大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

One voice , one mission , one family

平和のための戦略

2014年03月12日 | 歴史
『…だから、おたがいの違いから目を背けるのではなく―人類共通の利益に目を向け、相違点をのりこえる方法を考えよう。
その違いをいますぐ解消できないにしても、少なくとも世界が多様性を受け入れられるように手助けすることはできる。
とどのつまり、私たちの最も基本的なつながりは、私たち全員がこの小さな地球の上に住んでいるということなのだ。
私たちはみな、同じ空気を呼吸している。
私たちはみな、子どもたちの将来を案じている。
そして私たちはみな、命に限りある存在なのだ…』

このケネディの演説は、何よりも、一見和解しがたいと思える敵とも協力はできるとアメリカ国民に強く訴え歴史を変えました。
ソ連の指導者フルシチョフはこの演説を、ルーズベルト以来の歴代大統領のなかで最高のものと評価し、6週間後、モスクワで部分的核実験禁止条約が締結されたのです。
これがきっかけで、やがて冷戦そのものが終焉を迎え、ロシアおよびソビエト連邦下の14の国家が独立を果たすことにつながったのです。


ことの発端は1961年のカストロ政権(ソ連寄り)打倒を目指すアメリカのキューバ侵攻です。
ソ連はそれに対する報復の一環として核ミサイルをキューバに配備しました。
アメリカとソ連があわや核戦争に突入かという一触即発の緊急事態になります。
世界は固唾をのんでこの事態を見守りましたが、寸前のところで大戦は回避され、ソ連は核ミサイルを撤去し、アメリカはトルコに配備されていた核兵器を引き上げます。
世界の破滅という危機に直面し、暗い淵を覗きこんだケネディならではの名演説です。

1963年6月10日アメリカン大学卒業式におけるケネディの演説は「平和のための戦略」として世界平和に大きな貢献を果たしましたが、その年の11月22日、テキサス州ダラスで暗殺されます。
そしてソ連のフルシチョフ大統領も2年後失脚し、世界はまた大きく動き出します。
私たちにとっては世界平和を守った英雄と映りますが、当事者たちの国内事情はそんな単純なものではなかったようです。

そして今また、キューバ危機以来の東西直接対決の危機が、ウクライナのクリミア地域で勃発しています。
理想を貫き通す偉大なリーダーたちの出現に期待します。

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