[映画紹介]
1920年代のハリウッドが舞台。
冒頭、映画界が催す乱痴気騒ぎのパーティーが
延々30分ほど続いて、ようやくメインタイトル。
そのパーティーで、3人の男女が出会う。
スターを夢見る新人女優のネリー(マーゴット・ロビー)、
映画製作を目指す青年マニー(ディエゴ・カルバ)、
そして大スターのジャック(ブラッド・ピット)。
パーティーをきっかけに、
ネリーはスターへの階段を駆け上がり、
マニーはジャックの助手となる。
やがてジャックの人気を衰え、
ネリーは様々な奇行で映画界からはじき出され、
マニーは、次第に頭角を現すが・・・
この三人の話に、差別を受ける黒人トランペッター、
権勢をふるう映画コラムニストの老女、
中国人の歌手の話がからむ。
サイレントからトーキーに移行する時期で、
それまで音など気にしなかった撮影が、
音声収録のために、スタジオを密閉し、
マイクの位置を配慮してのテイクに移行する。
声の悪い俳優、言葉になまりのある女優は凋落し、
音楽が重要な要素となる。
時代の変化に乗れた者、
取り残された者の悲哀・・・。
ハリウッドが好みの題材で、
あの「ラ・ラ・ランド」の監督(デイミアン・チャゼル)が
どう料理するかに興味を引かれる。
結果は・・・
粗悪な食材を使って、
味付けの腕も悪く、
ごった煮で素材を生かしきれない、
出来の悪い料理に仕上がった。
だから、食後感(読後感)は非常に悪い。
いくらでも美しい物語、哀愁ただよう話に出来ただろうと思うが、
それは、監督の好みとセンスだから、如何ともしがたい。
ただ、この味付けとセンスに合致する観客には受けるだろう。
私には無理だった。
なにしろ、創作にかかわる、
あの大命題、
「主人公の愚かな行動に、観客(読者)は同情しない」
に反するからだ。
登場人物の行動がことごとく醜悪で、愚かしい。
これでは共感を呼ぶことはできない。
ただ、やはり、「セッション」「ラ・ラ・ランド」の監督らしく、
音楽のセンスは抜群。
その点は認める。
3時間を越える休憩なしの大作で、
退屈を感じなかったのは、やはり監督の手腕だろうが、
画面に映し出される
パーティーや蛇騒動や地下迷宮など、
ゴージャスだけど醜悪で悪趣味な光景の連続に、
しばしば時計を見たのは確かだ。
終盤でコラムニストの老女が、
「俳優はいなくなっても作品は残る。
フィルムを出して上映すれば、
今も生きている人のように感じることができる」
という意味合いのセリフがあるが、
今は個人で映像を所有できる時代。
そういう意味で、古い映画の俳優たちは、
今も生きている。
ラストの挿話は、
なるほど、こう来たか、と思うが、
それを「映画愛」などで言い訳するから、始末が悪い。
「映画愛」を口にする人ほど、
それを隠れ蓑にしがちなことに注意が必要だ。
ほとんどの人が「セッション」と「ラ・ラ・ランド」の監督、
ということで足を運んだだろうが、
こんなことをしていると、
過去の作品の遺産を食いつぶしてしまうことにならないか。
なお、冒頭に、「権利の関係で、日本語字幕が出ない場所がある」
という説明があり、
何のことかと思ったら、
あの映画の字幕が付けれなかった、ということらしい。
翻訳字幕にも権利がからむとは。
5段階評価の「3」。
このブログでは、「3」の作品は取り上げないことが多いが、
話題作なので、取り上げた。
拡大上映中。
なお、題名の「バビロン」とは、
紀元前メソポタミアの古代都市の名前。
バビロニア帝国の首都で、
今のバクダッドの南方にあった。
旧約聖書のイザヤ書やエレミヤ書に登場し、
新約聖書のヨハネの黙示録において、
「大娼婦バビロン」と擬人化して書かれていることから、
キリスト教文化圏においては、
退廃した都市の象徴、悪徳と背徳の町として認識されており、
それをハリウッドにたとえているらしい。
映画のラストに、
古今の映画のシーンが短く連続するが、
D.W.グリフィスのサイレント時代の歴史的映画
「イントレランス」(1916)の
巨大なバビロンのセットが一瞬写し出される。
ユダヤの歴史では、
「バビロン捕囚」が有名。
これは、バビロニアの王・ネブカドネザルによって、
エルサレムのソロモンの神殿が破壊され、
ユダヤ人をバビロンへと移住させた事件。
後の王によって解放され、
故国に戻ってエルサレムで神殿を建て直すことを許される。
後のローマ帝国以降の
世界離散の中でも失われなかった
イスラエル民族の祖国帰還のアイデンティティは
バビロン捕囚で確立されたといわれる。
旧約聖書の詩編137篇には、
「われらはバビロンの川のほとりにすわり、
シオンを思い出して涙を流した。」
に始まるシオン(エルサレム)を思う
美しい詩が掲載されている。
また、ヴェルディのオペラ「ナブッコ」にも描かれている。
ナブッコとは、ネブカドネザルのこと。
第3幕でのユダヤ人の合唱「行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って」は
イタリアでは、「第2の国歌」と言われている。