奥山の釣りに来て、釣果を誇ったり、釣り方や秘密のポイントの在り処を勿体を付けて喋ったりしてはいけない。
以前、ある集落の寄合に呼ばれ、近くの谷で大釣りをした、名人級の3人で釣り歩き、3日間で120匹も釣れたのだ、という話をしていたら、隣でビールを飲んでいた老人が、
――お、待てよ、3人で3日がりで120匹、それで大釣りというのか、俺たちは一日で100は上げるものだぜ。
と言った。椎葉の奥地でも、通りがかりの沢で一匹釣りあげて、得意になっていたら、やはり同じような切り返しに会い、打ちのめされたことがある。
今秋、仲間たちと草木染めのワークショップの準備をしていたら、山道からすたすたと歩いて来た人が20匹ほどの良型のヤマメをぶら下げていた(上掲写真)。木の枝の又になったところを利用した即席の獲物刺しであった。これはこの谷を熟知した釣り師にちがいない。
――おおっ!!、僕たちは一日釣ってせいぜい2匹か3匹しか釣れないこの谷で、この人はこんなに釣りあげている。谷を知り尽くした達人だっ。
思わず私は叫んでいた。下記の写真は、別の日に同じ谷で釣っている超名人・渓声君である。この日は彼に1匹、私がゼロ匹という惨状だったのだ。
――おるよ。
山の向こうから来た、という達人級のその人は、軽くそう言って、上流にある滝の下の淵で釣りあげたという尺超え(30センチ級)の写真や、原生林の中を下って行くと見つかる秘密のポイントであげた2匹の尺ものの写真などをスマホをかざして見せてくれたのである。そして、
――上げるよ。
気前よくその獲物をプレゼントしてくれたものである。そのヤマメは、塩味だけの味付けによるスープにして川原での昼食に提供することが出来た。大き目のものは2枚にスライスして焚き火にかけた鍋に入れたので、20人ほどの皿に一尾ずつのヤマメが泳ぐ極めつけのご馳走となった。こんなことは、めったに起こるものではない。山の神様からの恵みにひとしい、深山ならではの出会いというべきだろう。
数日後、渓声君と私は、山の達人が惜しげもなく教えてくれたポイントを丹念に釣り進んだが、やはり、釣果は得られなかった。どこに魚がいるのか、と思うほど、魚信はなく、魚影も確認できず、渓谷は静かなのである。
言い訳をするつもりではないが、「釣れない」という状況には明確な原因がある。渓流釣りでは、天候や水量、先行者の有無などがその日の釣果に直接反映するのだが、近年の不漁には、もっと深刻な事情がある。上掲写真のように、川原が白けて、流木が引っ掛かり、山から転がり落ちた大岩が行く手を塞いでいる場所もある。つまり、相次いで襲来している台風や長雨による洪水によって、谷筋は荒れ、棲んでいたヤマメも水棲昆虫も濁流と一緒に流されて、回復する間もなく次の出水があるので、再生のサイクルが損なわれているのだ。それは台風や水害という自然現象だけが原因でもない。鳥瞰図的にみれば、戦後約80年の間に無計画な杉の植林が進み、それによって生態系に変化が生じ、山の保水力がなくなり、温暖化の影響による大雨などの状況が加わって、大水害がくりかえされるのだ。さらには最近の林業回復の機運とともに重機が入り、伐採が進み、伐り残しや枝葉は放置され、それが土砂を含んで大雨とともに流れ出す。そして、災害後の川には重機が入り、岩も土砂も押しまくられ、大岩も削られたり割られたりしてどこの谷も均一平坦な川になってしまった。これでは魚も水棲昆虫も棲めない。すなわち「人為」が自然環境を破壊し、ささやかな山の釣り人の幸福な一日まで奪ってしまったということだ。
半世紀も前に作家・石川達三が「傷だらけの山河」という小説で、戦後、次々に削られ、荒れてゆく山河とその開発行為に群がる実業家たちの欲望図を描き、告発したが、それは首都圏を中心とした地域での現象だった。ところが現代ではそれが国土全体にひろがり、実態はますます深刻になっている。村や地方の文化の消滅の危機さえ迫ってきているのだ。戦後100年近い年月をかけて山を「殺し」てきて、いままた山や川を「壊し」ている。
「山河慟哭」
釣りをしているとそんな言葉が浮かんでくる。
今、ここで、社会の上層部だけで空騒ぎをしている政治の貧困や、長く国土交通大臣というポストを与えられながら、現地に目を向けようとしない政党のあり方(これはその夜の釣り宿の主人とそこに居合わせた旅の釣り客の見解)などに対して痛憤の思いをぶつけても、それは虚しいこだまとなって返ってくるだけかもしれない。
だが、嘆いているのは私だけではないのだ。
山と森と渓谷と、そこにいます山神・水神・土地の神々たちが、静かな怒りを込めて人間たちの所業を見つめている、それが現代という時代ではあるまいか。そうだ、私は、山の精霊神に代り、魚のかかっていない釣り糸をふりかざしながら、天空に向かって、一つまた一つと言葉を吐き続けるのだ。神楽の荒神や土公神、牛頭天皇などは、烈しく怒れば大風、洪水や地震、火山の噴火、疫病などを発生させ、人間界に祟りをなし、反省を求めるが、手厚く祀り、自然との共生の理念を守れば、村や人々を守る守護神となる。山の翁もまた、いつかは自分自身が還る時空のために、真実を見極め、真理を説き続ける役割があるのだろう。