池やん!まいど!おおきに!ごきげんどぅ!

仕事・今までの人生
このごろ悩みが多くて困ります。
周りの多くの人に救われているのを
実感する今日この頃。

2013年元旦 思い出す昭和の事

2013年01月01日 | 言わせてもらいます。
謹んで新年のお喜びを申し上げます。

と、そんな挨拶が当たり前であろうこの松の内だとは思うが、
今日はなんだかんだと昔事を思い出すことが多くて少し書き記してみようかと思う。
読まれる方々も≪そうだった≫とか、≪懐かしいなぁ~≫などと感じてくれると、
よろしいかもしれません。

私は昭和30年代の生まれである。
小学生まで世界情勢や経済の状況や政治に関しての記憶知識はほとんど無い。
それ以降の歴史読本でも読み触れる事は無かった。
10歳までの少年に60年安保や70年安保を理解しようというものが不可能。
しかし、少し前まで大きな戦争をしていたという知識はあったし
まだ昔話にならない話であったようには記憶している。

私が育った大阪市西区でもまだ、その傷跡というかその痕跡は至る所に残っていたが、
それが何であったかはまったく気づかないでいた。
最近になって、その子供当時の事の訳が理解できるようになりつつある。
例えば、今の中央大通りは私が子供の頃空き地であった。
大阪大空襲で市街がほとんど焼かれて都市整備を戦後行おうとした時に
大通りを作る計画で建設までの間、放任地であった。
大阪市立明治小学校(市内有数の伝統校=母校)の講堂の地下入り口には
分厚い鉄の防火扉があったし、またその校舎の屋上には焼夷弾であろうか?
不発が直撃したといわれる傷も見る事ができたように記憶している。

私は小さい頃から、車が好きで(これは多分に父の影響)、ほとんどの車名を
知っていた。
特に貨物車にあってはその構造、機構、用途など・・・・・、
また、やっと花咲きかけたであろうレースカーに関しては普通の子供の知識量では
なかったと思う。
いつも父の運転する車の助手席がお気に入りで楽しくて仕方が無い。
そんな車好きの私でも苦手な父とのドライブがあった。

≪生野峠(いくのとうげ)≫

私の母は、兵庫県養父郡八鹿町の出生で車でそこへ行く時は
大阪~神戸~姫路~和田山~八鹿という道程。
今ならもっと近い道が有るが、40年少し前は整備された道はそれしかなかったようだ。
大阪から6時間はかかっていたように思う。

その途中、いつも夜中近くにその峠を越えるのであるが、
いつも、その峠に差し掛かると誰彼と無く峠越えの怪談話をする。
それを聞いていると、本当に峠道のカーブの向こうによからぬ者が血だらけの形相で
手招きしてそうでそれが見えるのが怖くいつも寝たふりをしていた。
峠を降りた生野の街中の通過は狭い町並みゆえに片側交互通行で
その信号待ちか、又は同じように和田山の町の通過も片側交互通行であった。
その信号待ちのときに、「もう大丈夫!」と声をかけてくれて目を開けていた。
下記写真は、そんな夜のドライブを終了到着して知人の家の消防団車庫前での写真。
コロナは、父が運転してきた。



小学校4年生の時、万国博覧会(EXPO‘70)があった。
学校の遠足でも行ったが、家族でも2度ほど行ったように記憶している。
でも、あまり楽しくなかった。興味が無かった。
下記写真は、エキスポタワー!



その当時、ベトナム戦争の映像をテレビで良く見ていた。
その時の解釈は簡単で、アメリカ人が良い人、反するベトナム人が悪い人。
B52がすごく英雄の乗り物に思っていたし、
落とす爆弾の量のすさまじさに力強さを感じて感動していた。

戦争の内容を知ったのは・・・・・・・・・。
その後アメリカで反戦運動が高まり撤退を始めた中学生~高校生の頃。
ヘリコプターにすがりつく市民の姿。
すがりつく女・子供の手を振り払う兵隊。
サイゴンのアメリカ施設へ助けを求める人々を蹴り落とす兵隊。
「な~んで~?」とばかり疑問だらけの脳内であった。

この戦争の事実と意味を少し知ったのは・・・・・・。
まだそれからずっと後の20歳半ばを越えた頃。
≪地獄の黙示録≫≪ディアハンター≫

その悲劇の映像を思い起こし、中学生の頃に感じた心が戻ってしまい
深く人間の欲や権力を考えてしまうようになったのがつい最近の事。


権力を弄び、そしてまた自分達の為に権力を利用しようとする事は
バスを待つ人々の列に横入りする姿と本質は同様に思えてならないし、
権力者は、私にとって民意の支持を傘に着た独自行動だけをしているように
しか見えなくて、なんらその様相は古代より変わっていない。
公福祉を唱え、平和の維持を謳う事=他力を使用した地位・収入を守る自己保身。
世界平和や社会福祉の充実を唱える方々が、無言で意思表示ができない者々に
かえってどれだけの苦痛と失望感を与えているかを理解できないでいる。
また、その苦痛の及ぶ範囲はますます近年では深く潜航した部分で
隠密裏に拡散し浸透している力が有るように感じている。

田舎暮らしの結果の功罪であろうかもしれないと思うが、
この頃、先の詰まる芝居の嘘が良く見える。
見えすぎてしまう。

Miss Saigon with Lyrics - 20 - I'd Give My Life For You


その嘘による被害は必ず今の子供に降りかかる。
今の子供の将来の事を思うと・・・・・・・・。
ベトナム戦争に参画した国や双方の権力がベトナムでベトナムの無実の人々にした事を
皆さんはご存知でしょうか?
利用されゲリラ戦の隠れ蓑にされて一派一からげの考えから殺戮が繰り返された事。
日本はその行動に金を渡し国はその間発展を遂げた。

Miss Saigon with Lyrics Disc 2 - 02 - Bui Doi


当時のベトナムの権力の間の罪の元に生まれた子供と今の被災地の子供のおかれている
環境の違いは爆音は聞こえないであろうし、銃弾も飛ばないと思う。
そんな今すぐ命を失いかけたり、逃げ惑う事も無いかもしれない。

しかし・・・・・。

どうしても、目に見えない権力象徴の破綻による被害が被っているようにシンクロする。
枯葉剤の薬害は将来にわたり影響する事は共通であるし、
差別や偏見に発展する事柄になる様な事がすごく恐怖である。

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