大黒さんの金魚鉢

黒金町の住人の独り言は“One”

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歴史の検証

2014年03月25日 | 労働者福祉
静岡県史資料編「富士山静岡空港」が手元に届きました。
連合静岡時代に県史編さん委員を担当していたからでしょうか…。

この県史には興味深い事実がいっぱい掲載されています。

事の発端は、1964年に池田内閣のもとでまとめられた「日本の航空政策」にあります。
このなかで国際航空の拡充強化と地方空港の拡充整備が提言されました。
静岡県内で最初の空港構想は同年の「小笠山国際空港構想」でした。
自民党県連も勉強会を開き、第2東海道新幹線(リニアモーターカー)構想とともに、その実現に向けて拍車をかけていきます。
しかし当初はこの構想に前向きであった竹山県知事でしたが、1973年には「環境破壊と引き替えの空港建設は出来ない」と断念します。

1981年、浜松商工会議所は西部地区への空港誘致に動き出します。
自衛隊浜松北基地の共有化も含めて、市民ぐるみの運動として取り組みを開始しました。
1986年2月山本県知事は、「今は新幹線の時代、ひかりを県内にとめることが先決問題。空港は長期的問題である」と現時点での地方空港不要論を表しました。

1986年6月、県政は山本県知事から斉藤県知事にバトンタッチされます。
そして1987年3月、静岡県新総合計画に空港政策が掲げられました。
県による空港基礎調査と候補地の検討が急ピッチで進み、1987年6月には浅羽、掛川、榛原の3ヵ所に絞られてきます。
わずか半年後の1987年12月、斉藤県知事は空港建設地として榛原を決定します。

紆余曲折を経て、2009年6月4日静岡空港は「富士山空港」として開港します。
県史は正しい歴史の検証をするために、公開されている議事録や新聞記事などありとあらゆる事実を細かく集めていきます。
誰のどんな判断で「富士山静岡空港」が出来ていったのか、そして現在の課題や将来について様々な発言が実名で記録されていきます。
正しいことも過ちもすべて責任を負いながら生きていくことが、私たちの未来への責任であることが県史を通してよく分かります。