クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生市小松に“城の前身”はあったか? ―論文(6)―

2007年01月12日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
〈小松神社・小松寺と木戸氏〉
前稿で直繁と忠朝が簑沢竹の内に館を築き、居館していたと書いた。
それが東谷に城が築かれる前のいわば羽生城の前身としたが、
そもそも木戸氏は古くから羽生に住んでいたわけではなく、
土地の基盤は極めて弱かった。
いつ木戸氏が羽生に移ってきたのかは定かでない。
ただ直繁と忠朝が小松神社に三宝荒神を寄進する
天文5年(1536)以前であったことは間違いないだろう。
木戸氏はこの三宝荒神の寄進をはじめとして、
社寺の創建、開基、勧請などを多くしている。
年代順に整理してみると、次のようになる。

 天文5年(1536)直繁・忠朝小松神社に三宝荒神を寄進。
 天文12年(1543)忠朝の母、簑沢に正光寺を開基。
 天文13年(1544)忠朝、岩瀬に岩松寺を開基。
 天文15年(1546)直繁・範実、小松寺に本地仏を寄進。
 天文23年(1554)直繁、小松神社の社殿を修理する。
 弘治3年(1557)忠朝妻、大天白神社を勧請。
 永禄6年(1563)直繁、村君の養命寺(永明寺)を再興。

羽生城初期の段階において、
木戸氏は小松神社や近隣の寺社に対し、積極的に働きかけた。
これらをふまえて、冨田勝治先生は直繁・忠朝らが簑沢に館を築く前、
小松に居住していたと推測している。
小松のどこに住んでいたのかは不明だが、
当時小松神社のそばには「小松寺」があり、7人の修験者が屋敷を構えていた。
この小松寺そのものが砦となっていたのかもしれない。
近くに古利根川が流れ、自然堤防や河畔砂丘が発達していることから、
要害としての機能を果たしていたことが考えられる。
また冨田先生は、河越合戦の敗北後、小田原勢力圏にくみしたとき、
木戸氏が潜伏していたのは小松だったとも指摘している。
そして、忠朝の母が正光寺を開基する頃に、簑沢に館を建てて移り住んだという。
ただ、その後も小松寺に本地仏を寄進したり社殿の修理をしていることから、
直繁は暫く小松にいた可能性があるとしている。

このように木戸氏がはじめ小松にいたとするならば、
それは「竹の内館」のさらに以前ということになる。
すなわち何らかの理由で羽生に来た木戸氏ははじめ小松に住み、
天文12年頃に簑沢に館を築いてからはそこに移り、
河越合戦を機に東谷へ拡張・修築していったという流れだ。
果たして木戸氏は竹の内館以前に、小松に住んでいたのだろうか。
言い換えれば、羽生城の最も前身となるべき建物が小松にあったかということである。

私はこのことについて、小松に館や城はなかったと考えている。
伝承もなく、それとおぼしき小名も残っていない。
ただ、小松神社・小松寺そのものが砦であった可能性は否定しない。
つまり、天文5年以前に羽生に来た木戸氏は、はじめ小松神社・小松寺を拠点とし、
天文12年頃簑沢へ竹の内館を築くとそちらへ移っていったのである。

では、なぜ木戸氏は小松神社や近隣の社寺に頻繁に係わっていたのであろうか。
先に私の推測を述べると、在地的基盤を深めるためであったと考える。
新参者の木戸氏がその領地を支配し、盤石な拠点とするために、
基盤の強固が急務だったはずだ。
当時羽生領72ヶ村の鎮守だった小松神社に本地仏の寄進や社殿の修理をすることで、
土地との結びつきを強めようとしたのではないだろうか。
これは小松神社にかかわらず、正光寺、岩松寺の開基、大天白神社の勧請、
養命寺の再興にも同様のことがいえる。
本城の危機的状況の逃げ場を確保するためとも捉えられるが、
在地的基盤の強固の側面の方が強かったと考えられる。
というのも、このことは直繁と忠朝が称していた姓にも表れているからである。
(「論文(7)」に続く)

※画像は小松神社(羽生市小松)です。

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2 コメント

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謎ですね (凡夫)
2007-01-13 00:02:33
神社仏閣を隠れ蓑にして地域に溶け込み策をねるなんてすごいですね。



神や仏様を信仰する人を疑わないでしょうからね。



しかし、昔のお寺は簡単に建てられたのですかね?



一人の僧侶が何個もお寺を建てたりしてますからね。



お金とかはどう工面したのですかね?
現代とは違う視点 (クニ)
2007-01-13 00:55:28
名刹はともかくも、名もなき寺は粗末なものが多く、
現代ほどのお金はかからなかったかもしれませんね。
寺の建てられ方も時代やその地域によって様々で、
戦国期だと武将と関係しているお寺が多いのではないでしょうか。
当時の人の視点や価値観でものを考えるのは、
なかなか難しいものです……

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