六枚目のコイン

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バチカン最後の教皇!

2019年12月03日 15時20分04秒 | 未来
歴代のローマ教皇について、
『聖マラキの予言』なるものが存在するらしい。

それは第105代から数えて、
最後とされる、第112代目までの法王の名前が、
その人を特徴づける、固有のシンボル的な形容詞を用いて、
予言されているというものである。

先代のベネディクト16世は、
「オリーブの栄光」という形容詞を、
マラキが用いていたので、
最後から二番目の、
第111代目の法王だと見られている。

それは、
ベネディクトは、カトリック最古の修道会「ベネディクト」から由来していて、
そのシンボルにオリーブの飾りが使われていたのだ。
そして、それが理由で、
第111番目の教皇は、ベネディクト16世だと特定された。

そして、
最後の第226代目の教皇は、フランチェスコだが、
この名前は、これまで使用された教皇の中で初めてらしい。
そして、
そのフランチェスコは、
中世のアッシジの聖フランチェスコにちなんでつけられたという
その人の正式名に、
「ペトロ」という名前がついているのだ。

ペトロは、各国の発音の仕方によって、
ピエトロとも、ピエタとも、
ピョートルとも発音する

マラキは、
そのペテロが最後の教皇になると予言しているのだ。

ちなみに、
バチカンはサン・ピエトロ寺院が総本山ですが、
その総本山は、ペトロのお墓の上に建っているのだそうです。
どうですか?

それを読んで、
本当だろうか?とか、
偶然じゃないの?とか、
いろいろ思う人もあるだろう。

ところで、
現教皇の人気が凄まじく悪いという。
いろいろと事情はあるでしょうね。
いろいろ言われているようです。

しかし、
私から言わせるならば、
それも無理のないことだと思うんです。

なぜかというと、
キリスト教は「魚座の時代」の宗教だったわけです。
と言うよりも、
魚座が生み出した宗教だった。

そう言う言い方の方が、分かりやすいと思うんですね。
すべては、
その時代の宇宙の波動が作り出すものです。
真実さえも、宇宙の波動が作り出すのです。

その宇宙の波動が変わっても、
以前、同じ聖書の内容に沿った、
教義とか真理に沿ったままに、
バチカンの総本山が運営されていたのでは、
これは間違いなく、
社会の流れや、
人々との考えのギャップを生じるのは当然です。

だから、
フランシスコ教皇が同性愛を認めるとか、
信者をつなぎとめるための発言をすることで、
聖書のタブーに触れたとかの理由で、
大きな物議を醸しだしているという。

教皇としては、
それまでと同様に、禁止事項を守っていれば、
どんどん信者は減るし、
バチカン自体が存亡の危機に陥ると、
危惧するのは当然でしょう。

それはもう、
辻褄を合わせること自体が無理なことなのです。
すべては変化するのですから・・・。

魚座の時代の価値観は、
新しく変わった水瓶座の時代の価値観とは相入れないのです。

これは厳然たる法則というか現象なので、
キリスト教の教義自体を変更するか、
そうでなければ、
キリスト教自体が消滅するしかないのですね。

そうやって、
時代の移り変わりとともに、
すべてのものが変わっていったのですよ。

そして、
みずがめ座の時代にふさわしいものは、
技術、智慧、交流、公正・公平、平等、自立、
カルマの清算、浄化、液体、等々。

そして、
キリスト教時代に女神だったのは、聖母マリアですね。
新しい水瓶座の時代の女神は、仏母準提観世音大菩薩です。
宇宙の守護神・仏として、
人々を究極的に救済する存在として、
仏陀は降臨したわけです。

その福音を広めるために、
私たちは広く伝えることが必須ですね。
誰かがやってくれるだろうとか、
そうなるのであれば、
自然と変わるでしょうとか考えることは、
決して正しいことではありません。

仏陀のために自分たちが手足となって、
時代を変えていき、
時代をリードしていく。

そう考えるのが、
正統的な仏教の信仰者でしょう。










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フランシスコ教皇「行き過ぎた消費主義に警鐘!」

2019年12月03日 12時37分19秒 | つぶやき

先日、バチカン最高責任者のフランシスコ教皇が、
訪日されました。
そして、
いくつかのメッセージを発して、
無事に帰国されました。

そして、つい最近、
バチカンで行われた日曜礼拝で、
ふたたび、
メッセージを発せられたそうです。

その中に、
「物のために暮らしても、決して満足することはない。
欲望が膨らみ、それを得られなかった人は、常に怒りを覚える。
消費主義は信仰を蝕むウィルスだ。」

そのうえで、
「消費主義は持っている物で、
人生が決まってしまうと信じるようになってしまう。」
と述べられたそうです。

“行き過ぎた消費主義は、人間の欲望を過度に刺激する!”

と警鐘を鳴らされたそうです。
まあ、
フランシスコ教皇がプロテスタントの信仰に対して、
危機感を持って言われたとしても、
それは確かにその通りだと思いますね。

今の資本主義は、
人々の欲望を駆り立てて、
できるだけ多くの商品を買わせようとしていますよ。

欲望が満ち足りていては、
企業にとって、
それ以上の利益を上げることは出来なくなるわけですから。

人々はTVのコマーシャルを見て、
さりげなく、
無意識に刷り込んだ、
商品の購買意欲を高める刺激を受けて、
すでに持っているにも関わらず、
(空腹であるがごとく)目の前の商品を見て、
欲し~いと思わせられてしまう。

そして、
豚のごとく満足を知らない大衆は、
もう飛びつくわけです。

言うならば、
買わせられているのでしょうね。
そのシステムに、
そういう価値観が組み入れられているわけですからね。

そのシステムの中で生きている人々は、
高級車を持っていれば、金持ちであれば、
それは人生の成功者であると考える。

しまいには、
道路を走っている横から、
これ見よがしに外車に乗ったのが、
強引に割り込んできたりして、
もう俺様気分ですよね。

豪邸に住んでいるのが、
外車に乗っているのが、社会の成功者だとばかりに・・・。

女の子はそのために、
きれいなブランド物の洋服を買い、
ブランド物のカバンに血道をあげ目の色を変え、
画一的な化粧法で、美人顔を作り上げている。

カードローンは組まれ、キャッシュでないくても良いんだと、
後払いでいいからと、契約をさせる。
もう当人がどうなっても知らん顔。
もう企業の好いように生かされてしまっている。

全世界がそのシステムに組み込まれて、
狂騒しているわけです。


これはまさに、言い方を変えれば、
サタンの仕業そのものですよね。
もう社会は末期的症状を呈しているわけです。

資本主義がイギリスの産業革命から発したのも、
アダムスだったか、
初めはプロテスタントの教義も、
質素でつつましく生きることを説いていたのに、
産業革命で発生した、
膨大な商品をさばくために、
個人の富を蓄えることを善とする思想を世の中に流布した。

皮肉なものですね、
今のイギリスを筆頭とした西洋社会が、
フランシスコ教皇の心配を生み出すなんて。
自分で自分の首を絞めるようなことになるとは。

ですが、
仏教的な面でいうならば、
まさに、フランシスコ教皇の言われた通り、
煩悩を膨らませると、
自己の苦しみを太らせて、
不幸な人生を増長させるわけです。

深層に巣くっているところの「抑圧意識」を、
さらに満足させて、
人は苦しみの人生に堕ちていってしまう。
まるっきり、反対でしょう?

欲望に限りはない。
まさにその通り。
しかし、
その限りのない人生を作り出しているのは、
本末顛倒の価値観を持っているからですよ。

産業革命で、
物質をたくさん他国に売りさばくために、
キリスト教を資本主義の都合の良いように
本来の教義を捻じ曲げた。

それが、
正しい価値観に目覚めると、
そんな迷いごとに、惑わされることはない。

その本末顛倒の価値観を持つように仕向けているのは、
深層意識に巣くうところの「煩悩」ですよ。
言うならば、
キリスト教でいうところのサタンです。

そして、
原罪を自分に代わって、キリストに背負ってもらうのだという。
馬鹿言っちゃいけない。
因果は巡るお車ぞ。

因果応報、自業自得、
人間であるならば、
キリスト教徒であろうがなんであろうが、
すべて等しく、
その法則に従う他ないのです。

自然科学で、
誰もが知っている、「引力の法則」というのがありますが、
宇宙の法則では、「因果応報の法則」が流れているのですね。
誰もその法則から逃れることはできない。

その原罪を解消するための方法が、
お釈迦様の説かれた《成仏法》であります。
そして今、
その成仏法は、三宝の備わった所に初めて生じる。

煩悩に汚れた心を浄化することが、
私たちの人生を幸福にするための条件です。

それが一番大事。
それが今の人類にとって、一番必要な、
そして、
必要不可欠な『メシアの法』なのです。

人類を救えるのは、その釈迦の説いた成仏法。
それがメシアの法なのですね。
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