろう」と思いながら、ぜひ散策していただきたい!
そうそう。
金色堂のある中尊寺も、金色堂だけではありません。
月見坂という名前のついた、参道。
すごく気持ちのいい、アレ的な言い方をすれば「パワースポット」です。
中尊寺は山のあちこちにお堂やら建物やらがある作りで、金色堂はそのてっぺんにあります。
金色堂を目指すには、その山を登っていくことになり、けっこうな傾斜でご年配の方が心配になる道なのですが、その道がなんとも気持ちよいのです。
確か両側には、杉。
すらりとそびえる並木の1本1本が立派で。
途中の展望台からは、衣川古戦場一帯のたんぼが眺められて。
どこでもドアがあったら、私はまずあの月見坂に行きたい!と思うくらい。
気持ちのいい場所です。
ついでに言えば、金色堂の手前には中尊寺の「寺」としての本堂があるのですが、ここで売ってる「衡年茶」、オススメです。
ところで。
観光地としての平泉をこんな風にオススメしてる私ですが、観光地化や開発に気がかりな気持ちがないわけではありません。
初めて平泉を訪れたのは、大学3年生の夏。1998年。友人と二人で。
次は、翌年の1999年の夏。卒論のテーマに決めていて、就活から卒論へのシフトチェンジの区切り目として、一人で。
その次は、2003年の春先。雪解けを待って、友人と3人で。
一番ショックだったのは、2003年の、三度目に訪れたとき。
高舘からの景色が、一変していたのです。
初めて訪れた時の高舘からの景色は、すばらしいものでした。
北側を流れる北上川が緑の中を悠然と流れていて。
暑い夏だったのに、風が気持ちくて。
義経も、この景色を観て死んだなら少しは慰められたんじゃないか、なんて思いながら。
それが、バイパス工事開始の影響なんだと思いますが、緑が刈り払われていて、「開発」の哀しさを思いました。
また、駅から中尊寺への国道も、非常に整備されて歩道も広くなって「田舎道」の気配は全く無くなっていました。
山から木々が垂れかかってくるような国道が、すごくいい雰囲気だったのですけれど。
もちろんこれは、普段そこに住んでいない、観光客の勝手な言い分です。
そもそも柳之御所遺跡が見つかったのだって、バイパス工事計画による発掘調査があったからで、それがなければ今回の世界遺産への動きも無かった可能性もあるわけで。
開発や観光地化があればこそ、私も「平泉の当時の姿」を知ることができるので、それらを否定するわけにはいきません。
イチバンは、なによりその地域の人の生活なわけで。
来月、8年ぶりに平泉に行こうと思っています。
バイパスがどんなふうに柳之御所横・高舘横を通っているのか、観光地・平泉がどんなふうに進化しているのか、そんなわけでちょっとドキドキしています。
変わらずにいてほしい気持ちと、賑わっていて欲しい気持ちと。
うん。
でもまずは、やっぱり、地域の皆さま念願の世界遺産登録達成を喜び、祝したいと思います。
これを期に、より多くの人に平泉のことが知ってもらえますように。
奥州藤原氏の知名度が上がりますように。
折しも来年の大河ドラマは「平清盛」。奥州藤原氏と同時代の人物の物語です。
盛り上がれ!東北!!と、思います。
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