貨幣の思想史―お金について考えた人びと (新潮選書) | |
クリエーター情報なし | |
新潮社 |
「今の日本はまさに汚辱列島と化している。
横領、背任、詐欺、収賄、強盗、殺人、売春等々、大臣、社長、官僚から中学生にいたるまで、カネのために名誉も人格も尊厳も、ときには人命までを投げ捨てて、あらゆる悪徳にうつつをぬかしている。
それほどの魔力をもつカネとは一体何なのか。
昔のカネはともかく金であった。
指輪にも鎖にも金歯にも使える美しい金属であった。
今は鼻紙にも使えない紙きれにすぎない。
それどころか、時には銀行の通帳上の数字の増減にすぎない。
なぜそんな無価値のものがこれほど大きな力を振るうのか」
この本は「語り部講師」の高橋均さんから勧められた1冊ですが、これは本の裏表紙に書かれてあった文章です。
貨幣がますます力をつけていく市場経済の時代のなかで、古典経済思想からケインズに至るまで経済思想の原点を振り返っています。
「…生活次元の経済で人々が必要としているものは使用価値に他ならない。
ところが国家にとって必要なものは使用価値ではなく、金・銀・宝石・貨幣などの普遍的な富だけであった。
そのとき問題となるのは、国家の経済力と人間の生活次元の経済力とのくい違いである。
国家が求める貨幣社会は人間と社会の頽廃を招いた」
「…少なくとも貨幣経済の展開はすべての人々を均等に豊かにすることはなかった。
思想家たちは繰り返し繰り返し富とは何か、それはどこから生まれるのかという問いを発し続けた」
「…アダムスミスは考えた。
価値ということばにはふたつの異なる意味がある。
それは「使用価値」と「交換価値」だ。
「使用価値」とはそのものがもっている有用性のことであるが、有用性の高さに比例して「交換価値」も高くなるかといったら、その価値に比例しない。
水ほど有用なものはないが、それでどのようなものを得ることができるだろうか。
これに反し、ダイヤモンドは使用価値はほとんどないが、それと交換してきわめて多量の財貨を得ることができる」
富とは何かを考えさせてもらいました。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます