反貧困 湯浅 誠
この本を読み終えて もう一月近く経ってしまっている。 なかなか自分の中で消化しずらかった。先日の堤果歩さんの 貧困大陸アメリカを読んでから、また自分の息子達の将来を考えてか、手に取った次第。しかし、貧困と云われても今の私には実感が湧かないというのも事実である。息子の一人も年収を聞けば200万そこそこ。しかし、そんな不自由な暮らしのそぶりは見せないで居るが、果たして?
しかし、もう一つ知りたいキーワードがあった。 自己責任 という言葉。 コレはイラク戦争時、向うのゲリラに捉えられ身代金を請求された若者達に、日本中とも思われるほどの自己責任という言葉でもって非難した時の言葉である。 しかしこの言葉がこの現代の貧困事情にも出てくるのだ。 今のフリーター、ニート、非正規社員、等の立場にあって、十分な収入が得られず貧困状態の人たちに対して、それh自分の努力が足りないから、すなわちあなたの貧困はあなたの自己責任に帰するという訳である。
果たしてそうなのであろうかと問いを投げかけて、著者の湯浅さんは、ごく一部の例外、稀なケースはあるものの、マスで見ると正社員と同じく精一杯働いてもやはり貧困から抜け出せない人達が大勢いると。なぜか?という答えに、湯浅さんはその人その人の背負わざるを得なかった境遇や、条件(これを 湯浅さんは“溜め”と呼んでいる)を見極めなくてはならないと、そして本当に自己責任といえるか判断して欲しいと言っている。 そうすると、貧困で困って居る人たちの多くは、そうするしかない、他への選択肢がない状況に陥っている。その泥沼の中で精一杯努力しているのである。ここで 溜め とは、その人がもっている就職に有利な条件、例えば人脈、技術、才能、親の援助、とかいった物を指しこれらがあると他への可能性、或いは選択肢が増すというわけである。しかしこの溜めのない人に向かって、現状より他に選択肢のない人に向かってそれを自己責任だと押し付けるのはおかしい。彼らには何の責任がとわれるのだろうか?むしろ精一杯働いているにも生活が苦しいというのは、社会の制度がひずんでいるからではないのか!
日本国憲法で、最低限の生活保障が確保されているにもかかわらず、それを謳っているだけで政府も地方行政も救済をむしろ拒んでいるように見える。
もう二つ 生活保護申請に対して行政が何かと仕向けないことを、『水際作戦』と呼ぶらしい。
もう一つは、『見えにくさ』こそが、貧困問題の最大の特徴である。
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