いま、我々が陥ってはいけないことは、落胆したり、諦めたりすることだ。それは、”知的衰弱”どころか”思考停止”を意味する。
今回の事態が、日本人の”知的衰弱”の結果だとしても、投票総数の半分の有権者は、政府とマスメディアの情報操作に惑わされなかったのだ。”民は愚かに保て”というのが国家統治の大前提だ。しかし我々は、そうした愚民政策に足をとられなかった。そうした国民が何千万人もいるのだ。まだまだこのままでは終わらないと感じる。これからも眼を見開いて、日本と世界の現実を冷静に見つめ続けよう。ただし、それが一番難しい。
かつて、ベトナム戦争を終わらせたのは、世界の反戦の声だった。世界中で反戦という”戦い”が展開された。日本でも、同様だった。でも、それが日本や世界に何を残しただろうか。何もない。もし、それが何かを後に残すようなものだったら、湾岸戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争もなかったはずだ。
世界はなぜベトナムと同じ愚を、この21世紀に許したのか。確かに世界のベトナム反戦運動は、ベトナム戦争を終わらせた。しかし、反戦活動家は、以後何をしただろうか。何もしていない。後に”ミーイズム(個人主義)”と呼ばれる現象をおこしただけだ。政治に無関心になり、自分の殻の中に閉じこもり、自分の幸せだけを追求した。国家への不信や厭戦気運は、ただの思考停止へと変わってしまった。この思考停止が、後の湾岸戦争を可能にした。
湾岸戦争の勝利式典で、シュワルツコフ将軍は、「われわれは、ついにベトナムの悪夢を払拭した!」と高らかに宣言した。それは、戦争を可能にする環境が、再び誕生したことを祝福する宣言だった。ベトナム戦争による厭戦気運が、ミーイズムという思考停止を経て、国家への警戒心の欠如にいたり、そして、いまのイラク戦争がある。ベトナム反戦運動の巨大な渦は、何の教訓も残さなかった。結局、”戦い”には、知性は必要なく、知性を育むこともなかった。ミーイズムという居心地の良い思考停止を生んだだけだ。
これから我々の目の前で、最低の歴史が展開される。見たくもない、聞きたくもない、語りたくもない歴史が。ただ、それを避けて通ることはいとも簡単だ。ミーイズムを受け入れればいいのだ。居心地の良い楽園が待っている。それは、セルフ・マインド・コントロールとも言うべきものかもしれない。だったら最初からマインド・コントロールを受け入れればいいのだ。
我々には到底受け入れがたい歴史がこれから始まる。しかし、眼を見開いて見つめ続けよう。我々はけっして、落胆や諦めという思考停止に陥ってはいけない。安直な”戦い”など試みてもいけない。それこそ、思う壺だ。いままで同様、冷静なこころと眼で、日本と世界の現実を見つめ続けよう。ただし、それが最も困難で苦しい作業なのだ。
今回の事態が、日本人の”知的衰弱”の結果だとしても、投票総数の半分の有権者は、政府とマスメディアの情報操作に惑わされなかったのだ。”民は愚かに保て”というのが国家統治の大前提だ。しかし我々は、そうした愚民政策に足をとられなかった。そうした国民が何千万人もいるのだ。まだまだこのままでは終わらないと感じる。これからも眼を見開いて、日本と世界の現実を冷静に見つめ続けよう。ただし、それが一番難しい。
かつて、ベトナム戦争を終わらせたのは、世界の反戦の声だった。世界中で反戦という”戦い”が展開された。日本でも、同様だった。でも、それが日本や世界に何を残しただろうか。何もない。もし、それが何かを後に残すようなものだったら、湾岸戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争もなかったはずだ。
世界はなぜベトナムと同じ愚を、この21世紀に許したのか。確かに世界のベトナム反戦運動は、ベトナム戦争を終わらせた。しかし、反戦活動家は、以後何をしただろうか。何もしていない。後に”ミーイズム(個人主義)”と呼ばれる現象をおこしただけだ。政治に無関心になり、自分の殻の中に閉じこもり、自分の幸せだけを追求した。国家への不信や厭戦気運は、ただの思考停止へと変わってしまった。この思考停止が、後の湾岸戦争を可能にした。
湾岸戦争の勝利式典で、シュワルツコフ将軍は、「われわれは、ついにベトナムの悪夢を払拭した!」と高らかに宣言した。それは、戦争を可能にする環境が、再び誕生したことを祝福する宣言だった。ベトナム戦争による厭戦気運が、ミーイズムという思考停止を経て、国家への警戒心の欠如にいたり、そして、いまのイラク戦争がある。ベトナム反戦運動の巨大な渦は、何の教訓も残さなかった。結局、”戦い”には、知性は必要なく、知性を育むこともなかった。ミーイズムという居心地の良い思考停止を生んだだけだ。
これから我々の目の前で、最低の歴史が展開される。見たくもない、聞きたくもない、語りたくもない歴史が。ただ、それを避けて通ることはいとも簡単だ。ミーイズムを受け入れればいいのだ。居心地の良い楽園が待っている。それは、セルフ・マインド・コントロールとも言うべきものかもしれない。だったら最初からマインド・コントロールを受け入れればいいのだ。
我々には到底受け入れがたい歴史がこれから始まる。しかし、眼を見開いて見つめ続けよう。我々はけっして、落胆や諦めという思考停止に陥ってはいけない。安直な”戦い”など試みてもいけない。それこそ、思う壺だ。いままで同様、冷静なこころと眼で、日本と世界の現実を見つめ続けよう。ただし、それが最も困難で苦しい作業なのだ。
http://www.asyura2.com/0505/senkyo14/msg/475.html
阿修羅に載っていたものです。参考にしていただければと思い、送ります。
そこで、すかさず川柳で、
「親も子も 血は争えぬ 風見鶏」
小泉自民党の圧勝、それは槿花一朝の夢なり。
秀吉の「難波のことは夢のまた夢」なり。
平家の「奢れる者は久しからず」とか、
ましてやゴマカシやダマシで、民を欺くことなど出来ません。ドラマは起承転結。これから終りの始まりへと進み、自民。公明の愚民扱いのツケは、必ず払わされるのが必定であります。
世の中はすべて法則により動いているのです。
アレキシス・カレルは、「人間・・・・この未知なるもの」の著書で、「科学と云うものが、人間研究をしてこなかった。物質ばかり研究して、これだけの成果を挙げた人間と云うものに、科学が気づいたのはごく最近である」と、人間とは何か?人間はどう生きるべきか?
そのために、政治や社会をどのようにするべきか?
最早、理想や観念の領域ではなく、現実を科学する時である。ホリエモンのように、「公的年金制度は不要だ。そんなものは自己責任でやるべきだ」と。言葉は思想。
身の毛がよだつような恐ろしい言葉です。
嗚呼、こんな国に誰がした?
たいへん参考になる内容だと思います。
ご連絡ありがとうございました。
日本の政治は時と共に、どんどん悪くなっています。今が最悪なのか、まだまだ悪くなるのかはわかりませんが。
小泉首相は、日本そのものを売り渡そうとしていることは確かです。小泉自民を支持した人々は、いまは勝ち誇っていますが、本当は騙されていたと知ったときどんな顔をするのでしょう。
人間を解明するのは、至難の業という気がします。人類にとって最大の謎は、人類そのものなのかもしれません。
勝谷誠彦の××な日々、のブログです。
マスメディアには、何も期待できない状況です。
大衆紙や雑誌の中には、いまのところ自由に政府批判をしているものもありますが。
いま最も活発な議論を展開しているのは、やはりブログでしょう。ブログ人口は、ものすごい勢いで伸びていますし、一千万ブロガーになるのもすぐでしょう。今後成熟段階に入るとさらに有意義な議論が展開されてくると思います。
ただブログも、民間のサーバーによる無料のサービスということで、その気になれば、いくらでも制約を課すことができます。ブロガー大きな勢力を形勢するようになれば、やはり、サーバー側による自主規制・検閲が導入されることも考えられます。
考えたくない事態ですが、十分現実的です。
http://www.janjan.jp/media/0509/0509132426/1.php
小泉連立政権と創価学会
http://www.videonews.com/marugeki/230newmarugeki.html
「特定の組織・団体への批判」とは勿論…
いま、もっとも活発に意見活動をしているのは、ブログを含めたインターネットの中だと思います。今後、さらに発展していけば必然的に「権力」は危機感を持つというのが常です。我々は、この無限の可能性を秘めた場を、守り育てていかなければなりません。
ただ、サーバー自体は民間の営利企業ですし、元栓を閉められればアウトです。まだまだ課題は多いです。
いま、大事なことは、我々利用者がよりよいあり方を模索し、実践していくことだと思います。インターネットの中では、時として利用者が暴走することもあります。利用する側の節度も問われてくると思います。
インターネットを介してのコミュニケーションのあり方そのものは、まだまだ未成熟だと思います。我々ひとり一人が、あり方を模索し、熟成される努力をしていかなければならないと思います。この広大な海を前に日々悩みます。