九州脊梁山地の旧・東米良(現在は西都市)の「銀鏡(しろみ)神楽」、西米良村「村所(むらしょ)神楽」では、神楽に先立ち、御神屋の正面祭壇に猪の頭部が奉納され、その前で一晩中、神楽が舞い継がれる。猪頭は、神楽の舞い続けられる間に村の女性たちの手で料理され翌朝「猪雑炊」としてふるまわれる。学者やにわか研究者の間には、この猪頭(ししがしら)を「贄」や「生首」などと表現する例が多いが、これは「神饌」であって「贄」ではない。椎葉神楽の「板起こし」はやはり神楽の前に奉納される儀礼だが、俎板に猪肉を載せ、神官または神楽座の長老格の舞人が作法に従って切り分け、神楽の祝人(ほうり=舞人)や村人、参拝者にふるまう。自然からのいただきものを、山神に捧げることで感謝の意を表し、神霊の宿ったその肉を「撤饌」として食べることで、自らの身体に山霊のパワーを宿すという儀礼である。「贄」とか「生贄」などという認識は平地人の思考の産物であって、山で生き、山で暮らす「山人」のもつ概念とは異なるものなのである。
日本民俗学の創始者柳田国男翁も「我々大和民族は・・・」という表現を随所に用いているように、民俗学の視点は大和王権樹立以後の平地民の価値観を基軸としていることは明らかである。生贄とは、征服者に先住民の代表者が供物を捧げ、服従を誓うという儀式の普遍化したものである。
「今昔物語集」には生贄の話が多数収録されているが、なかなか面白いものがある。滝の向こう側の村に迷い込んだ修行僧は、生贄に供されるために妻や美食を与えられて肥え太らされ、猿神に捧げられるが、法力と太刀の力で退治して妻のもとへ還って村の長者となる。また、旅の猟師は、ある村で生贄に供されるべき定めの娘とその両親に逢い、入り婿となって猟犬を訓練し、猿神に供されて料理される直前に犬とともに猿を退治して村へ帰り、この村の始祖となる。いずれも図式は、素戔嗚尊の八岐大蛇退治をベースとした普及版だが、猿神が生贄を料理する場面の描写は、俎板に美女を載せ、包丁で切り分け、塩を振ったり膾(刺身であろう)にしたりと人間が猪や鹿を仕留めて食べる時の作法と同様の調理法である。山人や猟師の作法が平地に下り、脚色され、変異したものであろう。
信州・諏訪大社に鹿食免(かじきめん)、鹿食箸(かじきばし)、御頭祭(おんとうさい)などの神事儀礼が伝わる。「諏訪の勘文」は狩人たちの圧倒的な支持を得て全国に普及した。諏訪地方は縄文時代の遺跡の分布地であり、古代の狩猟文化を色濃く残す地域である。仏教伝来とともに普遍化した「殺生は罪である」という道徳感は、稲作に適さず、縄文時代以来の狩猟採集を生活の基盤とする山の民にとっては大変迷惑であり死活問題に直結する価値観であった。そこで、
<業盡有情> 前世の因縁で宿業の尽きた生き物は
<雖放不生〉 放ってやっても長くは生きられない定めにある
<故宿人身〉 したがって人間の身に入って死んでこそ
<同證佛果> 人と同化して成仏することができる
という神符「鹿食免」を発行し、狩猟などの殺生を生業とする人々の生活を擁護し、生きるために猪・鹿や動物の肉を食べることを正当化した。「慈悲と殺生は両立する」という稲作民・仏教徒からみれば強引な論法は、狩猟採集民・山岳信仰を基盤とする人々にとっては正当かつ天晴れな発明だったのである。雪に閉ざされ、外界との交通も遮断される北国では、動物の肉は冬季のたんぱく源としても欠かせないものであった。
平林章仁:著「鹿と鳥の文化史―古代日本の儀礼と呪術」に戻ると、大和王権樹立以後の日本列島には、奈良朝に発令された「殺生禁断令」や「放生」の思想に統一されながらも、大王や大名による大規模な「巻き狩り」「薬狩り」等によって鹿を狩る習俗は残った。薬種として利用され、武具の部材や生活用具としての需要があり、太占(ふとまに)等に使用される呪術的な用途も残存した。
諏訪大社の御頭祭や九州脊梁山地の神楽に残る狩猟儀礼は、列島基層の文化の象徴であり、自然と人間とが共調して生きるための知恵でもあった。それが「祭り」や「神楽」として視覚化され、儀礼化し、価値観を共有する社会システムとして生き続けてきていることを、もう一度見つめなおす機会が、いまここに訪れているのでなかろうか。