空飛ぶ自由人・2

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上野のお山 寛永寺・上野東照宮

2023年12月28日 23時00分00秒 | 名所めぐり

今日、娘は韓国に旅立ちました。
帰国は1月6日。
つまり、10日間韓国に滞在。
新年を異国で迎えます。
その間、コンサートとミュージカル三昧。
DNAとは恐ろしいものです。
 
さて、先日、銀座で映画を1本観た後、
銀座線で上野へ。
目的は寛永寺
寛永寺は、時代物によく登場しますが、
拝観したことはありませんでした。

上野のお山全体に
寛永寺の建物が配置されています。
山号は東叡山(とうえいざん)。
東の比叡山の意。
比叡山延暦寺を見立てています。

寛永寺は天台宗の別格大本山のお寺。
寛永2年(1625)年、
徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、
江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に、
慈眼大師(じげんだいし)天海(てんかい)大僧正によって建立されました。
後には第四代将軍・徳川家綱公の霊廟が造営され、
将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。
江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院で、
現在の上野公園のほぼ全域が寛永寺の旧境内でした。

しかし幕末の上野戦争により、
境内地に彰義隊がたてこもって戦場と化し、
慶応4年(1868)、官軍の放った火によって、
全山の伽藍の大部分が灰燼に帰してしまいました。
広大な寺地は現在の上野公園に転じ、


こうした理由で、
上野戦争で焼け残り、
第二次世界大戦の戦災もまぬがれたいくつかの古建築が、
上野公園内の各所に点在いるわけです。

「上野公園を訪れる人の大半は、
かつて寛永寺の境内だったことを知りません」
寛永寺の執事は言います。

2025年には、創建400周年(2025年)を迎えます。

本尊は、薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)
比叡山延暦寺の根本中堂のご本尊と同じく、
伝教大師最澄が自ら彫られたと伝えられています。

まず、不忍池辯天堂へ。

天海大僧正が琵琶湖竹生島(ちくぶしま)になぞらえて、
不忍池に中之島を築き、その地に建立されました。

現在のお堂は昭和33年に再建。

この階段を上り、お山へ。

清水観音堂。(きよみずかんのんどう)

国指定重要文化財。

京都東山の清水寺を模した舞台造りのお堂で、
御本尊も清水寺より恵心僧都(えしんそうず) 作の
千手観音(せんじゅかんのん) 像を迎え
秘仏としてお祀りしています。

                           上野の山に現存する、創建年時の明確な最古の建造物です。

時鐘堂

寛文9年(1669)に設けられたこの鐘は、
現在も正午と朝夕6時の計3回、毎日時を告げています。
(現在の鐘は天明七年(1787)に改鋳されたもの。)
                                      
上野大仏

江戸時代初期に建立され、
幕末までにも火災や地震に度々遭い、
関東大震災で頭部が落下するまでは
像高約6メートルの釈迦如来坐像でした。


震災後、頭部と胴体は再建に備えて寛永寺に保管されていましたが、
顔面部を除いて第二次世界大戦中の金属供出で持ち去られました。
大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立されています。
胴体を失った顔面は
「これ以上落ちない」という意味で
受験生らが祈願するようになり、
「合格大仏」と呼ばれています。

上野東照宮

日光、久能山と並び、
三大東照宮と言われています。

徳川家康(東照大権現)・徳川吉宗・徳川慶喜を祀ります。
社伝によれば、元和2年(1616年)、
危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと
藤堂高虎と天海に遺言したといいます。
1627年、寛永寺の境内に創建された神社「東照社」が始まり。
現在の社殿は慶安4年(1651)に
三代将軍の徳川家光公によって建て替えられたもので、
日光東照宮まではお参りに行けない江戸の人々のために
豪華な社殿を建てたと言われています。

寛永寺の建物の多くが焼失した上野戦争でも火の手が及ばず、
関東大震災でも倒れず、
第二次世界大戦中に社殿のすぐ裏に投下された爆弾も
不発弾であったというように、
強運に恵まれた神社。
江戸初期に建立された社殿がこれだけの災害を免れて現在に至るのは、
奇跡的であると言われています。
そのため強運の神様として、
また家康を祭神としていることから
出世、勝利、健康長寿の神様として信仰されています。

大石鳥居

唐門

その手前両側には、
徳川御三家と諸大名から寄進・奉納された
48基の銅灯籠が立っています。

神楽殿

金色殿

五重塔

国指定重要文化財。
寛永8年(1631)に初建されたこの塔は、
もとは東照宮所属でしたが、
明治の神仏分離令により、
当時上野山全域を寺地としていた寛永寺の所属となりました。
しかし寛永寺は上野戦争により焼失し、
寺地の大半が公園用地として没収されて、
上野東照宮から離れた地で再建されたため、
五重塔は文化財管理の必要から東京都に譲渡されました。
現在は上野動物園内に位置しますが、


五重塔の正面は東照宮の参道に面しています。
高さは地上から36m。

清水観音堂といい、上野東照宮といい、
上野は何度も訪れているのに、
存在さえも知りませんでした。

その上野動物園

随分行ってませんね。

郵便ポストもパンダ。

正岡子規は、野球好きで知られています。
ポジションは捕手でした。

忘れじの塔

昭和20年(1945)の「東京大空襲」の犠牲者を悼む慰霊碑で、
平成17年(2005)に海老名香葉子さん(故林家三平の夫人)によって
建立されました。
東京大空襲を忘れないため、同じ悲劇が起こらないよう、願いをこめて、
大空襲で亡くなったご家族がモチーフになっている平和祈念母子像・時計塔です。

国立博物館を右方向に歩くと、

開山堂(両大師) 

東叡山の開山である慈眼大師(じげんだいし) 天海大僧正をお祀りしているお堂です。
天海僧正が尊崇していた
慈惠大師良源(じえだいしりょうげん) 大僧正もお祀りしているところから、
一般に両大師と呼ばれ、庶民に信仰されてきました。


初建は正保元年(1644)ですが、現在のお堂は平成5年に再建されたものです。

                                            輪王殿

旧本坊表門を正門とする輪王殿は、
多目的な会館として建築されました。

このあたりには、ものすごく大きい建造物があります。

さて、寛永寺へ。

国立博物館沿いの道を
かなり歩いたところに寛永寺があります。

冒頭に揚げた全景図は、
縮尺を無視していますので、
すぐ近くにあるように見えますが、
実際は、かなり遠い。

ここが正門。

守護神のような猫。

根本中堂

根本中堂といえば比叡山延暦寺。
それを東の比叡山と云われた東叡山にも建設。
今の東京国立博物館の敷地に本坊があり、
国立博物館前の大噴水のあたりにありましたが、


現在の根本中堂は、
明治12年に川越喜多院の本地堂を移築し再建されたものです。

中は撮影禁止。
そこで、拝借した写真。 

御本尊は、伝教大師最澄上人の御自刻とされる
薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしております。

根本中堂の勅額「瑠璃殿」

瑠璃殿とは、東方浄瑠璃浄土の教主である
薬師如来を御本尊とする伽藍をあらわしています。
勅額「瑠璃殿」は、根本中堂が落慶した際に賜った東山天皇の御宸筆です。
上野戦争、東京大空襲など幾多の戦争中に
伝教大師作の本尊薬師如来とともに無事運び出されているのは奇跡です。

歴代徳川将軍の霊廟

徳川綱吉墓所の宝塔

十五代将軍慶喜が謹慎した部屋「葵の間」

銅鍾

歴史を辿る旅でした。

「江戸城内并芝上野山内其他御成絵図」

現在の寛永寺の伽藍と東京国立博物館の地図

 



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