報道写真家から

我々が信じてきた世界の姿は、本当の世界の実像なのか

ニュースも商品

2005年03月17日 18時42分54秒 | ■メディア・リテラシー
 僕は、メディアが取材する現場と、それがその日実際にニュースとして流されるのを見ることがある。昼にCNNと同じ現場で取材し、夜CNNのニュースを見るという具合だ。しかし、ニュースというのは事実のごく断片しか反映されないというのが実感だった。
 航空機を作っている現場を見ると、飛行機に乗れなくなるという話を聞いたことがある。メディアの取材の現場と出来上がったニュースを見比べてしまうと、あらゆるニュースが何か空々しく感じられるようになってしまう。

 通信社だろうが、新聞社だろうが、放送局だろうが、メディアは所詮は営利企業だ。他の企業とまったく同じように、お金儲けがまず第一の企業目的だ。製造業は、売れない商品は作らない。当たり前の話だ。メディアも、商品価値のないニュースは載せない。これも当たり前の話だ。何を伝えるべきかの前に、商品価値があるかないかが大事なのだ。

 あくまで僕個人の実感でしかないが、あえて言えば、特派員の取材とは、最終的な読者や視聴者に向いているのではなく、会社の上司に向いているように感じられる。何を伝えるべきかではなく、何を送れば上司が気に入ってくれるか、評価してもらえるか、そんな風に見えてしまう。結局、上司の評価を気にする企業の社員のようだ。

 価値の高い商品を社に提供するために、極端な例では、ヤラセや盗作もある。古い話だが、朝日新聞のカメラマンが、珊瑚礁につけられた無残な傷を撮影して、大きく報じたことがある。心無いダイバーが珊瑚礁に傷をつけたのは確かに事実だったが、その傷はごく薄っすらしたものだった。しかし、なぜか新聞に掲載されたときは、くっきりした傷になっていた。水中の現場で、おそらくカメラマンはがっかりしたにちがいない。これではインパクトがない。インパクトのないものは、商品価値がない。商品価値のないものを会社に持って帰っても、評価は得られない。水中の無重力の中で、彼の思考も重心を失ったのか。彼は、勝手に商品価値を高めてしまった。

 これは決して例外的な事例ではないと思っている。報道の世界では、「事実」に対する「加工」はごく当たり前のことだと思ったほうがいい。スーパーの生鮮食品の不当表示や産地偽装を報じるメディアも、実は同じことを日常的にしているのだ。ニュースもあくまで商品にすぎない。珊瑚礁の傷は、朝日のカメラマンの個人的な資質もあったかもしれないが、「加工」が当たり前の世界にいて、彼の倫理観も麻痺していたのだと思う。

 通信社や新聞社で、ジャーナリズムの使命に燃える人材は、だいたいが窓際へ追いやられると、そういう話を内部の人から耳にしたことがある。結局、メディアの世界でも、出世していくのは単に社内政治に長けた資質の持ち主ということなのだろう。僕が現場で接してきた個々人は優秀な志のある人が多い。僕などが足元にも及ばない豊富な経験と知識を持った方がほとんどだ。しかし、営利を追求する組織の中では、そうした個々人の能力や志が反映されることはほとんどない。理想と現実とはかなりかけ離れたものだ。
 
 東ティモールでの武装襲撃事件のあと、僕は、現地で何人かの日本のジャーナリストに事件の話をした。ジャカルタへ脱出したあと、某新聞社の紹介で、とある日本の放送局のジャカルタ支局へ行った。そこでひととおり武装襲撃事件について説明した。話を聞き終えた支局員は、
「死者一人かあ、インパクトねぇなあ」
 と一言おっしゃった。
 また、ある新聞編集者は、
「戦争で人が死ぬのは、あたりまえで・・・」
 と言った。あんた人一人が殺されただけで何を騒いでいるんだ、とそんなニュアンスだった。
 そして、またある通信社特派員は、パソコンを打ちながら、
「時間があったら聞きたいんだけどね」
 と一瞬だけ首をこちらに向けた。

 僕の話も、爪楊枝のような事件を大木に見せようとしていると思われたのかも知れない。
 そんな気がした。