クズラのブログ

日頃の農作業や社会活動、そして両親の介護などを綴ります(22年1月記)

介護疲れかなあ、妻が事故った

2022-05-05 | 介護

田んぼの近くにきれいな蝶がいました。

 5月3日。妻が母の支度を手伝って、無事にデイサービスに送り出しました。

 父もデイサービスの日でしたが、父は昨日からすねていて、朝食を用意してもベッドから出て来ようとしません。

 妻は用事があったので、「あと宜しく」の手を振って、自宅に向けて出発しました。

 僕は、父の不満を聴いたり、父をなだめたり、またじっと待ったりしていました。

 そこに妻から電話が入り、「事故った。警察の事情聴取中、自分は念のために後で病院に行く」と。運転中、腰が痛いので座る位置をずらしていたらハンドル操作を誤ったらしいのです。事故の相手は、車から降りてきて「おばさん、どこを見て運転しょんなら」と元気だったそうで、一安心したとのこと。妻の診察の結果は、打ち身だけで済んだようです。相手の方は、首の痛みがあるそうです。

 午前10時を回って、父が「腹が減った」と言い出し、食事を摂ってくれました。そして、大分遅れましたが、デイサービスにも送って行くことができました。

 妻が田舎に帰れるときには、主に母の世話をしてもらっていたのですが、妻の体調が万全ではないので、あまり疲れないように活動の軽減に気を付けなくてはなりません。

母がショートステイから帰り、父母2人の介護が始まりました

2022-03-23 | 介護

↑ 田舎に大根と人参の種を蒔いてみました。雨の後の3/19、大根の芽が出ていました。3日後には人参の芽も出ていました。

 3月7日から、腰を打撲して歩けなくなった母と、要介護3の父を介護する生活が始まりました。体調が万全でない妻もよく手伝ってくれて、2人で2人の介護をする生活が始まりました。

 3月10日から22日まで、母は介護施設のショートステイを利用することができ、父を介護するだけでよかったので、この少し余裕のある時間で、共産党でこれまで任されていた仕事を減らしてもらう折衝などをすることもできました。

 22日、母がショートステイから田舎の家に帰ってきました。少し元気を取り戻しているように見えました。母は車いすで玄関まで送ってもらい、玄関からは四つん這いになって自分で自室に入りました。やがて父もデイサービスから帰ってきました。父が寝るまでは、母の世話は妻が(妻は以前、障がい者施設で働いていた)、父の世話は僕がして、夜は、母のおしめ交換のやり方を実地で妻から教えてもらいました。

 23日、田舎の家にいた妻が自宅に帰り、夕方には父がデイサービスから田舎の家に帰り、今は 僕が2人の介護をしています。母のおしめ交換は、うまく行く時と行かない時があります。父はほぼ自分で交換します。ゴミ箱は、使ったおしめですぐ一杯になります。

知らぬ間に母が山に入り、腰を打って担架で救出されました

2022-03-14 | 介護

↑担架に固定されている母

(この記事は、3月11日投稿の「父が新型コロナの濃厚接触者になりました」の続編です)

 3月6日、母は、新型コロナの濃厚接触者となった父(=感染はしていなかった)に近づかないようにと、僕たちからは見えないところで、家の裏の柚子の木から落ちた柚子を拾おうとしていました。

 母は、元々「もったいない教」の信者だったのですが、昨年の暮れにはその信仰が柚子に向かい、柚子の木から落ちた柚子も拾って食べるようになりました(前年までは、落ちた柚子は放っておいて土に還らせていたのですが)。僕は、母が落ちた柚子を食べている様子を見て、「ようやるわ」と冷めた目で見ていたのですが、実は1週間ほど前、そんな柚子を食べてみました。すると、落ちた柚子もまだ食べられるのです! 酸味が弱くなっていて、ほのかに甘みも感じられました。

 この日は、ときどき強い風が吹いたので、家の裏の柚子の木から、柚子が揺れ落ちていました。しかし、僕がそれを先に拾っていたのです(母さんごめん)。最近視野が狭くなってきている母は、柚子の木の近くでは落ちた柚子を見つけることができず、手押し車を押しながら、柚子を探して山の方に入っていったそうです。古い山道を登って行くと、手押し車は押しにくくなり、途中からは手押し車を引っぱって登ったそうです(根性のある人!)。近ごろ脚が弱ってきている母は、引っぱるのがきつくなりました。でも、ここまで来たんだから、上の砂防ダム(10年ほど前に設置されたものです)を見ておこうという気になったみたいで、手押し車をそこに置いて、登って行ったそうです。砂防ダムに近づくと更に勾配がきつくなりましたが、母は後ろ向きになってお尻を地面につけ、足のかかとで地面を押しながら、少~しずつ登って行ったそうです。砂防ダムに着いてみると、期待に反して、水は全く溜まっていませんでした。ダムの中央に進み出すと、急に下り坂になり、そこに落ちて、腰を打ち、痛くて痛くてほとんど動けなくなったそうです。そこで、「おーい」「おーい」と大きな声で助けを呼んでいました。辺りは最初明るかったのですが、夕方から夜になり、暗くなっていきました。

 僕は、夕飯にご飯と人参グラッセと残り物のおかずなどを用意して、まず父の部屋に運んで食べてもらいました。それが午後6時半ごろでした。次に母の部屋に運んだのですが、母は部屋に戻っていませんでした。これまでは父も母もそろってから食べ始めていましたが、濃厚接触問題で別々の部屋で食べるようになりました。たまに母は、やりかけた片づけ事などを済ませて少し遅れて戻って食べ始めることもありました。この日は、母の様子がつかめなかったのですが、そのうち帰って来ると思い、僕も夕ご飯を食べました。その後、7時半ごろになると心配になり、家の中や周辺などを探して回りました。柚子の木の辺りとか、たまに行くことのある場所など思いつくところを何度か回り、もう探すところがなくなりました。

 午後9時ごろ、近所のKさんに相談の電話をすると、すぐにご夫婦で来てくれ、「早う言ってよ」と言いながらいっしょに探してくれ、その後、組内の6軒がすべて出てくれ、いっしょに探してくれました。僕は、我が家にいる妻に電話で状況を報告する中で、以前に母が裏山にウドを取りに行ったことがあることを知り、裏山を少し登ってみました。すると、母の手押し車を発見! 僕はその周辺を探し始めました。若手のFさんも裏山に来てくれ、FさんとKさんは森のようになっている山道を登って行きました。後で聴くと、若手のFさんには「おーい、おーい」という声が聞こえたそうです。20~30分後、「見つけたぞー」という声がして、母が発見されたことがわかりました。午後10時前でした。

←発見された母(腰が痛くて動けない状態)

 応援に駆けつけてくれた町内会長さんが消防署に電話してくれていて、発見されて間もなく救急車が着いて、救急隊員さんが登ってきてくれました。隊員さんたちは、母を板状の担架に載せて4角を持ち、他の隊員さんは草などをかき分けながら、途中で2回休憩して、救急車が待つ道まで母を下ろしてくれました。そして、家族である僕が救急車に同乗して出発。隊員さんが最初に連絡を取った地元の病院からは、受け入れができないと言われ、次に連絡を取った国立医療センターで受け入れができると言われてその病院に向かいました。12時前に病院に着いて、僕はそこで妻と合流。母はそこでCTを撮ってもらい、当直のドクターの受診があり、骨折は無いようだが、明日専門医が診て連絡すると言われました。母を自家用車に乗せて、いったん自宅に寄り、田舎の家に着いたのは翌日の明け方に近いころでした。

 翌日(7日)、病院の専門医さんから電話があり、微量の内出血があるが骨折はないと言われましたが、母は歩けない状態でした。
 その後、母は介護施設でショートステイを利用しながら、回復を待つことになりました。

(最近は、時間のゆとりがないのと、自分の文章作成能力が衰退してきたのとで、でき事とブログ掲載がずれてしまいました)

父が新型コロナの濃厚接触者になりました

2022-03-11 | 介護
←歩行訓練中の父です。

 3月1日、父の通う介護施設で新型コロナ感染者が発見されました。父は送迎の車に感染者と同乗していて、濃厚接触者になったと、施設から連絡がありました。施設から帰った父には、ほぼ自分の部屋だけで過ごしてもらいました。僕はマスクをして、父が触ったところをアルコールなどで消毒したり、父の部屋に食事を運んで一人で食べてもらったりしました。また、心臓の弱い母を感染から守るため、母にもマスクをしてもらい、手洗いに気を付けながら、母の部屋に食事を運んで一人で食べてもらいました。僕は父の部屋と母の部屋の中間の部屋で、一人で食事を摂りました。こうして、親子3人だけの半隔離の生活、来客を断り外出を自粛するという「おこもり」の生活が始まりました。父も母も、よく理解して耐えてくれました。

 3月3日の朝、介護施設の職員さんが2人で田舎の家に来られて、父から検査用の唾液を採取して帰りました。

 3月4日の午前、介護施設から電話があり、検査の結果その施設の濃厚接触者全員が陰性だったと言われました。しかし、元看護師の妻や娘は、「唾液の検査でいいのかなあ?」、「1回の検査だけで正確に分かるのかなあ?」などと、まだ安心できないと言います。結局、6日の日曜日まで、半隔離とおこもりの生活を続けることにしました。

 3月5日、介護施設は父を受け入れるというので、父にはデイサービスに行ってもらいました。僕の介護負担が大きくなっていることもあるので、妻も賛成してくれました。施設から帰った父に聞くと、利用者はいつもより少なくて、新型コロナの感染を話題にする人はいなかったそうです。

 3月6日、日曜日、空は曇って風が吹いていました。母には、父に近づかないようにしてもらい、父は歩行器を押して、午前に1回庭を歩き、午後にも1回歩きました。田舎の家から県道までの道は下り坂で、最近は体力が衰えたので、この坂道を歩行することはほぼ無くなっていましたが、午後の父は、やや体調がよかったのでしょう、その坂道を歩行器で下って行きました。僕は心配になって「この辺で戻ろうや」と言うと、父も「分かった」と言って戻り始めました。坂道を少し上ったのですが、次第に体力がなくなって前に進まなくなりました。僕は、父に歩行器の腰掛に後ろ向きに座ってもらい、転倒しないように気を付けながら、上り坂を歩行器を押し、父は後ろ向きに座った状態で地面を蹴って、坂道を少しずつ上り、庭に戻ることができました。

 このとき母は、僕たちからは見えないところで、ある行動を始めていました。

(この続きは、後日のブログで書きます)

「帰るところが分からんようになった」母

2022-03-01 | 介護
←庭に咲いた水仙。

 2月19日(土)、母は週に1回、木曜日にデイサービスを利用していましたが、体がえらいので止めたいといいます。最近ご飯の量が少し減りました(以前から多目だったので、平均的な量になったのかも)。また、衣類の着脱がしんどいと言って、外出しない日は風呂に入りません(本来は清潔好きの母ですが)。

 21日(月)、僕の息子が妻(息子の母)といっしょに田舎に来て、母(息子の祖母)に鍼を打ってくれました。妻は、母の髪にドライシャンプーをして、体を清拭して着替えさせてくれましたが、僕は昼間は自宅に帰っていたので立ち会えていません。その後、少し母の顔色が良くなってきました。

 22日(火)、電話で妻と相談し、デイサービスで入浴介助を利用することを母に提案しました。母は、自分の入浴は衣類の着脱に手がかかりすぎるので施設のスタッフでは無理だろうなどと躊躇していましたが、試しに利用してみることになりました。

 22日の夜、母は花を切ってくると言って畑の方に出かけていましたが、しばらくして田舎の家の灯りのついた部屋のガラス戸をドンドンと叩きます。その部屋は玄関のすぐ隣の部屋です。僕は玄関から出て「どうしたん?」と言うと、母は「暗ろうて帰るところが分からんようになった」と言います。暗くても家に帰れなくなったということは、これまで一度もありません。

 23日(水)、僕は自宅に帰って妻と相談。母が夜に一人で田舎に居るのは危ないかもしれないと考え、父がショートステイのときも、夜は母一人にさせないことにしました。妻には毎月数日は田舎に泊まってもらい、僕も田舎に泊まる日を増やすことになります。23日は妻も僕といっしょに田舎に戻ってくれました。

 これからは、このブログを書く時間がなくなるかもしれません。

 24日(木)、妻が母のデイサービス利用の準備をして(僕も準備の要点を聴きながら)、僕は父のショートステイ利用の準備をして、2人を送り出しました。この日は、僕は自宅に帰っていて、デイサービスから帰ってきた母の様子を妻からの電話で聞き、母がずいぶん喜んでいて、入浴付きのデイサービスをもっと利用したいと言っていると言うようになったということでした。

(3月2日追加)
 2月27日、自宅の掲示板に「プーチンは侵略戦争やめろ!」という訴えを貼り出しました。

母は肩の痛みもあって、いろいろと面倒くさくなる

2022-01-31 | 介護
←自宅の庭で人参ができました。

 今日(1月31日)は、田舎の家から、母を連れて予約していた歯科医院に行って歯の治療をしてもらいました。受付や治療後の支払い、次の治療予約などは、母だけではできなくなっています。

 母は、筋力が弱くなってきたうえに左肩が痛くなり、衣服の着脱が面倒くさいみたいで、ここ数日はお風呂に入っていないと言います。

 今日は僕が洗濯しようかと言うと、「トイレに行く途中で出てしもうた」(尿漏れパッドは着けていたのですが、ズボンといっしょに脱ぎかけたとき、間に合わず出たようです)と言って濡れたズボンなどを持ってきたので、いっしょに洗濯しました。

 朝食は、母と2人だけ(父はショートステイの最終日)なので、インスタントの味噌汁にして、昨晩仕込んでいた鯖の甘酢漬けや残り物のおかずを食べました。母だけのときは、どんぶりにご飯と残り物のおかずを入れて混ぜて食べています。最近は、箸が使いにくくなったみたいで、ご飯やおかずをスプーンで食べるようになりました。残ったおかずを冷蔵庫に戻すのも重たいみたいで、僕に頼むことがあります。

 夕方、父が帰ってきました。送迎車から車いすで玄関まで送ってもらい(昨年までは自分で歩行器を押して移動していました)、家の中に入って、なかなか立つことができず、「痛っ!神経痛で頭に稲妻が走った。歩けんなったし、もうおしまいかな」と独り言。最近はときどき弱音を吐くことがあります。

 外が薄暗くなったころ、僕が母に「イノシシの柵は閉めれる?」と訊くと、母は「開けるのがめんどいから閉めん」と言います。肩が痛くなってからは、柵を閉めていないようです。以前は、イノシシが家のそばの畑に入って野菜を掘って食べることがあり、数年前にイノシシの侵入を防ぐための開閉できる柵を家に入る道に設置し、毎夕閉めて朝開けていました。

 母は、今晩はお風呂に入りました。

母は38度あったので、施設から呼ばれて病院に

2022-01-27 | 介護
 今日(1月27日(木))の父は、スローながら順調に準備ができて、4泊5日のショートステイに"出勤"して行きました。

 そして今日は、母(=要介護1)の週1回のデイサービスの日でした。母は、肩の痛みをこらえながら、前日から施設に活けてもらうための花束を作ったりして準備して、迎えの車に乗って出かけました。朝食後の体温は37.1度あり、いつもは36度台なのでやや高めでした。
 その後、介護施設から電話があり、母の熱が38度あるので迎えに来て受診してくださいと言われました。迎えに行くと、その時の熱は37.7度でしたが、母を病院に連れて行きました。

 僕が病院の受付に行って母の状況を話すと、二人とも駐車場で待機するように言われ、待っていると看護師さんが車まで来て、母の赤血球の濃度を測りました。しばらくして若いお医者さんが車まで来て診察、肩はレントゲンを撮った方がいいかなあと言っていました。お医者さんらが白衣の上に着ていた透明のカバーは、ナイロン袋の中に脱ぎ捨てていました。
 またしばらくして看護師さんが来て、母は車いすに乗せられて、病院の裏口から入っていき、僕は車の中で待機。その後、僕は母のいる個室に案内され、母はレントゲンを撮った後でした。僕の妻にメールで今の状況を知らせようとしたのですが、この個室は電波が届かない部屋でした。母の体温は37.5度でした。しばらくして看護師さんが入ってきて、母の鼻の奥に綿棒を入れて組織を採取しました。
 しばらくして、内科に案内され、PCR検査の結果は陰性だった、レントゲン画像を見ると肩の骨は骨折の可能性もあるので、整形外科の先生に診てもらいましょうと言われました。整形外科の顔なじみのお医者さんの診察を受け、レントゲン室でCTを撮影しました。
 しばらくして、整形外科でCT画像を見ながら、骨折ではなく「剥離骨折」?とか言われ、痛み止めを処方され、3週間後の受診予約となりました。
 会計を済ませたのですが、このままでは妻に母の状態を説明できない!という"恐怖感"に襲われ、看護師さんに母の状態を尋ねると、「薬をもらってきて下さい。その間に先生に聞いておきます」と言われました。
 薬局で薬をもらって戻ると、僕は整形外科の診察室に案内され、お医者さんから骨の模型を出して説明され、「左肩腱板断裂」と書いたメモを渡されました。左肩から腕にかけての痛みは、痛み止めを飲みながら動かせる範囲で動かしていれば1カ月くらいで痛みは取れるということでした。
(この記事は1月27日に書きかけたのですが、書き上げ・投稿は29日になりました)

敷き布は尿で、掛布団はミルクで濡れました

2022-01-25 | 介護
 今日(1月25日)は、夜明け前に「来てくれえ」という声で起こされて父の部屋に行ってみると、父はベッドの端に座って「寒い。濡れた」と言っています。尿をたっぷり含んだ紙パンツは脱ぎ捨てられていましたが、パッドがありません。パッドを充てるのを忘れたみたいで、衣類も濡れ、敷布と防水シーツも濡れていました。衣類を持って行って着替えを手伝い、シーツ類をはがして代わりに臨時の毛布を敷きました。そして、蓋つきのコップに入れたミルクを持って行き、朝食の支度にとりかかりました。父からは「お婆さんはどねえなら?」と聞かれました。昨日の母の転倒で、父も昨夜から動揺していたみたいです。
 支度の途中で様子を見に行くと、「ミルクのコップが無(ね)えなった」と言うので探していると、掛布団の足元近くに蓋のないコップがあり、ミルクがこぼれ出ていて、僕が布団を引っぱってしまったので、ミルクは畳の上にもこぼれました。畳の上にこぼれたミルクを濡らした布と乾いた布で拭き、掛布団も濡れ布と乾いた布で簡単に拭いておいて、朝食の支度に戻りました。

 母は、昨日転んでわき腹を打っていましたが、わき腹を押してみてもほとんど痛みはないようでした。しかし、肩の痛みは少しは軽くなったものの残っているようでした。母も何とか食卓に着き、父と3人で食事(メインディッシュはシシャモ焼)を済ませ、父はトイレに行き、母はベッドに戻りました。父はトイレを済ませ、ゆっくりと余裕で玄関に向かいましたが、途中で「少し残っている」と言ってトイレに戻り、再びトイレから出たときには遅くなっていて、迎えの職員に家に上がって手伝ってもらいながらデイサービスに"出勤"しました。僕は、濡れたシーツ類を洗って干し、掛布団のミルクは再び濡らした布で拭き、こたつ布団のようにこたつに被せて乾かしました。

 午後は、予約しておいた3回目の新型コロナワクチン接種を両親が受けるため病院に行き(父は施設に迎えに行ってから病院に)、母は整形外科も受診してレントゲンを撮ってもらいました。注射の副反応もほとんどなく、骨の異常もありませんでした。注射が終わった車いすの父は、自動販売機のそばのテーブルで缶コーヒーを飲んでいて、僕は母がレントゲン室や整形外科に行く度に付き添ったり、父の様子を見に行ったりしていたのですが、途中で父の姿が見えなくなって、探した結果、病院の外にいて、「寒いなあ」と言う父を見つけて「やれやれ」って感じでした。

うん〇拭きの日でした

2022-01-24 | 介護
 昨日(1月23日)は日曜日で、小雨がずっと降っていたので、父は一日中田舎の家で過ごしました。午後、父から突然「生まれ故郷に行きてえ。もう行けんようになるから、連れて行ってくれえ」と2・3度言われました。悪いけど、コロナ下で行くのはまずい、父の実家にいるのは視力障碍の甥だけなので迷惑かけるからというと、今回は早めに引き下がってくれました。あとで「わがまま言うまあか」という独り言が聞こえました。昨日の父はわりとおとなしい人でした。

 今日(24日)は父のデイサービスの日です。朝、父は部屋から出てきて、僕が用意した着替えをゆっくり着ていました。その途中で、僕は父のパッドを回収するため、父の部屋のトイレを見に行きました。すると、パッドや便座などにうん〇が付いていました。そのうん〇が付いているところにトイレットペーパーを濡らして被せてから、着替え中の居間に戻り、父のお尻を濡らした布で拭きました。母も着替えを手伝ってくれ始めましたが、なんか臭いが消えていないような気がしていて、父の手を見ると、両手の何か所かにうん〇が付いている!布を何枚か濡らしてきて、父の手を何回か拭き、着替えた衣類もまた着替え直しました。父の手を石鹸でよく洗って(父はチラッと涙を流しましたが)、やっとご飯となりました。3人で朝食を済ませ、父は洗面所手前のトイレに行き、僕は父の触ったところを濡れた布や除菌タオルなどで拭いて回りました。父が用を足して玄関に出て少し待っていると、迎えの車が来て出かけて行きました。僕は、拭き残したところを拭き、便器を掃除して一段落。途中で父に聞いたところ、うん〇が出たのが分らなかったようです。う~ん、これからどうなることか。便が軟らかすぎたことも分からなかった原因かもしれないので、今日の夕食後の酸化マグネシウムを1錠抜いてみようと思いました。

 今日の夕方はいつもより早めの16時ごろ田舎に帰りました。家に着くと、母が焼却場の近くで転んでわき腹を打ったらしく、ベッドで横になっていました。僕は妻(=元看護師)と連絡を取り、母には安静のままでいてもらって、夕食(メインディッシュはアサリの酒蒸し)を作りました。母は、わき腹は体を動かさなければ痛くない、肩の方が痛くなっている、風呂に入って肩を温めたいというので、風呂を沸かして入ってもらいました。そして、今宵は父と2人で夕食をとりましたが、父は寂しそうでした。母は、いつものような長風呂から上がり、寝室に入りました。肩は痛いけど、このまま寝て、明日朝の調子をみて対策を相談することにしました。

朝の洗顔を省略して蒸しタオルで顔を拭く

2022-01-22 | 介護
 今日、1月22日(土)は父のデイサービスの日でした。朝のミルク、着替え、入れ歯装着、顔拭き、食事(ほっけ味醂干し焼がメインディッシュ)、薬服用、検温、排便ともにスローペースながら順調でした。

 前記の「顔拭き」について。以前、父は起床後に父の部屋のトイレに入り、部屋から歩行器で出てきて洗顔の前に洗面所手前のトイレに入り(トイレがあると便意をもよおすようです)、食事が終わって出かける前にもトイレに入るため(時にはトイレから出て玄関の方に行っている途中でまた便意をもよおしてトイレに戻ってくることも)、だんだんと動作も遅くなってきて、施設からのお迎えに間に合わせるのが大変になってきていました。そこで、父も納得して食事前の洗顔を省略し、蒸しタオルで顔と手を拭いてもらって支度時間を節約して、お迎えに間に合うように工夫しました。でも、最近はさらに動作が遅くなって、蒸しタオル拭きでも、お迎え時刻に間に合わせるのが大変になってきています。

 父は、施設に行くのが好きではありませんが、母は、手のかかる父に、施設に行ってほしいのです。数年前に母の勧めでデイサービスを利用した父は「子ども扱いのチイチイパッパに付き合えるか」と言ってほとんど行っていませんでした。3年あまり前に腰を複雑骨折して動きにくくなった父は、仕方なく施設の利用を増やしてきました(施設のお遊戯との相性も少し良くなってきました)。それで、虫の居所が悪いと「脚が痛い。今日は行かん」と言って"出勤"を拒否することがあり、でも母の説得で、最終的にはほとんどの場合"出勤"しています。

母からも保険証や診察券を預かる

2022-01-18 | 介護
←今朝は雪景色。土の上の雪は解けています。

 今朝(1月18日(火)デイサービスの日)の父は順調でした。6時過ぎにお湯で溶いたスキムミルクを父の寝室に運んで「おはよう」と声かけ。トイレの隅に置いてある、中にナイロン袋を敷いたかごに使用済みの尿とりパッドが1枚だけ(いつもは2枚くらい入っていて、濡れた紙パンツが入っていることも)。ソックスを履き替え、ズボンと上着を身に着けて、食卓まで出てくるのは相変わらず遅い。でも、残り物の焼鮭を温め、具だくさんの味噌汁、その他の残り物を食べ、施設の連絡帳に書くための体温を測り、トイレに座って用を足し、玄関に出てくると8時半過ぎ。ちょうどそのころに施設からの車が来て”出勤”(父が「出勤」だと言うんです)できました。

 母は、昨日(17日)夜中に「あった、あった」と言って保険証の入った小物入れを僕に渡してくれました。3日前に地元の病院にかかったときから保険証が見つからず、ずっと探していたのですが、母の寝室の枕元にある箱の隅にあったそうです。こんなことは以前にもありました。母が受診するときは僕が付き添うので、これからは僕が保険証や診察券を持っておくことにしました(父のは以前から僕がもっています)。母は、夜中に洗濯したり入浴したり雑用をしたりします。今は、朝食後の食器を洗ったあと、ベッドに斜めに横たわって眠り続けています。

落ち込んだことも忘れてくれる"認知症"

2022-01-17 | 介護
 1月17日、父はデイサービスの利用日でした。僕は、昼間に自宅で用事を済ませ、少し買い物をして、17時すぎに田舎に帰ると、父はいつものように施設の方に送ってもらって母の待つ田舎の家に帰っていました。父の部屋に行って「帰りました」と言うと、父も帰って間がなかったみたいで「帰りました」と返してくれました。今朝の重たい雰囲気は忘れ去られたみたいで、これが認知症のいいところだなと思いました。
 夕食は、冷蔵庫のご飯を温め、サケを電子レンジで焼き、あとは残り物(南瓜と鶏の煮物、ひよこ豆の煮物、千切り大根の酢の物、鯖の甘酢漬け、買った漬物類)で済ませました。

便が軟らかくなりすぎて失敗か

2022-01-17 | 介護
 昨日(1月16日)は、父と「今日は天気が良さそうじゃから、昼から少し歩こうや」と話していたけど、午前中に排便を失敗。軟便で、便座に落ち着く前に漏れたみたいです。それで落ち込んだのか、午後の歩行はやめて、ベッドに入って寝ました。
 夕方は、トイレの汚物入れの上に尿取りパッドが置いてあり、開くと軟便が付いていました。普段はあまり失敗しないのに、今日は2回も失敗。
 夕食後は普通に床に就きましたが、深夜に大きな声で「おーい」と呼ばれ、父の部屋に行ってみると濡れたズボンとズボン下、ソックスが部屋のトイレに脱ぎ捨てられていて、父は「こねーに布団を冷とうして、しっこが漏れたがな」と怒っています。電気シーツの温度調節が冷たい方にいじられていました。「誰が冷とうしたんなら」と怒られましたが、父以外にいじる人はいませんでした。乾いたズボン下、ズボン、ソックスを持っていくと、自分で履いて寝ました。
 今朝(17日)は父の動作が非常に緩慢で(昨日の落ち込みを引きずっている模様)、朝食は何とか済ませましたが、施設からのお迎えまでにトイレが済まされず、数十分遅れで僕が送って行きました。父は、朝と夕に酸化マグネシウム(カマグ)各1錠を他の薬といっしょに飲んでいますが、今朝は朝の薬からカマグを除いて飲んでもらいました。カマグは便を軟化させるみたいなので、今朝は飲まない方がいいと考えました。薬は、朝は5錠、夕は7錠飲んでいて、以前は僕の手から父の手に手渡ししていましたが、たまに薬が床に落ちていたこともあったので、今は薬を小さなカップに入れて渡しています。

田舎で介護しています

2022-01-16 | 介護
←お正月に柚子ジャムを作って、お遊びで柚子の皮の中に入れてみました。

 2020年ごろから、田舎の父に対する母の老々介護が限界になり、僕の妻と協力して、介護と家事の援助で田舎と自宅を通うようになりました(田舎は車で35Kmのところです)。

 20年5月、蕗取り中の妻が斜面から転落、大腿骨折して2カ月入院しました。僕は、田舎の両親の介護や自宅の家事などで右往左往。

 今は、1カ月30日のうち20日間、田舎で介護や家事の手伝いをしています。妻は自宅でリハビリ中ですが、最近は田舎の介護・家事などたまに手伝ってくれるようになりました。
 父は、1カ月のうち14日(4回)のショートステイと13日のデイサービスを利用しています。母は週1回のデイサービスを利用しています。ときどき父が「今日は行かん」と言って困らせることがあるので大変です。