神奈川県域のヒストリック・イベント(1)
第一章 神奈川条約の締結
第一節 外国新聞からみた日米交渉と横浜村
はじめに
一八四八年、アメリカ合衆国は太平洋岸まで領土をのばし、太平洋横断航路を開いて捕鯨産業の拡大、中国との貿易に乗り出す。これに伴い、海難のアメリカ人の生命、財産の保護や日本との友好関係をつくる必要が出てきた。かくて、東インド艦隊司令長官のM・C・ペリーを使節として日本に派遣し交渉にあたらせた。その結果、一八五四年には日米和親条約(別称、神奈川条約)が結ばれた。
今回は、当時の外国の新聞、刊本等により、この条約予備交渉の状況と代表会談の場所選定の経緯を述べる。
ペリー提督の意図的な旅と外国の新聞報道
ペリーのアメリカ出航以前から、欧米諸国では、日本への関心が高まりつつあったことに注目したい。
オランダは、徳川幕府と長く通商関係を維持していたが、一八四四年、オランダの国王は、世界情勢を述べて伝統的な鎖国政策を緩和するよう将軍にアドバイスした。これに対し、幕府はオランダ、中国以外とは新たに通商しないと答えたが、当時の「ノース・チャイナ・ヘラルド」は、長年にわたり、オランダ政府が欧州の政治状況を毎年、日本に知らせているのは称賛に値すると論じた(一八五三、二)。日本の対外政策の強硬な態度は他の新聞、例えば、英国の「ザ・タイムズ」に批判された。
日本は多くの外国と通商関係を結ぶことを拒否している、さらには外国の船舶が遭難したときの寄港をも拒んで、海岸に近づくと砲撃する。日本の海岸に漂着すると、乗組員を捕虜にするか、投獄するかして、結局、殺す場合もあるのだ。いずれの国も他の国と通商関係を拒む権利はない。通商する権利を侵している野蛮国の排斥こそ、文明国およびキリスト教の責任である。・・・・・・・アメリカの捕鯨業者が、このため犠牲になっている。アメリカ政府は人道上からいっても日本の態度を変更させるべきなのだ(一八五二、三)。
さて、一八五二年初頭、アメリカ艦隊の食料、武器の積み込みから、日本への訪問を知った「ニューヨーク・ヘラルド」は、次のような付加的な意図もあると報道した。
アメリカは日本政府に好意をもってもらい、条約交渉の下工作をするための目的で日本のエンペラーへの献上品を持参させ、鉄道を教えるのに機関車と線路、文明を教えさせるために電信機や写真機をも積みこんだ。この意図的な旅行のために、当議会は一二万五千ドルを投入したようだ(一八五二、五)。
浦賀での日米交渉
さて、ペリーは、蒸気船を含む艦隊を編成し、一八五二年一一月、バ?ジニア州ノ?ホークをスタートした。艦隊は、大西洋を横断し、一八五三年四月、マカオ、香港に寄港した。ここで、艦隊の再編成がなされて、蒸気船ミシシッピ、サスケハナと帆船プリマス、サラトガの四隻は、同年七月八日(嘉永六年六月三日)、浦賀に到着した。直ちに、両国の担当者間で予備交渉が行われ、七月一四日に、日米代表会談を行うこととなる。
会見の当日、ペリーは海兵隊、水兵、軍楽隊を率いて久里浜の応接所に向かった。
これについては、すでに本誌二六六号で述べたが、「チャイナ・メール」の報道では次のようになっている。
ペリーは護衛するOFFICERS AND MEN(士官と兵隊)四〇〇人を伴い、風に靡く国旗やTHE NATIONAL HAIL COLUMBAを演奏するバンドとともにレセプションの家に行進した。ペリーらを迎えたのは皇帝の筆頭カンセラーの伊豆守とその部下の石見守だった。大統領のレターとペリー提督の信任状が正式に渡され、そして、二人のPRINCEからは公式受領書が与えられた。これだけで、会談は終わった。これ以上の交渉を進める権限が二人になかったからだ。
では、浦賀奉行の戸田伊豆守、井戸石見守に渡されたM・フイルモア大統領親書の概要は、どのようなものだったか。
高級役人を、日米間の友好、通商を促進するために派遣する。今は、アメリカ合衆国から日本まで二〇日以内で行けるし、中国行きの船舶が航行し始め、その際、日本を通過する。故に、貴国はアメリカの船舶に対して友情をもち、寛大で親切な態度で待遇してもらいたい。日本は、アメリカの求める商品、石炭を有しているので、友好的な貿易もしてもらいたい、日米が接近し通商すれば多くの利益を生ずるだろう。
親書は、このような内容だが、実は、アメリカの遭難船員への友好的待遇と船舶へ石炭や日用必需品を供給する港を求めたのである。
この親書の背景には捕鯨業者や船主が行政機関にたいしプレッシャー・グループを作って運動し、日本が捕鯨船の人道的扱いができぬときは断固たる態度にでるようにとの期待があった。しかし、大統領は、アメリカ国民が、どこで遭難事故にあっても保護措置を講ずるのが妥当の表現だとし、一八五一年以来、艦隊の派遣はこのような方針で進めている。かくして、ペリーには、戦争を宣言する権利はなく、平和的な性格を持つ使節として来日したのであった。
さて、浦賀奉行は大統領親書の受領書をペリーに提出したが、そこには、親書は受理するが、早急に日本を退去されたいと付記されている。そこで、ペリーは三日のちに離れるが、来春、日本を訪問し回答を受け取ると言い残した。が、ペリーは「日記」で「来春には圧倒的な艦隊を誇示」できるとしている(*二)。このように、ペリーはアメリカの偉大さを武力で示すほか、文明の利器、豊かな飲食文化で日本人を圧倒しようと意図していた。そうでもしないと、日米交渉は幕府の言い訳や引き延ばしで無駄の時間、費用を費やすだけだと憂慮したのである。
このようにして、将軍へのM・フイルモア大統領親書が、無事に手渡されたが、アメリカ側としては、平和裡に、日本代表に大統領親書を渡し、友好条約締結の一歩とするのを重視したから、ペリー自身も、一応、安堵したのではないか。
一八五三年七月一七日、四隻の軍艦は浦賀沖を去り、中国または琉球に向かった。
久良岐郡小柴の沖へ進出
一八五四年二月一三日(嘉永七年一月一六日)、ポ?ハタン号など六隻からなるペリー艦隊が浦賀沖に、再び、姿を現した。ロシア及びフランスが日本と交渉する姿勢を見せたので、訪日の予定をくりあげての訪問だった。そして、アメリカ錨地と称した地点(当時の久良岐郡、現在の横浜市金沢区の沖)に到着し、先着の一隻と合流した。
ただちに、浦賀奉行の組頭・黒川嘉兵衛らがポーハタン号に接近、乗艦したので、ペリーはアダムズ参謀に応対するよう命じた。黒川は昨年の大統領親書への回答などの協議の場所として、最初、鎌倉はどうかという。これが拒否されると浦賀はどうかと提案した。ペリーは、浦賀は停泊には不適当だとし「江戸にいくか、あるいはできるだけ近くまで」行かねばならないと指示した。つまり、「アメリカ錨地と江戸の間であればどこででも委員らと会うことに同意する」と伝えさせた(*二)。翌日も、翌々日も、黒川らは浦賀で会合したいと蒸し返したが、アメリカ側は妥協しない。一五日、一八日にもポーハタン号で予備交渉があったが、その際、日本側から「新鮮な牡蠣や卵や菓子」が届けられたという(*二)。
二月一八日、富士山が見えるほど晴れ上がり、旗艦がポーハタン号となる。
二月二二日、アダムズはバンダリア号で浦賀におもむき、応接掛の林大学頭、井沢美作守と会見した。相互に名刺を交換したのち、ペリーの書簡を渡した。江戸に近い場所で会見したいが、「連絡にも便利であり・・・・・贈り物を陳列し、お目にかけるにも適している」からだという(*二)。これを審議するため交渉は一時、中断された。その間、「スポンジケーキに似た菓子、キャンデイ、さまざまな果物、酒」などがだされた(*一)。翌日、昨年から交渉にあたっていた香山栄左衛門が再び姿を現し、浦賀沖のバンダリア号を訪問し浦賀での日米会談を懇願した。他方、ペリーは、二四日、バンダリア以外の軍艦を「江戸が見える地点」(生麦付近)まで進出させた。そのため、陸上は大騒ぎとなり「夜通し町で打ち鳴らさせる鐘の音が、はっきり聞こえるほどだった」(*一)という。
さて、日米間の予備交渉では、アメリカ艦隊の羽田まで進出の報がはいり、局面が急に転回する。香山としては、ペリーの決心が動かないし、艦隊が「さらに江戸に近づく方向」へ進むとみてとったので、「艦隊の真向かい」の場所を代案として提案したのである。この香山の横浜村を適当とする提言を是としたペリーは、湾内の深くに進出した艦隊を、引き返させる。また、測量船に横浜村海岸の水深を測らせ、それが艦隊の停泊に十分だと認めた。
横浜村での現地調査
横浜村で日米代表会談をしたらどうかという案を現地で検討するため、ペリーは、先ず、アダムズとブケナン艦長を香山とともに、横浜村に上陸させたのだが、横浜村は「あらゆる面で適切であり、江戸に近く、海岸から一海里隔たった沖に安全で便利な停泊地があり、皇帝への贈り物を陸揚げして陳列するのに十分な余地もあった」(*一)との報告を受ける。
今まで引用した、アメリカの資料、情報では、具体的な現地調査の模様が不明である。そこで、現在、残存している地方文書を探ると、それがビビッドに描かれている
(本誌二九四、二九五で筆者が紹介)。地方文書に日米の合同調査が、次のように記録されている。
二月二五日、香山栄左衛門が異人三〇人ほどを連れて横浜村に上陸してきた。香山は寺院をみたいといったので、村役人が増徳院はどうかと答える。香山は海岸から遠いので不都合という。そこで、海岸沿いの駒形に案内すると、日米の担当者は足場もよい平地だとし満足した。早速、測量にかかり会見の予定地には目印の木柱を建てた。この下検分の状況などを見聞した横浜村住民一部は、近傍の三里、五里の先の縁故を頼り、一時、疎開したという。
このように、地元の村役人、住民の協力があってこそ、横浜村が日米代表の会談場所を最適の地域と判定できたのである。
ペリーも「岸から一マイルの地点に安全で広い錨泊地」のある横浜を「希望どおりの場所」だとし、述べている。「彼らは艦隊が湾の奥に進入することに思いつくかぎりの反対を並べてきて、それこそあらゆる手を尽くして私を浦賀に戻らせようとしてきた。それなのに、こちらを丸め込むことができないと悟り、帝都まで八マイル以内に現実に艦隊が近づいたのをみたとたん、これでは譲れないと繰り返し主張してきた立場をさっさと放棄して、無条件に私の主張を認めようと言いだすのだ。しつこいという点では似たようなものだったが、私のほうが一枚上手だったわけである」。そして、ペリーは、林大学頭あてにレターをおくり、この香山の提案は「あらゆる点で協議にふさわしい場所と分かりましたので、交渉が完了するまで江戸への訪問を延期する」(*二)。
アダムス、ブケナンの横浜上陸と調査結果により、日米代表の会見場が約百戸の寒村・横浜村に予定された。横浜が世界史の舞台に躍り出て、世上に知られるようになったのも、実は、この時点にあると認識すべきだろう。
参考文献
一、ペリー艦隊日本遠征記(北山雅史編)。
二、ペリー日本遠征日記 (木原悦子訳)、本稿では「日記」。
三、大日本古文書(東京帝大編)。
四、NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AMERICANSQADRON TO THE CHINA SEAS AND JAPAN。
五、ニューヨーク・タイムズ(英字紙)、一八五四年四月から八月まで。
六、ニューヨーク・オブザーバー、一八五四年四月から八月まで。
第一章 神奈川条約の締結
第一節 外国新聞からみた日米交渉と横浜村
はじめに
一八四八年、アメリカ合衆国は太平洋岸まで領土をのばし、太平洋横断航路を開いて捕鯨産業の拡大、中国との貿易に乗り出す。これに伴い、海難のアメリカ人の生命、財産の保護や日本との友好関係をつくる必要が出てきた。かくて、東インド艦隊司令長官のM・C・ペリーを使節として日本に派遣し交渉にあたらせた。その結果、一八五四年には日米和親条約(別称、神奈川条約)が結ばれた。
今回は、当時の外国の新聞、刊本等により、この条約予備交渉の状況と代表会談の場所選定の経緯を述べる。
ペリー提督の意図的な旅と外国の新聞報道
ペリーのアメリカ出航以前から、欧米諸国では、日本への関心が高まりつつあったことに注目したい。
オランダは、徳川幕府と長く通商関係を維持していたが、一八四四年、オランダの国王は、世界情勢を述べて伝統的な鎖国政策を緩和するよう将軍にアドバイスした。これに対し、幕府はオランダ、中国以外とは新たに通商しないと答えたが、当時の「ノース・チャイナ・ヘラルド」は、長年にわたり、オランダ政府が欧州の政治状況を毎年、日本に知らせているのは称賛に値すると論じた(一八五三、二)。日本の対外政策の強硬な態度は他の新聞、例えば、英国の「ザ・タイムズ」に批判された。
日本は多くの外国と通商関係を結ぶことを拒否している、さらには外国の船舶が遭難したときの寄港をも拒んで、海岸に近づくと砲撃する。日本の海岸に漂着すると、乗組員を捕虜にするか、投獄するかして、結局、殺す場合もあるのだ。いずれの国も他の国と通商関係を拒む権利はない。通商する権利を侵している野蛮国の排斥こそ、文明国およびキリスト教の責任である。・・・・・・・アメリカの捕鯨業者が、このため犠牲になっている。アメリカ政府は人道上からいっても日本の態度を変更させるべきなのだ(一八五二、三)。
さて、一八五二年初頭、アメリカ艦隊の食料、武器の積み込みから、日本への訪問を知った「ニューヨーク・ヘラルド」は、次のような付加的な意図もあると報道した。
アメリカは日本政府に好意をもってもらい、条約交渉の下工作をするための目的で日本のエンペラーへの献上品を持参させ、鉄道を教えるのに機関車と線路、文明を教えさせるために電信機や写真機をも積みこんだ。この意図的な旅行のために、当議会は一二万五千ドルを投入したようだ(一八五二、五)。
浦賀での日米交渉
さて、ペリーは、蒸気船を含む艦隊を編成し、一八五二年一一月、バ?ジニア州ノ?ホークをスタートした。艦隊は、大西洋を横断し、一八五三年四月、マカオ、香港に寄港した。ここで、艦隊の再編成がなされて、蒸気船ミシシッピ、サスケハナと帆船プリマス、サラトガの四隻は、同年七月八日(嘉永六年六月三日)、浦賀に到着した。直ちに、両国の担当者間で予備交渉が行われ、七月一四日に、日米代表会談を行うこととなる。
会見の当日、ペリーは海兵隊、水兵、軍楽隊を率いて久里浜の応接所に向かった。
これについては、すでに本誌二六六号で述べたが、「チャイナ・メール」の報道では次のようになっている。
ペリーは護衛するOFFICERS AND MEN(士官と兵隊)四〇〇人を伴い、風に靡く国旗やTHE NATIONAL HAIL COLUMBAを演奏するバンドとともにレセプションの家に行進した。ペリーらを迎えたのは皇帝の筆頭カンセラーの伊豆守とその部下の石見守だった。大統領のレターとペリー提督の信任状が正式に渡され、そして、二人のPRINCEからは公式受領書が与えられた。これだけで、会談は終わった。これ以上の交渉を進める権限が二人になかったからだ。
では、浦賀奉行の戸田伊豆守、井戸石見守に渡されたM・フイルモア大統領親書の概要は、どのようなものだったか。
高級役人を、日米間の友好、通商を促進するために派遣する。今は、アメリカ合衆国から日本まで二〇日以内で行けるし、中国行きの船舶が航行し始め、その際、日本を通過する。故に、貴国はアメリカの船舶に対して友情をもち、寛大で親切な態度で待遇してもらいたい。日本は、アメリカの求める商品、石炭を有しているので、友好的な貿易もしてもらいたい、日米が接近し通商すれば多くの利益を生ずるだろう。
親書は、このような内容だが、実は、アメリカの遭難船員への友好的待遇と船舶へ石炭や日用必需品を供給する港を求めたのである。
この親書の背景には捕鯨業者や船主が行政機関にたいしプレッシャー・グループを作って運動し、日本が捕鯨船の人道的扱いができぬときは断固たる態度にでるようにとの期待があった。しかし、大統領は、アメリカ国民が、どこで遭難事故にあっても保護措置を講ずるのが妥当の表現だとし、一八五一年以来、艦隊の派遣はこのような方針で進めている。かくして、ペリーには、戦争を宣言する権利はなく、平和的な性格を持つ使節として来日したのであった。
さて、浦賀奉行は大統領親書の受領書をペリーに提出したが、そこには、親書は受理するが、早急に日本を退去されたいと付記されている。そこで、ペリーは三日のちに離れるが、来春、日本を訪問し回答を受け取ると言い残した。が、ペリーは「日記」で「来春には圧倒的な艦隊を誇示」できるとしている(*二)。このように、ペリーはアメリカの偉大さを武力で示すほか、文明の利器、豊かな飲食文化で日本人を圧倒しようと意図していた。そうでもしないと、日米交渉は幕府の言い訳や引き延ばしで無駄の時間、費用を費やすだけだと憂慮したのである。
このようにして、将軍へのM・フイルモア大統領親書が、無事に手渡されたが、アメリカ側としては、平和裡に、日本代表に大統領親書を渡し、友好条約締結の一歩とするのを重視したから、ペリー自身も、一応、安堵したのではないか。
一八五三年七月一七日、四隻の軍艦は浦賀沖を去り、中国または琉球に向かった。
久良岐郡小柴の沖へ進出
一八五四年二月一三日(嘉永七年一月一六日)、ポ?ハタン号など六隻からなるペリー艦隊が浦賀沖に、再び、姿を現した。ロシア及びフランスが日本と交渉する姿勢を見せたので、訪日の予定をくりあげての訪問だった。そして、アメリカ錨地と称した地点(当時の久良岐郡、現在の横浜市金沢区の沖)に到着し、先着の一隻と合流した。
ただちに、浦賀奉行の組頭・黒川嘉兵衛らがポーハタン号に接近、乗艦したので、ペリーはアダムズ参謀に応対するよう命じた。黒川は昨年の大統領親書への回答などの協議の場所として、最初、鎌倉はどうかという。これが拒否されると浦賀はどうかと提案した。ペリーは、浦賀は停泊には不適当だとし「江戸にいくか、あるいはできるだけ近くまで」行かねばならないと指示した。つまり、「アメリカ錨地と江戸の間であればどこででも委員らと会うことに同意する」と伝えさせた(*二)。翌日も、翌々日も、黒川らは浦賀で会合したいと蒸し返したが、アメリカ側は妥協しない。一五日、一八日にもポーハタン号で予備交渉があったが、その際、日本側から「新鮮な牡蠣や卵や菓子」が届けられたという(*二)。
二月一八日、富士山が見えるほど晴れ上がり、旗艦がポーハタン号となる。
二月二二日、アダムズはバンダリア号で浦賀におもむき、応接掛の林大学頭、井沢美作守と会見した。相互に名刺を交換したのち、ペリーの書簡を渡した。江戸に近い場所で会見したいが、「連絡にも便利であり・・・・・贈り物を陳列し、お目にかけるにも適している」からだという(*二)。これを審議するため交渉は一時、中断された。その間、「スポンジケーキに似た菓子、キャンデイ、さまざまな果物、酒」などがだされた(*一)。翌日、昨年から交渉にあたっていた香山栄左衛門が再び姿を現し、浦賀沖のバンダリア号を訪問し浦賀での日米会談を懇願した。他方、ペリーは、二四日、バンダリア以外の軍艦を「江戸が見える地点」(生麦付近)まで進出させた。そのため、陸上は大騒ぎとなり「夜通し町で打ち鳴らさせる鐘の音が、はっきり聞こえるほどだった」(*一)という。
さて、日米間の予備交渉では、アメリカ艦隊の羽田まで進出の報がはいり、局面が急に転回する。香山としては、ペリーの決心が動かないし、艦隊が「さらに江戸に近づく方向」へ進むとみてとったので、「艦隊の真向かい」の場所を代案として提案したのである。この香山の横浜村を適当とする提言を是としたペリーは、湾内の深くに進出した艦隊を、引き返させる。また、測量船に横浜村海岸の水深を測らせ、それが艦隊の停泊に十分だと認めた。
横浜村での現地調査
横浜村で日米代表会談をしたらどうかという案を現地で検討するため、ペリーは、先ず、アダムズとブケナン艦長を香山とともに、横浜村に上陸させたのだが、横浜村は「あらゆる面で適切であり、江戸に近く、海岸から一海里隔たった沖に安全で便利な停泊地があり、皇帝への贈り物を陸揚げして陳列するのに十分な余地もあった」(*一)との報告を受ける。
今まで引用した、アメリカの資料、情報では、具体的な現地調査の模様が不明である。そこで、現在、残存している地方文書を探ると、それがビビッドに描かれている
(本誌二九四、二九五で筆者が紹介)。地方文書に日米の合同調査が、次のように記録されている。
二月二五日、香山栄左衛門が異人三〇人ほどを連れて横浜村に上陸してきた。香山は寺院をみたいといったので、村役人が増徳院はどうかと答える。香山は海岸から遠いので不都合という。そこで、海岸沿いの駒形に案内すると、日米の担当者は足場もよい平地だとし満足した。早速、測量にかかり会見の予定地には目印の木柱を建てた。この下検分の状況などを見聞した横浜村住民一部は、近傍の三里、五里の先の縁故を頼り、一時、疎開したという。
このように、地元の村役人、住民の協力があってこそ、横浜村が日米代表の会談場所を最適の地域と判定できたのである。
ペリーも「岸から一マイルの地点に安全で広い錨泊地」のある横浜を「希望どおりの場所」だとし、述べている。「彼らは艦隊が湾の奥に進入することに思いつくかぎりの反対を並べてきて、それこそあらゆる手を尽くして私を浦賀に戻らせようとしてきた。それなのに、こちらを丸め込むことができないと悟り、帝都まで八マイル以内に現実に艦隊が近づいたのをみたとたん、これでは譲れないと繰り返し主張してきた立場をさっさと放棄して、無条件に私の主張を認めようと言いだすのだ。しつこいという点では似たようなものだったが、私のほうが一枚上手だったわけである」。そして、ペリーは、林大学頭あてにレターをおくり、この香山の提案は「あらゆる点で協議にふさわしい場所と分かりましたので、交渉が完了するまで江戸への訪問を延期する」(*二)。
アダムス、ブケナンの横浜上陸と調査結果により、日米代表の会見場が約百戸の寒村・横浜村に予定された。横浜が世界史の舞台に躍り出て、世上に知られるようになったのも、実は、この時点にあると認識すべきだろう。
参考文献
一、ペリー艦隊日本遠征記(北山雅史編)。
二、ペリー日本遠征日記 (木原悦子訳)、本稿では「日記」。
三、大日本古文書(東京帝大編)。
四、NARRATIVE OF THE EXPEDITION OF AMERICANSQADRON TO THE CHINA SEAS AND JAPAN。
五、ニューヨーク・タイムズ(英字紙)、一八五四年四月から八月まで。
六、ニューヨーク・オブザーバー、一八五四年四月から八月まで。