朝食を終えて、薪ストーブの前で珈琲カップを丸太を切ったテーブルの上に置き、新聞を広げる。
けれども、記事はすでに知っている事柄ばかりで、新しく聞き、知る情報は少ない。
かといって、深く掘り下げたり、なるほどと頷くような解説が載っていたりすることは稀である。
昔の新聞記者は、二ヶ月で靴三足を履きつぶしたという伝説が残るほど、歩いて記事を書いたものだ。その人と、由布院の宿で一夜飲み明かしたこともある。
いまも、被災地を訪ね、そこに立つ記者氏がいることも私は知っている。が、その人の記事はよほど気を付けていないと見つけることができない。
知ったかぶりのコメンテーターと軽薄なお笑い芸人が幅をきかせるテレビは壊れたまま放置してある。
多くのことを提供してくれるはずのインターネット情報は、スキャンダルや政治の腐敗や人の悪口などで点数を稼ごうとする記事が優先的にアップされており、どれを信じていいかわからない。
何もかもが嘘っぽく、うわべを飾り立て、大声で叫ぶような文章が幅を利かし、表層を転がってゆくような文化が現代社会であれば、それは何と虚しいことだろう。
大型連休が始まった。
皆が浮かれ騒いだり、どこかへ出かけて現地の人の眉を顰めさせている(これもオーバーツーリズムの一局面である)ようなこの時期、私は出かけず、中庭の楠の大樹の下で木漏れ日を浴びながら本を読む。
両手に包み込めるほどの小さな本である。
北原白秋の「思ひ出」。
この書は、白秋が故郷・柳川の風物と自身の幼児の体験を追慕して著した「詩集」である。
幼児期から少年期にかけて白秋の童謡や唱歌を歌って育った私は、この人は童謡作家だと思っていた。
ところが、この書を開くと、そこには九州西端の海に近い町の、運河に沿った古い酒蔵の家と、祖父の里という田舎の村を行き来した少年期の詩人の豊かな情緒とかがやくばかりの風物とが描かれ、読者を郷愁の彼方へ誘ってくれるのである。
詩を二篇だけ転載しておこう。
[カステラ]
カステラの縁の渋さよな、
褐色(かばいろ)の渋さよな、
粉のこぼれが眼について、
ほろほろと泣かるる。
まあ、何とせう、
赤い夕日に、うしろ向いて
ひとり植えた石竹。
[二人]
夏の日の午後(ひるすぎ)・・・・・
瓦には紫の
薊ひとりかがやき、
そことなしに雲が浮かぶ。
酒倉の壁は
二階の女部屋にてりかへし、
痛いように針が動く、
印度更紗のざくろの実。
暑い日だった。
黙って縫う女の髪が、
その汗が、溜息が、
奇異(ふしぎ)な切なさが・・・・・
悩ましいひるすぎ、
人形の首はころがり、
黒い蝶のちぎれた翅
その粉の光る美くしさ、妖しさ。
たった二人・・・・・
何か知らぬこころに
九歳(ここのつ)の児がふるえて
そっと閉めた部屋の戸。
挿入されているカットをみると、この詩人は並々ならぬ画才というか、素敵な絵のセンスを持ち合わせた人だったことがわかる。
なお、この一書は、同郷の詩人・野田宇太郎の編になるものという。ここにも友情と詩心の華がある。
時々はこの本をひらいて、およそ一世紀も前のこの国のふるさとの情景を想い、曇りかけた眼と心象とを洗うことにしよう。