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牧石九条の会(まきいしきゅうじょうのかい)

この会は、「九条の会アピール」に共感した、岡山市北区の牧石学区に関係する人たちの会です(2016年1月結成)。

戦時中の暮らし体験を聴き、憲法井戸端会議ひらく

2018-07-04 | 記事
 6月17日、戦時中の暮らし体験を聞く会と、憲法井戸端会議を牧石コミュニティハウスでひらきました。

 最初のプログラムは「みんなで歌おう」で、澤山博一さんのギター伴奏で「若者たち」を唄いました。いつ聞いても、なつかしいような、それでいて新鮮な感じを受ける歌です。

 次に、玉柏の久山忠志さんから聞き取った、戦時中の体験についての文章(下記)をスタッフが読み上げました。
 そして、その体験の中に出てくる玉柏駅周辺での機銃掃射(軍用機に装備している機関銃で、低空飛行しながら、逃げ惑う人々をなぎ払うように弾をあびせること)で犠牲になった方が義父にあたるという方も参加されていました。

 憲法井戸端会議は、11人の参加者が6人と5人の2つの班に分かれて、日本国憲法前文を読み合わせ、それぞれ意見を出し合いました。最後に書いてもらえる人には感想文を書いてもらいました。

 1班では、「前文には国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という3つの柱が書かれている」、「前文は格調高く、難しい言葉が多いので、かみ砕いた文章があればいい」、「『あたらしい憲法の話』は分かりやすく、これを読んでから憲法本文を読む方法もいいのではないか」、「憲法を理解できるような日本語教育がなされていないのではないか」などの意見がありました。
 また、「改憲派は“押し付けられた憲法”だというが、その背景を理解することが大事ではないか」「日本の戦争責任をあいまいにしていて、戦犯とされた人が政治の中枢に返り咲くなどの経過があり、問題が残っている」など、憲法のそもそもについて様々な話ができました。

 2班では、「権力は抑制がないと暴走する」、「憲法は政治家にこそ読ませないといかん」、「憲法はイギリスの議院内閣制を手本としている」、「日本の政治体制は国民が選んだ代表者が行うという間接民主主義である」、「天皇制を守ろうとする幾つかの立場や勢力からの働きかけによって象徴天皇制が産まれた」、「憲法がどういうことを決めているかを理解することが必要だ」、「戦後、たくさんの憲法研究会ができ、それぞれの意見を国会に届けてきた」などの意見がありました。

グループ討議を終えた後の合同の場では、次のような意見が出ました。

・どういう点について話すかについて、事前にその方向くらい出しておいてほしい。
・会の内容を「憲法井戸端会議」と銘打っている通り、参加者によるフリートークで、それぞれが分らないこと、もっと知りたいこと、また、分かったことなどをお互いに自由に話し合いました。指導者や助言者を置かず、参加者それぞれが、話し合いの中から、自分の中の「憲法理解」を一歩進めることを目指しました。
・次の会議では、(案内ビラに)「天皇制について勉強しましょう」などの文章があってもいい。下調べもできるので。
・講師がいないことでいろいろな意見が出し合え、自分なりの理解を持つことができるのがいい。
・言葉がむずかしいので、かみ砕いた文章があるといい、日本会議は美しい文章にすべきだと言い、押しつけ憲法だという人もいるが、「新しい憲法の話」は参考になる。日本には戦争責任がある。

(感想文)

・どこのどの町に住んでいても、日本歴史を勉強する事は大事です。戦争とはどんなものか。十代 二十代 大人世代で、日本、外国の映画で理解したと思います。文学や映画で戦争が如何に人間をダメにするか。戦後、平成の時代でも理解する事が大事です。人間は、生活の上で戦争がどんなものか、子供、大人を問わず、正しい考え、正しい知識を身近に考え話すことが大事で、今日は良い一日でした。

・九条の会が作った映画「9条」を観て学習しませんか?上映セットあります。もう少し人が集まれば良いですね。

・グループ分けしたことで、1人ずつの話せる量が増えてよかったと思いました。前文の格調の高さに改めて触れて、歴史をふりかえることができて、いろいろ勉強になりました。

・また憲法を読む――“私の中で生きているものがこれだ”~こんな思いを強め、現状の政治の動きへの批判を――強めていきたい。

・憲法前文から多くを学び、話の花が咲きました。戦争体験の素朴な話も聴けるとありがたい。

・憲法前文、平和主義(9条)には戦争への反省が強く込められていると思うが、我々の戦争そのものへの理解、反省が不十分と思える。戦争末期多くの一般国民が犠牲になる状況になっても、国体護持(天皇制存続)のため、講和が遅れ、さらに犠牲が増大した。今の政権を見ているようだ。

・前に玉柏駅での機銃掃射の話を聞いた時も、死んだ人もいたり、女子高生もモモを撃ち抜かれたりしたことを聞いて、こんな田舎でも攻撃しに来るんだと、岡山空襲よりも、ある意味こわい思いをしましたが、今回、亡くなられた方のご家族の方にお会いして、逃げても逃げても飛行機が追いかけてきて機関銃で撃ちまくってくる恐怖とその現実味がひしひしと感じられて、戦争の理不尽さと残虐性に怒りと恐怖を強く感じ、亡くなられた方やご遺族の方のやり場のない怒り、悔しさ、悲しみ、いたましさに胸がつぶれそうになりました。戦争は二度と二度と、二度としてはいけない。

久山忠志さんのお話(2018.4.7聞き取り)

 終戦の時は小学5年生(昭和10年1月生まれ)です。父は百姓をしながら、頼まれたら大工もしていました。

中原橋は木造、河原でサツマイモ作り

 私らが5年生のころは、中原橋は木造で、その上流の河原を開墾してサツマイモを作っていて、勤労奉仕で駆り出されていました。食糧がないので、5・6年生は学校の勉強を3・4時間したら、畑に野菜などを作りに行っていました。お米を作ってない家では、サツマイモの蔓や麦を混ぜて食べていました。

学校では敵兵に見立てたワラ人形を突く訓練

 学校へは、々々で並んで、旗を持って登校していました。校門を入るとすぐ横に奉安殿があり、天皇陛下の写真か何かを祀っていて、それにお辞儀をして入りました。体育の時間には、アメリカやイギリス兵に見立てたワラ人形を作っていて、竹やりで突く訓練をさせられました。日本には銃などの武器はほとんど何もなくなって、竹やりや木刀しかないので、太刀打ちできるもんではありません。授業でも、軍事訓練のような話が多くて、勉強するような雰囲気ではありませんでした。生徒でも航空隊や海洋隊のようなものをつくって、放課後に残って訓練していました。


グラマンが撃ちながらこっちへ飛んで来た

 岡山空襲の前か後か分りませんが、その日は空襲警報のサイレンが鳴ったので、面白半分で土手に上がって見ていました。当時は今の県道の辺りが土手で、県道は土手の下を通っていました。

 グラマンが2機か3機、岡山の方から、バリバリバリと撃ちながらこっちに向かって来たので、こりゃあ逃げにゃあおえん思うて家に駆けり込みました。家のすぐ上ぐらいを低く飛んできて、薬きょうが家の前に落ちてきました。飛行機が去った後、その薬きょうを拾って水田大尉のところへ持って行きました。山の方から汽車が線路を降りてきて、飛行機は列車を狙って撃ったと聞きました。その時分、日本は抵抗できなかったから、向こうは面白半分に撃ったりしていたようです。

同級生のお父さんが撃たれて死んだ

 後から聞いた話では、赤レンガのすぐ横が同級生の秋山晴之さんの家で、そこのお父さん(恭平さん)が葡萄畑か梨畑に出ていて、機銃掃射で撃たれて死亡しました。私が子どものころ、秋山さんの家は梨をつくっていて、梨をもらって食べたこともありました。

 6月29日の岡山空襲のときも、朝方だったかなあ、空襲警報が鳴って土手に上がったら、焼夷弾がものすごく落ちたから、花火のようにきれいに見えました。天満屋や中国銀行は鉄筋でしたが、その地下に逃げ込んだ人は蒸し焼きのようになって亡くなったそうで、旭川の方に逃げた方がよかったようです。

戦争直後には岡山方面からリュックを背負って食糧と交換に来た

 戦争直後には、岡山方面の人はリュックを背負って着物などと食糧とを物々交換しに来ていました。戦後に新制中学が三軒屋にできたんですが、できるのが遅く、関西高校のところに中学があったので、遠かったけど試験を受けてそこに通いました。玉柏駅から岡山駅に出て、そこから三門駅まで行ったのですが、当時は客車がなかったので、貨物列車や材木などを積む無蓋車に乗って行っていました。汽車の本数が少なかったので、ええ時間に便がないときには三門まで歩いて行くこともありました。今は無人駅じゃけど、その時分の玉柏駅には、駅長と助役と駅員数人がいました。定期券を買っていたので、発車の5分か10分前ぐらいに家を出て、線路を走って行って乗れるところにさばりついて乗っていました。中学1年のとき、帰りの吉備線がものすごく混んでいて、私らの連れが落ちて死んでしまいました。


6月17日に「憲法井戸端会議 in 牧石」

2018-05-21 | 記事


 牧石九条の会は、6月17日に「憲法井戸端会議 in 牧石」をひらきます。

 この集いでは、憲法を順に読み合せ、憲法について参加者お互いが自由になんでも聞けてなんでも言いながら自分なりの憲法の理解を持つことをめざします。

 また、これまで5回重ねてきた戦時中の暮らし体験を聞く時間もとっています。

日時:2018年6月17日(日)14時~15時40分
会場:牧石コミュニティハウス
参加費:200円(会場費ほか)

団地をまわって9条改憲NO!署名を集めました

2018-04-28 | 記事
 牧石九条の会は22日、玉柏の団地をまわって“安倍9条改憲NO! 憲法を生かす全国統一署名”を集めました。

 当日は土曜日でしたが、“牧石ふれあいまつり”が開かれていて、留守の家が多かったようです。会のメンバー3人でまわり、27人と対話して25枚のビラ(憲法共同センター作成のもの)を配り、8筆の署名が集まりました。これで、会のメンバーが集めた署名は合計85筆になります。

 署名してもらえなかった人の反応は、「できません」、「遠慮します」というもののほか、「よく考えていないので」、「私も集めているので」、「仕事の準備中なので」、「安倍さんを支持しているので」というものもありました。

今後も牧石コミュニティハウスの使用が可能に

2018-04-22 | 記事
 牧石九条の会は昨年12月3日、牧石コミュニティハウスを使用して「第5回 戦時中の暮らしって?体験者のお話を聞く会」(前半)と「9条改憲問題と私たちの暮らし学習会」(後半)を開催しました。開催の数日前、牧石コミュニティ協議会(=岡山市から牧石コミュニティハウスの管理を委託されている団体)から、「案内ビラを見たが、このような政治的な会合には牧石コミュニティハウスは貸せない、今回だけは期日が迫っているので貸す」と連絡がありました。

 そこで牧石九条の会は、牧石コミュニティ協議会と岡山市に対して、次のようなことを文書で申し入れました。
・昨年12月3日の会合は、コミュニティハウスの設置目的である「区域内の住民の自主的な活動により地域的連帯感を醸成し、もってコミュニティの発展を図り、市民福祉の増進、文化の向上に寄与すること」(岡山市コミュニティハウス条例第1条)に沿ったものである。
・牧石コミュニティ協議会が使用制限の理由とした「政治的な会合」というものは、コミュニティハウス使用許可の制限条項(同条例第3条の2※)には含まれていない。
・また、私たちの生活は、すべてが政治と何らかの関わりがあるため、それらを話し合う会合もすべて政治との関わりがあるものとなる。
・コミュニティハウスの設置目的では、そうした会合も歓迎されている。

 本年2月23日、岡山市市民協働企画総務課の市民活動支援室長と室長補佐の2名が来られ、牧石コミュニティハウスで話をしました。

 3月13日に同課から電話があり、「牧石九条の会がやってきた会合は、市条例の制限規定には該当しないという結論になりました」という回答がありました。
 そして、牧石コミュニティ協議会も岡山市の結論に沿った対応になりました。
 これで、今後も牧石九条の会の活動で牧石コミュニティハウスを使用することが可能となりました。

※岡山市コミュニティハウス条例第3条の2(使用許可の制限)
 市長は、次の各号のいずれかに該当するときは、コミュニティハウスの使用を許可しない。
 (1) 第1条に規定する設置の目的に沿った使用でないと認められるとき。
 (2) 公の秩序又は善良な風俗を害するおそれがあると認められるとき。
 (3) コミュニティハウスの施設又は設備を損傷し、又は滅失するおそれがあると認められるとき。
 (4) その他コミュニティハウスの管理運営上支障があると認めれれるとき。

=第5回=戦時中の暮らしを聞く会で体験談と9条改憲問題の話を聞く

2017-12-08 | 記事
 12月3日午後、「第5回 戦時中の暮らしって? 体験者のお話を聞く会」を開き、16人が参加しました。

 オープニングで「たき火」をみんなで歌いました。

 続いて、国鉄の岡山機関区で終戦を迎えた玉柏に住む89歳の男性から話してもらう予定でしたが、都合で参加できなくなったため、事前に聞き取りしていたお話(→内容1)を読み上げました。

 そして、参加者のみなさんから感想や自分の体験などを話してもらいました(→内容2)

 次に、近藤幸夫弁護士に「9条改憲問題」と私たちの暮らし というテーマで話してもらいました。とりわけ、憲法9条に自衛隊の存在を書き込むことは、安保法制が成立している今、今までの専守防衛の自衛隊ではなく、戦争できる軍隊として認めることになる、それこそを改憲派は狙っている、それを許してはいけない ということを参加者の一致した認識にできたと思います。

 これからも旬なテーマで学習する機会を作っていきたいと考えています。



内容1
谷本健さんのお話

 私は昭和3年7月に6人姉弟(上に女3人、下に男3人)の末っ子として、現在の久米南町誕生寺の農家に生まれました。終戦のときは17歳で、現在89歳です。

津山商業学校で農家の手伝いや戦争の勉強も

 昭和16年4月に津山商業学校(現・津山商業高校)に入学。この年の12月に日米戦争が始まりました。学校には配属将校(少尉か中尉)がおって戦争の勉強をさせられました。将校の下に退役したような伍長じゃ軍曹じゃいう活きのええのがおって、これが意地悪じゃった。3年間、勉強もしましたが、農家の稲刈りの手伝いやさつまいも掘りにもよう行きました。

学徒動員で玉野造船所へ

 昭和19年3月か4月、全3学級の150人が学徒動員で津山商業から玉野造船所に行って、和田というところの社宅に押し込まれました。2班に分かれて、私らは船台に上って直接船をつくり、他の班は船に載せる機械をつくっていました。食べ物は芋ばかりで腹が減ってしょうがありませんでした。

繰り上げ卒業で残業が可能に

 昭和20年3月、学校は5年制でしたが4年で繰り上げ卒業となり、造船所で卒業式がありました。学徒動員の間は制約があって残業はありませんが、一般工員になると残業させられるということで、繰り上げ卒業させられたようです。
 卒業後は、造船所に残る者と岡山の国鉄機関区に就職する者に分かれましたが、私は芋飯ばあ食べとうないのと、少しでも誕生寺に近いところに戻りたかったので、国鉄の方に入りました。住まいは、嫁いでいた姉の紹介で岡山・難波町の魚屋の家に友人と二人で下宿しました。

国鉄の岡山機関区で貨物機関車の助手

 4月から1か月は石炭をくべる訓練などをして、2か月目からはよう判らんままで貨物の機関車に乗せられました。機関車には、機関士、機関助手、見習の3人が乗ります。機関助手が石炭を窯にくべ、見習の私は石炭を焚口まで送る仕事でした。岡山と姫路を往復することが多く、グラマンの攻撃を受けることもあり、積んだ石炭の上に人の指のようなものを見つけて、上司に持って行ったこともありました。

6月29日未明、入浴中に空襲、誕生寺へ

 昭和20年6月29日午前2時、岡山空襲が始まりました。姫路から戻って、3人がすすだらけの体を風呂で洗っていたときに空襲が始まり、街の辺りが真っ赤になっていました。3人は慌てて裸のまま風呂から出て、近くの防空壕に入ろうとしました。しかし、防空壕の上には燃料が積んであり、燃料に火が付いたら危ないので、そのまま裸で北長瀬の操車場の方に逃げ、焼ける市内や低く飛ぶB29空を見上げて呆然としていました。他の2人にはそれっきり会えていません。火事の明かりで大きなB29がよく見えました。午前4時ごろか、B29が去ったので、難波町の下宿に戻ろうと岡山駅まで帰ったのですが、街は真っ赤に燃えていて、下宿先もまる焼けでした。
 津山線の線路伝いに北に行くと、玉柏駅から北へ折り返し運転をしており、汽車に乗って誕生寺まで帰りました。誕生寺は田植えの最中でしたが、2・3日ぐったりして寝たり食べたりしていました。

岡山に戻り検車区で安気に仕事

 岡山の機関区に戻ると、「職場放棄じゃ」と怒られて竹刀で尻をぶちまわされましたが、偶然そこにいた検車区(機関車などを検査する部署)の人に引き取られることになりました。検車区での仕事は、小遣いのようなもので、上司の知人の家にブドウをもらいに行ったりしました。7月には上司のお供で広島の本部へ事務用品の調達に行ったこともありました。呉線周りで帰ったとき、呉軍港に近づくと「シャッターを降ろせ」と言われて見せてくれなんだなあ。6月から敗戦までは安気に仕事をさせてもらいました。

敗戦後、誕生寺に戻って百姓と村役場の職員

 敗戦後、誕生寺に帰りました。長兄は戦病死しており、次兄は満州からシベリアに抑留され、それから消息が分からなくなったので、「お前は跡取りじゃ」と言われていやいや百姓をして、その後に村役場に就職しました。役場では、農家の供出米の割り当てをする仕事もしました。農家は少しでも手元に残して闇に売った方が高く売れるので、恨まれる仕事でした。農業は好きではなく、津山か岡山に出て勤めをしたいと思っていました。

3年後、岡山交通に転職し経理の仕事

 3年と少し経って次兄がふっと帰ってきたので、私は岡山で焼け残っていた南方に出て、そこで風呂屋の娘と結婚し婿入りしました。そしてタクシーの一台車主などを統合してできた岡山交通に転職して経理の仕事をしました。商業学校でソロバンなどをやったことが助けになりました。玉柏には昭和48年に転居してきました。

次兄は極寒のシベリア抑留で兵隊の服を縫っていた

 次兄は、召集される前に洋服屋で丁稚奉公してやっと服が縫えるようになっていたので、シベリアで目に留まって兵隊の服などを縫わされていたそうです。それで他の日本人よりも1年遅れて帰国することになったようです。また、小便をしていると見る間に凍ったとか、大便をするときはよく見ないと、凍って突き出た便があったらそれに突かれて病気になって死んだ人もいるというので、足で便を蹴飛ばしてから用を済ませたという話もしていました。



内容2
参加者の感想や体験

【Aさん】谷本さんの近くに居るんですが、こういう話は初めてですね。国鉄の機関区に行っていたという話は聞いていましたが、風呂屋の娘さんという話は聞いていませんでした。こういう話は普段の生活の中ではほとんど出てこないですねえ。こういうことを言うとなんか嫌われるような雰囲気がありますねえ。こういう話がもっともっと日常的に出てくるように、そして受け継いでいけるようにしなきゃいけないけど、葬り去って行こうというのがありますね。当時、玉柏で列車が折り返し運転していた話も初めてですね。岡山の街がものすごい炎で焼けていたという話は多くの方がされるんですけどね。

【Bさん】私は昭和15年生まれでね。戦争のことは、田舎でしたし、直接体験がないんです。今から振り返ってみると、同級生には、お父さんが戦死したというのがかなり居りました。10年ほど前に偶然、その中の1人に、お父さんが終戦の年の6月か7月に召集を受けて広島で原爆に遭って亡くなったという話を聞きました。その友達は中学校まで一緒だったんですけど、一言も言わなかったですからね。村の人も誰も言わなかったですね。

【Aさん】それは原爆に遭ったというとすごい差別ですからね。

【Cさん】福島の原発事故があって、若い人が「これで結婚できん」とかいう話が伝わってきていて、最初はよく解らなかったけど、被曝したら放射能を浴びているとか、出産すると障害のある赤ちゃんが産まれるとかという噂があって、みんな福島に居たことをひた隠しにしていたようです。

【Dさん】私は17年生まれです。小学校のときに友だちのお父さんが戦争から帰って来ないと聞いたままで、未だに「どうなったのかなあ」と時折り思い出すことがあります。今日はじめて来させていただいたのは、近藤さんのお話を聞いて少し勉強しようかなあと思ったからです。改憲の問題がいろいろ言われていますが、よく考えたことがなかったので。

【Eさん】私はもうすぐ76歳になります。私は一番町で生まれて、終戦後に母親の実家である牟佐へ帰って来ました。私の父が「満州」へ行っとったんですけど、結核を患って日本に帰されて、その後に三軒屋にあった兵器廠に勤めてました。それで昔の話をよく聞かされたんです。私は毎年2月に牧石小学校の6年生を対象に岡山空襲の語り部をやっています。14・5年前からです。

【Fさん】私は終戦が小学校2年生でした。その時分には日曜茶飯事でグラマンが上を飛びょったし、B29やなんかは上の方を飛行機雲を引いてとびょうるけど、その下の方では魚を追いかけまわして、B29やこうはひとつも怖うねかったからな。私はここで生まれて育っとるから、小学校で勉強しよっても、昔ここへ役場があって大きなサイレンがあって、警戒警報が最初に鳴って、そうしたらみな防空頭巾を持って用意して、せーで空襲警報ゆうたらサイレンがウーンウーンと続けっぱなしで鳴って、「避難」ゆうたらそこの山へみんな駆けって逃げょった。玉柏駅がグラマンにやられたときもな、軒先で上を飛ぶ飛行機をじぃっと見ようった。ものすごい低う飛んだ。子どものころ住んどったのは公会堂のすぐへりじゃからな、あそこへ大きな松の木があったんじゃ。ほんまにその松の枝ぁ散らすぐらいの飛行機が降りてきた思うたら、「トゥルルルル」という何とも言えん機銃の音をさして通り過ぎた。2回はせなんだ、1回撃って通り過ぎただけでなあ。そうしたらすぐ「汽車がやられた、汽車がやられた」いうてなあ、玉柏駅で汽車が発車したところをやられて、あの当時3人ぐらい死んだんかなあ。汽車に乗っとる人が2人ぐらいでなあ、もう1人は宮本の人で流れ弾に当たってやられた。昔は玉柏駅から宮本に向かって梨畑があって、その下におって、機銃じゃから端の方から撃っていくからその流れ弾が当たって。私らの同級生のお父さんが死んだ。6月29日(岡山大空襲)の前後じゃった。

【Eさん】津山線の列車が襲われたのが7月24日です。ひとの話を聞いたので定かではないけど死者2名となっています。1人は農作業をしていた人です。

【Fさん】それが私らの同級生のお父さんです。その時分は学校いうても勉強やこうしょうりゃせなんだなあ、開墾じゃ農作業じゃゆうて。小学校1年2年も連れて行かりょうったもんなあ。旭川の河原を拓いてサツマイモを植えたり、そんなんばっかし。

【Aさん】私の田舎ではねえ、ゲートルやそれなりの格好をして炭焼きに行ってましたね。それは時代ですから仕方ないとしてもねえ、今の小学校6年生に比べてはるかにたくましいですねえ。

【Fさん】全然違う(たくましい)ねえ。小学校1・2年でも往復ビンタを食よったからなあ。高等科いうたら教練いうて、それこそ将校が来て軍刀を下げてなあ、竹槍ゅう持ったり、講堂には機関銃とか小銃とかの銃器をよけえもっとって、それから木製の銃剣で突く練習とかさせよった。運動場に台があって、そこへ将校が立っとって。