goo blog サービス終了のお知らせ 

横浜黒船研究会

ペリー来航から横浜開港は日本文化の転換点でした。当時の資料から歴史を研究しています。毎月第2日曜日開催しています。

第168回定例研究発表会『「米百俵の精神」の拡げた波紋と横浜開港』

2019年02月03日 | 研究会案内
平成31年2月10日(第二日曜日)14:00~17:00
フォーラム南太田 2階 第一研修室 横浜市南区南太田1-7-20

第168回定例研究発表会
14:00~14:05 開会のごあいさつ
14:05~16:10 発表者:横浜黒船研究会 会員 原 陽一郎 氏
参加費:500円

講演題目:「米百俵の精神」の拡げた波紋と横浜開港
長岡藩(新潟県長岡市)は、北越戊辰戦争において河合継之助の下で官軍と戦って敗れ、街は焦土と化した。この時、大参事小林虎三郎は近隣の藩から贈られた救援米百俵を藩士に配らず、「郷土の繁栄は人材の育成から始まる」と藩内を説き伏せて、全額を学校(国漢学校)の費用に充てた。この故事を山本有三が戯曲として書き残し、後に小泉首相が施政方針演説で引用した。
虎三郎は佐久間象山の下で吉田松陰と共に学び、勝海舟、坂本龍馬らとも親交があった人物。虎三郎は横浜開港を幕府に進言して、藩主の逆鱗に触れ、国元で謹慎を命じられた。虎三郎は謹慎中に「興学私議」と題する優れた人材育成論を書き残した。虎三郎の思想と行動は長岡だけではなく、全国各地の近代化や教育の仕方(湘南高校など)に少なからぬ影響を与えたと考えられる。横浜開港もその一つだったのか、考えてみたい。

16:10~16:15 休憩
16:15~16:45 質疑応答
16:45~17:00 机と椅子の現状復帰
以上

ご連絡:次回第169回定例会3月10日(第二日曜日)
於フォーラム南太田 2階 大会議室
講演者 長井勉氏 題名 明治の横浜とラグビー


地図・交通案内(フォーラム南太田)

住所 〒232-0006 横浜市南区南太田1-7-20
京浜急行線 南太田駅下車 徒歩3分
横浜市営地下鉄 吉野町駅下車 徒歩7分

第167回定例研究発表会『榎本武揚が関わった民間団体と会員たち』

2019年01月07日 | 研究会案内
平成31年1月13日(第二日曜日)14:00~17:00(13:30入場可)
横浜市開港記念会館 2階9号室 〒231-0005 横浜市中区本町1丁目6番地

第167回定例研究発表会 開催のお知らせ
14:00~14:05 開会のごあいさつ
14:05~16:00 発表者:中山昇一氏 当会代表代行
参加費:500円

講演題目:榎本武揚が関わった民間団体と会員たち
明治6年に森有札らが日本最初のソサイエティ『明六社』を設立し、明治10年に神田耕平らは日本最初の学会、東京数学会社を設立しました。続いて渡辺洪基(ひろもと)らは明治11年に『萬年会』(ソサイエティ)を設立しました。今回は萬年会とその創立者の渡辺洪基(ひろもと)、興亜会の前身、『振亜社』を創立した曽根俊虎(としとら)と興亜会(後に亜細亜協会)、東京地学協会、東邦協会を紹介します。

これらの民間団体にはそれぞれに特徴や目的があります。一方、殖産興業の推進、世界、特にアジアの植民地化の現状に関する情報収集と会員への情報提供および分析は共通した特徴です。また、団体の活動は榎本のいわゆる南進論-南洋諸島を購入し平和裏に国土を拡張する-とも関わっていました。団体や創立者たちの紹介とともに政府では非主流派であった榎本の学会での活動を通して榎本の内外政策を考えてみます。

16:00~16:10 休憩
16:10~16:45 質疑応答
16:45~17:00 机と椅子の現状復帰
以上

ご連絡:次回第168回定例会は2月10日(第二日曜日)
於 フォーラム南太田 第一研修室 講演者 原 陽一郎氏
演題:「米百俵の精神」の拡げた波紋と横浜開港

第166回定例研究発表会『近世大衆文学と日本人の識字率 東海道中膝栗毛からの例証』

2018年11月26日 | 研究会案内
平成30年12月9日(日)18:30~21:30(18:00 受付開始)
レストラン 馬車道十番館4階 横浜市中区常盤町5-67

第一部:第166回定例研究発表会
18:00 受付開始
18:30~18:35 開会のごあいさつ
18:35~19:30 発表者:横浜黒船研究会 代表代行 溝手 正儀氏
参加費 研究発表会のみのご出席は500円

講演題目:近世大衆文学と日本人の識字率 東海道中膝栗毛からの例証
嘉永6年に黒船艦隊を率いて日本にやって来たペリーは、日本人の教育水準の高さに驚いている。彼は久里浜、横浜、下田、函館などに上陸して、庶民とも交流しているので一部の上流階級のことを言っているのではない。
他の外国人の記録なども総合して、当時の日本人の識字率は世界一だったとよく言われる。世界一を認めるにしても、どの程度の水準だったのかは今一つ分からない。
私はこれまで近世の地方文書に多く接してきた。しかし辞書なくしてはどんなに頑張っても漢字の7,8割程度しか解読できず、辞書を使っても文書の大意を理解することができない。このレベルは「文盲」なのか? しかし当時のほとんどの日本人がこのような文書を理解できたというのは信じがたい・・・なんだか負け惜しみを言っているようで悔しいので、「識字」の中身について検証して見たくなった。
東海道中膝栗毛などに代表される近世大衆文学が識字率向上にどうつながったのかを考察します。

19:30~19:45 質疑応答
第二部・忘年会

ご連絡:次回第167回定例会は1月13日(第二日曜日)
於:横浜市開港記念会館 2階9号室
発表者: 中山昇一氏 演題:「榎本武揚が関わった民間団体と会員たち」

第165回定例研究発表会『無人島発見から小笠原島の回収、開発 ―幕府による開発と八丈島の移民史―』

2018年10月25日 | 研究会案内
平成30年11月11日(第二日曜日)14:00 (13:30入場可)
場 所:横浜市旭区市民活動支援センター「みなくる」 研修室1, 2, 3

第165回定例研究発表会
14:00~14:05 開会のごあいさつ
14:05~15:30 発表者:日本島嶼学および 横浜黒船研究会 会員 對馬 秀子 氏
参加費:500円

講演題目: 無人島発見から小笠原島の回収、開発 ―幕府による開発と八丈島の移民史―
ペリーは、嘉永6年(1853)6月、沖縄、小笠原で薪水の補給所となる貯炭所用地を確保し、沖縄から浦賀に来航した。翌安政元年(1854)に再来したペリーは、3月日米和親条約(神奈川条約)、7月琉米和親条約を締結した。小笠原島に欧米人が定住したのは天保元年(1830)であり、幕府が小笠原島回収団を咸臨丸で派遣したのは文久元年(1861)12月である。翌文久2年7月朝陽丸を八丈島に派遣して開拓者を募集し、8月末に小笠原島に入植した。同年生麦事件が発生し英国との緊張関係の高まりもあって小笠原島開拓が中止となる。文久3年5月入植から9ヶ月で日本人全員引き揚げとなった。
なぜ、幕府は小笠原島の開拓民を八丈島から選んだのだろうか。
ここでは、小笠原島の回収・開拓に携わった八丈島民の出移民の史実を中心に報告する。

15:30~16:40  休憩
16:40~16:10 質疑応答
16:10~16:15 机と椅子の現状復帰
以上

ご連絡:次回第166回定例会は12月9日(第二日曜日)
於 レストラン 馬車道十番館4階 発表者 当会会員 溝手 正儀氏 
題目: 近世大衆文学と日本人の識字率 東海道中膝栗毛からの例証

第164回定例研究発表会『明王朝永楽帝・鄭和の遠征 その2』

2018年09月24日 | 研究会案内
平成30年10月14日(第二日曜日)14:00 (13:30入場可)
横浜市旭区市民活動支援センター「みなくる」 研修室1, 2, 3

第164回定例研究発表会
14:00~14:05 開会のごあいさつ
14:05~15:30 発表者:横浜黒船研究会
参加費:500円

講演題目: 明王朝永楽帝・鄭和の遠征 その2
15:30~15:40  休憩
15:40~16:10 質疑応答
16:10~16:15 机と椅子の現状復帰
以上

ご連絡:次回第165回定例会は11月11日(第二日曜日)
於 横浜市旭区市民活動支援センター「みなくる」 研修室1, 2, 3
発表者 当会会員 對馬 秀子氏
題目: 無人島発見から小笠原島の回収、開発―幕府による開発と八丈島民の移民史―