前回、フォーブス誌の特派員ベンジャミン・フルフォード氏の著作から引用させてもらったが、このフルフォード氏はすでに日本について何冊もの著作がある。まだ『泥棒国家の完成』しか読んでいなのだが、すべて読んでみたい。前二作の方が評判はいいようだが、この本もけっこうな内容である。命がけでものを書いている人はそうはいない。
この本の最後の章は、『私が殺されれば本はベストセラーになる?』というタイトルで締めくくられている。この章で氏は、「ただ、怖いのは、怖い。しかし、臆病になっていては、問題は解決しません。私も直接脅かしを受けたことがあります。カマボコにするとか言われました。」とさらりと述べている。
『それから、私の本の担当者はヤクザより非情です。私が書きすぎて殺されたらどうすると聞くと、「その方がいい」と言うんですね。なぜなら、その本は間違いなくベストセラーになるからです。(笑い)』
ユーモラスに書かれているが、決して冗談ではない。これらの言葉の中に著者の強い決意を感じる。実際、僕は著書を読みながら、「こんなことを書いて、よく生きているなあ」と本気で思った。そういう本はそうそうあるものではない。カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の『日本権力構造の謎』以来だ。
フルフォード氏やウォルフレン氏が書くものは、本来、日本人が書かなければならないものだ。それを、外国人特派員が命を賭しても書くというのは、まったく主客逆転である。しかし、なぜ彼らはそうしなければならなかったのだろうか。それは、日本のジャーナリストは知っていても絶対書かないからだ。日本人が書かないから、彼らが書くしかなかったのだ。我が国のジャーナリズムの頽廃と臆病を如実に物語っている。
「日本のマスコミは責任を果たしていない」とフルフォード氏は断じている。「私と同じように思っていた日本の記者も、あるところまで行くと、結局潰される。書かなくなるんです。」
日本のマスメディアは、記者クラブというギルドによって特権を享受し、競争もなく、絶対安全なぬるま湯の中で権力に迎合している。それをまったく疑問にも思わなくなっている。そんな彼らが「真実」に対して命を賭けるなど、あり得ないことだ。外国人特派員の方が日本人のために、命を賭して日本の矛盾を突ている。日本のジャーナリスト(と呼んでいいのか?)は、恥を知るべきだ。大衆紙の方がよほど忌憚なく堂々と政府を批判している。
<フルフォード氏が分析する小泉改革とは>
フルフォード氏は、小泉改革についても言及している。小泉首相の「道路公団改革」「年金改革」「三位一体改革」について、小泉改革というのは「実現させてはいけない”見せかけ”のシナリオだった」、「大増税計画の方が本当のシナリオ」と述べている。
『国家が収入 income を増やす方法は、国民から税金を取れるだけ取るか、金を貸してくれる外国から借金をするしかないのだ。現在の日本は、このうちの「税金を取る」方法を強化できるだけ強化しているのである。それを、小泉は「改革」”reform"と称しているにすぎない。国債も形を変えた税金にほかならないのだ』
つまり、旧来の利権構造は、実はまったく手が付けられていない。それどころか、強化されている。小泉改革とは、改革に見せかけた旧体制の強化にほかならない。一時、メディアは、道路公団や社会保険庁の不正や腐敗をあぶり出しているかのような報道をしていたが、これは単に、改革が進んでいるという印象を与えるためのダミー報道にすぎない。単発のザコのようなネタでしかなく、本質的な腐敗のと利権の構造には一切触れていない。
また、フルフォード氏は、『いま小泉がやっていることは、ほぼアメリカが失敗したことの模倣 imitate にすぎない』『彼の政策を「構造改革」と呼ぶこと自体がおかしいのである』と述べている。
まさしく、その通りである。しかし、日本のメディアは小泉首相を「改革者」と持ち上げることしか能がない。「郵政民営化」法案が成立したあと、絶賛する記事しか載っていないようだ。僕は新聞を取っていないし、読む気にもならない。森田実氏のサイトでこの間の新聞の内容を知り、さもありなんと思った。日本のメディアは、日本人の生活を奈落へと導く共犯者というしかない。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02216.HTML
フルフォード氏は、日本の政治経済のもっと深い闇に焦点をあてているのだが、ここでは触れない。フルフォード氏は、その著書で日本たたきをしたいわけではない。日本と日本人に対する深い愛情なくしてこういうものは書けない。だからこそ、命を賭けられるのだと思う。氏の祖父は、戦前の排日移民法にただひとり反対したカナダの国会議員だそうである。
日本のメディアには、ぜひフルフォード氏の言葉を受け止めてほしいと思う。本来、あなたたちメディアがしなければならない仕事を、外国人特派員が命を賭けて代行しているのだから。
この本の最後の章は、『私が殺されれば本はベストセラーになる?』というタイトルで締めくくられている。この章で氏は、「ただ、怖いのは、怖い。しかし、臆病になっていては、問題は解決しません。私も直接脅かしを受けたことがあります。カマボコにするとか言われました。」とさらりと述べている。
『それから、私の本の担当者はヤクザより非情です。私が書きすぎて殺されたらどうすると聞くと、「その方がいい」と言うんですね。なぜなら、その本は間違いなくベストセラーになるからです。(笑い)』
ユーモラスに書かれているが、決して冗談ではない。これらの言葉の中に著者の強い決意を感じる。実際、僕は著書を読みながら、「こんなことを書いて、よく生きているなあ」と本気で思った。そういう本はそうそうあるものではない。カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の『日本権力構造の謎』以来だ。
フルフォード氏やウォルフレン氏が書くものは、本来、日本人が書かなければならないものだ。それを、外国人特派員が命を賭しても書くというのは、まったく主客逆転である。しかし、なぜ彼らはそうしなければならなかったのだろうか。それは、日本のジャーナリストは知っていても絶対書かないからだ。日本人が書かないから、彼らが書くしかなかったのだ。我が国のジャーナリズムの頽廃と臆病を如実に物語っている。
「日本のマスコミは責任を果たしていない」とフルフォード氏は断じている。「私と同じように思っていた日本の記者も、あるところまで行くと、結局潰される。書かなくなるんです。」
日本のマスメディアは、記者クラブというギルドによって特権を享受し、競争もなく、絶対安全なぬるま湯の中で権力に迎合している。それをまったく疑問にも思わなくなっている。そんな彼らが「真実」に対して命を賭けるなど、あり得ないことだ。外国人特派員の方が日本人のために、命を賭して日本の矛盾を突ている。日本のジャーナリスト(と呼んでいいのか?)は、恥を知るべきだ。大衆紙の方がよほど忌憚なく堂々と政府を批判している。
<フルフォード氏が分析する小泉改革とは>
フルフォード氏は、小泉改革についても言及している。小泉首相の「道路公団改革」「年金改革」「三位一体改革」について、小泉改革というのは「実現させてはいけない”見せかけ”のシナリオだった」、「大増税計画の方が本当のシナリオ」と述べている。
『国家が収入 income を増やす方法は、国民から税金を取れるだけ取るか、金を貸してくれる外国から借金をするしかないのだ。現在の日本は、このうちの「税金を取る」方法を強化できるだけ強化しているのである。それを、小泉は「改革」”reform"と称しているにすぎない。国債も形を変えた税金にほかならないのだ』
つまり、旧来の利権構造は、実はまったく手が付けられていない。それどころか、強化されている。小泉改革とは、改革に見せかけた旧体制の強化にほかならない。一時、メディアは、道路公団や社会保険庁の不正や腐敗をあぶり出しているかのような報道をしていたが、これは単に、改革が進んでいるという印象を与えるためのダミー報道にすぎない。単発のザコのようなネタでしかなく、本質的な腐敗のと利権の構造には一切触れていない。
また、フルフォード氏は、『いま小泉がやっていることは、ほぼアメリカが失敗したことの模倣 imitate にすぎない』『彼の政策を「構造改革」と呼ぶこと自体がおかしいのである』と述べている。
まさしく、その通りである。しかし、日本のメディアは小泉首相を「改革者」と持ち上げることしか能がない。「郵政民営化」法案が成立したあと、絶賛する記事しか載っていないようだ。僕は新聞を取っていないし、読む気にもならない。森田実氏のサイトでこの間の新聞の内容を知り、さもありなんと思った。日本のメディアは、日本人の生活を奈落へと導く共犯者というしかない。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02216.HTML
フルフォード氏は、日本の政治経済のもっと深い闇に焦点をあてているのだが、ここでは触れない。フルフォード氏は、その著書で日本たたきをしたいわけではない。日本と日本人に対する深い愛情なくしてこういうものは書けない。だからこそ、命を賭けられるのだと思う。氏の祖父は、戦前の排日移民法にただひとり反対したカナダの国会議員だそうである。
日本のメディアには、ぜひフルフォード氏の言葉を受け止めてほしいと思う。本来、あなたたちメディアがしなければならない仕事を、外国人特派員が命を賭けて代行しているのだから。
「コイズミは日本のフーバーだ」~「四年間何もしていない首相」が導く蟻地獄への道筋
遅くとも五年先には国は倒産するだろう、とフルフォード氏は痛烈に批判しています。
同じVoiceに、伊藤洋一、日下公人の理解しにくい日本楽観論も掲載されていました。(特集「日本経済黄金時代」の中の記事)
Voice全体としては小泉支持派、批判派両方の記事がいろいろと載っています。
今日、本屋へ行くので見てみます。
しかし、「日本経済黄金時代」とは・・・
いまの日本のどこにそんな要素を見出せるのでしょうねぇ。
ただ、ごく一部の企業や資本家にとっては、その通りになるかもしれません。
あまりに堂々としているので唖然です。
たいへん興味深く読ませていただきました。
今回の選挙で、やはりメディア・コントロールが行われていたということですね。
それを堂々と自慢するところが、いまの自民党の驕りを表しているように思います。
確かに、本来そんなことは口にしないものです。自民党は、もはや恐いものなし、と思って油断しているようです。今後、どんどんボロが出てくるでしょうね。
フルフォード氏の著作、前二作読みました。この本を読んだ後、故・伊丹十三監督の事を考えたりしました。
フルフォード氏は日本という国の構造を良くとらえていると思います。ただ、彼はあくまでも違う文化で培った価値観で日本を解釈しているので、日本の問題がとてもよく見えるのだと思います。同じ問題は日本人に同じように見えるかといえば、そこは微妙なとこだと思います。
川崎カイヤというアメリカ人タレントがいるじゃないですか?彼女がよくテレビで「それは悪い事じゃないよ」と同席のタレント達に叫んでいたのを覚えています。ちょっとした善悪の感覚でも日本はある意味で特有の感覚を持っていると思います。金融だって政治だって日本人独特の感覚があるのだと思います。でも、その問題をを多くの日本の人に伝えるには日本人の感覚で伝えないと伝わりにくいんじゃないかと最近よく思います。
最近「金融崩壊・日本の呪縛」という本を読みました。大蔵官僚の日本の批判です。「もののけ姫」のプロットを使いながら、金融危機と日本人特有の社会的価値観などを「彼の国=アメリカ」との比較で書いています。ぜひ読んでみて下さい。フルフォード氏の著書と比べてみると面白いと思います。
わたしはフルフォード氏がやはりこういう物をかけるのは絶対的な身の安全があるからだと思います。日本人のやかましいのは黙らせられても、他国の市民は同じようにいかない事を知っていると思います。やはり私たち個々の国民が声をあげる事が大切だとおもいます。
ちょうど、故・石井こうき議員のことを知り、書いておりました。石井氏の著作が絶版になっているのはとても残念です。いまの言論事情を考えると、再出版の見込みもないでしょう。
国会議員もあまりにも多すぎて、誰が何を考えているのか、ほとんどこ国民には見えてこないのも問題ですね。
大事なことは、日本人ジャーナリストは知っているにもかかわらず、保身のために誰も書こうとしないことです。彼らは自らジャーナリズムを放棄しているということです。
それを、外国人ジャーナリストが代わりに書かかなければならないところが、この国のジャーナリズムの情けない実態を物語っています。
フルフォード氏自身が言っているように、氏はすべてを書いているわけではありません。”ここまでが限界”というところを察知して書いています。それは勇気がないからという問題ではなく、本来、日本のジャーナリズムが一丸となっていれば、”当然書けるはずのことではないか”、と氏は投げかけているのです。
外国人ジャーナリストだったら安全にものを書けるという環境はこの国にはないと思います。”自分は外国人だから安全”などというお気楽な気持ちで、フルフォード氏がものを書いているとは、僕には思えません。
フルフォード氏がいったい何を伝えようとしているか、それこそが重要なのです。それは、photonkaさんがおっしゃるように「個々の国民が声をあげる事が大切」ということなのだと思います。