クズラのブログ

日頃の農作業や社会活動、そして両親の介護などを綴ります(22年1月記)

古代からの山陽道についての講座に参加

2018-03-25 | その他

 本日(25日)午前、旧山陽道についての講座(岡山市立高島公民館歴史講座・備前の山陽道を辿る~旧山陽道講座総集編~)に参加しました。

 山陽道は、当初は行政的な必要から古代の7世紀ごろにつくられ、播磨から備前、備中、美作、備後、安芸、周防を経由して長門まで通じていました。そして、時代によってルートが変遷してきたようです。

 この播磨から長門のルートの内、備前の国の西端から東端までのルートについて説明を受けました。

 古代の山陽道は、私の自宅の近くを通っていました。備前市三石から赤磐市下市(しもいち)、岡山市北区牟佐、玉柏、原、三野、富原、一宮を通って備中へ延びていました。牟佐から玉柏までは旭川を舟で渡っていました。

 中世の山陽道は、龍ノ口山の南を通り、中区の国府市場を通って旭川を渡り、半田山の南側を通って富原の方へ延びていました。

 近世(江戸時代)の山陽道は、中区の森下町を通って小橋町から京橋町までは旭川を橋で渡り、岡山城の南を迂回して一宮を通っていました。

虎倉城の見学に参加

2018-03-19 | その他
 昨日(18日)、岡山市立御津公民館の虎倉城址見学会に参加しました。

 ふもとの市場公会堂に立ててある看板(写真)には次のように書かれていました。
町指定文化財虎倉城址(標高三二七米)
 築城の年代は定かでない。虎倉物語(虎倉村又兵衛)によれば、伊賀伊賀守が赤坂郡鍋谷の城から移ったとあるが、それは備前軍記等から文明十二年(一四八〇)ごろと推定される。一説によれば伊賀兵庫頭が応永のころ(一四〇〇前後)築城。また、大永七年(一五二七)服部伊勢守築城という説もある。城主は伊賀勝隆-久隆-与三郎家久の名が知られている。
 天正二年(一五七一) 虎倉合戦毛利勢敗退
 天正六年(一五七八) 久隆病没伊賀氏離散
  家臣の多くは奥津高に帰農。宇喜多家臣長船氏・
  石原氏入城
 天正十年(一五八二) 小寺官兵衛一時在城
 天正十六年(一五八八) 長船・石原内紛焼亡

 朝9時半に市場公会堂に集合しました。そこから見た、頂上に虎倉城址がある山(写真右)を見上げると、「これを登るのか!?」と、少し前途の厳しさを予感させられました。

 登山道は地元の人たちに手入れされていましたが、かなり急峻な道でした。
 年配の参加者が多く、2手に分かれて、約1時間かけて、山野草などを見ながら、ゆっくり登りました(写真右)。
 帰りの下り道は滑りやすく、滑って尻もちをつく人も数人いました。

 頂上付近には、歓喜山の頂上を平らにひらいて虎倉城址歓喜山供養碑などを設置しているところがありました(写真右)。
 そこには、供養碑とともに、石灯篭、虎倉奉祀者名碑、供養碑芳名者写などの石碑があります。

 以前(20年位前)、父母とこの地を訪れたときは、ここが城跡と思い込み、ここで手を合わせて帰りました。

 そして本丸址に登り、歴史研究者から説明を受けました。
 虎倉城址のある城山は急な山で天然の備えとなっています。また、主要な交通路の金川と高梁を結ぶ道、現在の県道高梁・御津線を見下ろすことができる重要な所です。
 虎倉城は連郭式山城で、慰霊碑のある郭から東へ200mの山頂に本丸があります。本丸から東に二の丸、出丸が、西に三の丸があります。郭の先には堀切が設けられています。本丸は石垣で築かれ、東西32m×南北27mの広さがあります。瓦片も見つかっています。虎倉城は重要部に瓦ぶきの建物が建ち、土塀が巡るしっかりした城だったのでしょう。しかし、この城は戦いの時に備えた城で、ふだんは山麓の小屋で生活していたようです。

 私の郷の建部町鶴田字上曲りには、虎倉城から下ってこの地に定着した葛原一族が建てた葛原大明神という明神様(佐狩様)があり、秋には一族が集まってお祭りをしていました。虎倉城では葛原は家老をしていて、弓の名手だったそうです。

(関連サイト)
地元(=母谷区)自治会の記事
佐狩(葛原)大明神の秋祭り(YouTube)

じゃが芋を植えました

2018-03-08 | 慣行農業
 昨日(7日)、畑にじゃが芋を植えました。

 実家から余った種イモを32個もらい、半分は切った方を下に皮の方を上にして植え、半分は逆向きに植えました。皮の方から芽が出るので、皮を上にすると早く育ち、皮を下にすると一旦地下に向って芽が出てから湾曲して地上に向って伸びるので強く育つと書いてありました。さて、どうなるか楽しみです。



 その後、皮を上にしたものも下にしたものも、(肥料分が少ないなりに)見た目では同じように成長していました。

 5月、土が掘り返され、すべての芋の苗が倒され、ほとんどの種イモが食べられ、小さな新じゃがもほとんど食べられていました。犯人はイノシシの可能性が大きいと思いますが、電気柵に異常が見られないので、もっと小さな害獣が犯人の可能性もあります。電気柵ちかくの畝にゴボウを蒔いて、その元肥に発酵生ごみを埋めていたのですが、それが掘り返されていました。そのとなりがじゃが芋でした。

 発見したのは5月下旬で、掘り返されたのは数日前だと思われます。倒された苗は、根の一部が土に残っていた苗はまだ生気が残っていたので、土に埋め直してみました。
 

柿の木の接ぎ木を試しています

2018-03-03 | その他
 昨年、山柿の木を地上数十センチのところで切り倒していました。その後、写真のように切り株から新しい枝がいくつも伸びていました。

 今日は、西條柿の枝を切ってきて、山柿の枝に接ぎ木しました。

 山柿の枝は幹から数センチのところで切り落とし、切り口にV字の切り込みを入れ、そこに先を尖らせた西條柿の枝(穂木)をはめて、灰色のナイロンテープを巻いて固定しました(幹の左に4カ所、右に1カ所、後で幹の裏側にも1カ所追加)。

 以前、接ぎ木の講習を受けたときは、穂木は寒いときに切ってろうを塗って冷蔵庫で保管しておくと聞いていました。

 昨年の退院後は、体調の回復が緩やかで、田んぼの手入れにも手を取られていました。それで今回は、余裕がなかったこともあり、ろうを塗らず冷蔵庫にも入れていないので、成功するかどうかわかりません。失敗を覚悟で、6カ所で接ぎ木を試みています。


 5月26日、接ぎ木をした穂木からは、まったく芽が出ませんでした。



2019年も挑戦しています。

最後に上段の田んぼを耕しました

2018-03-01 | 冬期湛水田


 2月27日、最後に上段の田んぼ(一昨年まで冬期湛水してきた田)を耕すことができました(中段と下段の田んぼは済ませた)。

 写真のトラクターの右側は耕したところで、トラクターの前と左側がイノシシが掘り返していて、これから耕すところです。

 昨年の入院で田んぼや電気柵の手入れができず、イノシシが田んぼを掘り返していました。体調を整えながら、少しずつ3枚の田んぼのあぜ草を刈ったり電気柵を再設置したりしてきました。

 いったんイノシシが入ったら(糞も残しているので)、電気柵があっても、入り続ける可能性が大きいようなので、今後どうなるか分りません。なお、イノシシは中段と下段の田んぼには入っていません。

 残念ながら、イノシシが上段の田んぼに入りました(3月11日撮影)。