
最初のプログラムは「みんなで歌おう」で、澤山博一さんのギター伴奏で「若者たち」を唄いました。いつ聞いても、なつかしいような、それでいて新鮮な感じを受ける歌です。
次に、玉柏の久山忠志さんから聞き取った、戦時中の体験についての文章(下記)をスタッフが読み上げました。
そして、その体験の中に出てくる玉柏駅周辺での機銃掃射(軍用機に装備している機関銃で、低空飛行しながら、逃げ惑う人々をなぎ払うように弾をあびせること)で犠牲になった方が義父にあたるという方も参加されていました。
憲法井戸端会議は、11人の参加者が6人と5人の2つの班に分かれて、日本国憲法前文を読み合わせ、それぞれ意見を出し合いました。最後に書いてもらえる人には感想文を書いてもらいました。
1班では、「前文には国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という3つの柱が書かれている」、「前文は格調高く、難しい言葉が多いので、かみ砕いた文章があればいい」、「『あたらしい憲法の話』は分かりやすく、これを読んでから憲法本文を読む方法もいいのではないか」、「憲法を理解できるような日本語教育がなされていないのではないか」などの意見がありました。
また、「改憲派は“押し付けられた憲法”だというが、その背景を理解することが大事ではないか」「日本の戦争責任をあいまいにしていて、戦犯とされた人が政治の中枢に返り咲くなどの経過があり、問題が残っている」など、憲法のそもそもについて様々な話ができました。
2班では、「権力は抑制がないと暴走する」、「憲法は政治家にこそ読ませないといかん」、「憲法はイギリスの議院内閣制を手本としている」、「日本の政治体制は国民が選んだ代表者が行うという間接民主主義である」、「天皇制を守ろうとする幾つかの立場や勢力からの働きかけによって象徴天皇制が産まれた」、「憲法がどういうことを決めているかを理解することが必要だ」、「戦後、たくさんの憲法研究会ができ、それぞれの意見を国会に届けてきた」などの意見がありました。
〇グループ討議を終えた後の合同の場では、次のような意見が出ました。
・どういう点について話すかについて、事前にその方向くらい出しておいてほしい。
・会の内容を「憲法井戸端会議」と銘打っている通り、参加者によるフリートークで、それぞれが分らないこと、もっと知りたいこと、また、分かったことなどをお互いに自由に話し合いました。指導者や助言者を置かず、参加者それぞれが、話し合いの中から、自分の中の「憲法理解」を一歩進めることを目指しました。
・次の会議では、(案内ビラに)「天皇制について勉強しましょう」などの文章があってもいい。下調べもできるので。
・講師がいないことでいろいろな意見が出し合え、自分なりの理解を持つことができるのがいい。
・言葉がむずかしいので、かみ砕いた文章があるといい、日本会議は美しい文章にすべきだと言い、押しつけ憲法だという人もいるが、「新しい憲法の話」は参考になる。日本には戦争責任がある。
(感想文)
・どこのどの町に住んでいても、日本歴史を勉強する事は大事です。戦争とはどんなものか。十代 二十代 大人世代で、日本、外国の映画で理解したと思います。文学や映画で戦争が如何に人間をダメにするか。戦後、平成の時代でも理解する事が大事です。人間は、生活の上で戦争がどんなものか、子供、大人を問わず、正しい考え、正しい知識を身近に考え話すことが大事で、今日は良い一日でした。
・九条の会が作った映画「9条」を観て学習しませんか?上映セットあります。もう少し人が集まれば良いですね。
・グループ分けしたことで、1人ずつの話せる量が増えてよかったと思いました。前文の格調の高さに改めて触れて、歴史をふりかえることができて、いろいろ勉強になりました。
・また憲法を読む――“私の中で生きているものがこれだ”~こんな思いを強め、現状の政治の動きへの批判を――強めていきたい。
・憲法前文から多くを学び、話の花が咲きました。戦争体験の素朴な話も聴けるとありがたい。
・憲法前文、平和主義(9条)には戦争への反省が強く込められていると思うが、我々の戦争そのものへの理解、反省が不十分と思える。戦争末期多くの一般国民が犠牲になる状況になっても、国体護持(天皇制存続)のため、講和が遅れ、さらに犠牲が増大した。今の政権を見ているようだ。
・前に玉柏駅での機銃掃射の話を聞いた時も、死んだ人もいたり、女子高生もモモを撃ち抜かれたりしたことを聞いて、こんな田舎でも攻撃しに来るんだと、岡山空襲よりも、ある意味こわい思いをしましたが、今回、亡くなられた方のご家族の方にお会いして、逃げても逃げても飛行機が追いかけてきて機関銃で撃ちまくってくる恐怖とその現実味がひしひしと感じられて、戦争の理不尽さと残虐性に怒りと恐怖を強く感じ、亡くなられた方やご遺族の方のやり場のない怒り、悔しさ、悲しみ、いたましさに胸がつぶれそうになりました。戦争は二度と二度と、二度としてはいけない。
久山忠志さんのお話(2018.4.7聞き取り)
![]() 中原橋は木造、河原でサツマイモ作り 私らが5年生のころは、中原橋は木造で、その上流の河原を開墾してサツマイモを作っていて、勤労奉仕で駆り出されていました。食糧がないので、5・6年生は学校の勉強を3・4時間したら、畑に野菜などを作りに行っていました。お米を作ってない家では、サツマイモの蔓や麦を混ぜて食べていました。 学校では敵兵に見立てたワラ人形を突く訓練 学校へは、々々で並んで、旗を持って登校していました。校門を入るとすぐ横に奉安殿があり、天皇陛下の写真か何かを祀っていて、それにお辞儀をして入りました。体育の時間には、アメリカやイギリス兵に見立てたワラ人形を作っていて、竹やりで突く訓練をさせられました。日本には銃などの武器はほとんど何もなくなって、竹やりや木刀しかないので、太刀打ちできるもんではありません。授業でも、軍事訓練のような話が多くて、勉強するような雰囲気ではありませんでした。生徒でも航空隊や海洋隊のようなものをつくって、放課後に残って訓練していました。 グラマンが撃ちながらこっちへ飛んで来た 岡山空襲の前か後か分りませんが、その日は空襲警報のサイレンが鳴ったので、面白半分で土手に上がって見ていました。当時は今の県道の辺りが土手で、県道は土手の下を通っていました。 グラマンが2機か3機、岡山の方から、バリバリバリと撃ちながらこっちに向かって来たので、こりゃあ逃げにゃあおえん思うて家に駆けり込みました。家のすぐ上ぐらいを低く飛んできて、薬きょうが家の前に落ちてきました。飛行機が去った後、その薬きょうを拾って水田大尉のところへ持って行きました。山の方から汽車が線路を降りてきて、飛行機は列車を狙って撃ったと聞きました。その時分、日本は抵抗できなかったから、向こうは面白半分に撃ったりしていたようです。 同級生のお父さんが撃たれて死んだ 後から聞いた話では、赤レンガのすぐ横が同級生の秋山晴之さんの家で、そこのお父さん(恭平さん)が葡萄畑か梨畑に出ていて、機銃掃射で撃たれて死亡しました。私が子どものころ、秋山さんの家は梨をつくっていて、梨をもらって食べたこともありました。 6月29日の岡山空襲のときも、朝方だったかなあ、空襲警報が鳴って土手に上がったら、焼夷弾がものすごく落ちたから、花火のようにきれいに見えました。天満屋や中国銀行は鉄筋でしたが、その地下に逃げ込んだ人は蒸し焼きのようになって亡くなったそうで、旭川の方に逃げた方がよかったようです。 戦争直後には岡山方面からリュックを背負って食糧と交換に来た 戦争直後には、岡山方面の人はリュックを背負って着物などと食糧とを物々交換しに来ていました。戦後に新制中学が三軒屋にできたんですが、できるのが遅く、関西高校のところに中学があったので、遠かったけど試験を受けてそこに通いました。玉柏駅から岡山駅に出て、そこから三門駅まで行ったのですが、当時は客車がなかったので、貨物列車や材木などを積む無蓋車に乗って行っていました。汽車の本数が少なかったので、ええ時間に便がないときには三門まで歩いて行くこともありました。今は無人駅じゃけど、その時分の玉柏駅には、駅長と助役と駅員数人がいました。定期券を買っていたので、発車の5分か10分前ぐらいに家を出て、線路を走って行って乗れるところにさばりついて乗っていました。中学1年のとき、帰りの吉備線がものすごく混んでいて、私らの連れが落ちて死んでしまいました。 |