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クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

金錯銘鉄剣の謎 -稲荷山古墳の鉄剣(2)-

2006年05月10日 | 考古の部屋
改めて稲荷山古墳の鉄剣の銘文を見ていきたいと思います。
『行田歴史散歩』に所収された銘文の訓読を、
ここにそのまま引用します。
〈表の銘文〉
辛亥の年(西暦四七一年)七月中、記す。上祖(かみつおや)、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ

〈裏の銘文〉
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヨワケの臣(シン)。世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(しゅ)と為り、奉事し来(きた)り今に至る。ワカタケ(キ)ル(ロ)大王(ダイオウ)の寺(じ)、シキの宮に在る時、吾、天下を左事し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記すなり

表は57文字で、裏は58文字です。
この115文字の意味する内容は、『埼玉県の地名』所収の
「稲荷山古墳」を参照にすると、次の通りです。

作刀依頼者の「ヲワケノシン」に至る八代の系譜を述べ、
そのヲワケノシンが杖刀人の首として「ワカタケル大王」に仕え、
ワカタケル大王の天下統一に奉事してきたことを明示するために、
この剣を作らせた。それが辛亥年である。

ここに登場してくる「ワカタケル大王」とは、
雄略天皇を指しているものと考えられています。
すなわち『古事記』の「大長谷若建」、
『日本書紀』の「大泊頼幼武」です。
「杖刀人」とは、刀を杖につく人=武人を意味するもので、
雄略天皇の親衛隊の「首」=隊長ということになります。
「辛亥年」は、言い換えればこの鉄剣の作られた年代で、
稲荷山古墳から検出された副葬品などの検討の結果から、
西暦471年と考えられています。
以前は西暦531年説があったのですが、西暦471年が有力です。

ところで、問題なのは「ヲワケノシン」です。
いわば、稲荷山古墳の被葬者は一体誰なのか、ということ、
またこの金錯銘鉄剣がなぜ北武蔵にあるのか、
という謎の全てを握っているといっていいでしょう。
世紀の発見から約三十年の月日が経とうとしていますが、
その謎は想像以上に深いようです。
岡本健一氏が『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』の中で、
古代史家の和田萃氏の整理による「ヲワケノシンの出自」説を紹介しているので、
ここに引用したいと思います。

①ヲワケ=中央豪族説
(a)ヲワケ≠被葬者説:中央豪族の近衛隊長ヲワケが、近衛兵として活躍した武蔵の豪族の子弟に剣を与えた。子弟は故郷で没後、鉄剣と共に稲荷山に葬られた。
(b)ヲワケ=被葬者説:近衛隊長ヲワケその人が大和から武蔵に下り、没後、己の功績を記した鉄剣とともに稲荷山に葬られた。

②ヲワケ=地方豪族説:若き日のヲワケは武蔵から大和に上り、近衛隊長として手柄を立てた。帰郷する前、記念に金文字入りの鉄剣を作り、没後剣と共に葬られた。

このほかに「ヲワケ=北武蔵豪族」の新説も同書で紹介しています。
すなわち、ヲワケノシンが畿内の豪族なのか、
それとも地方の豪族なのかということで、大きく説が分かれるのです。
新しい史料の発見がない限り、この議論はまだまだ続きそうです。
ちなみに「ヨワケの臣」の「臣」は、
「オミ」と読むと氏姓制度の未成立段階において、身分を表してしまうので、
謙譲表現として「シン」と音読しています。

稲荷山古墳を巡る謎として、
主体部はまだ発見されていないのではないか、というものもあります。
鉄剣が検出された礫槨やもう一つの粘土槨の下か、
もしくは別の部分に主体部が未だに埋まっているのではないかというのです。
もし眠れる主体部があるとすれば、
被葬者の人間関係が複雑に絡み合い、
鉄剣の謎を解決するか、また新たな謎を呼ぶか、
おそらくその両方でしょう。
鉄剣を巡る世界に足を踏み入れるほど、古代のロマンにどっぷりと浸かり、
いつの間にか引き返せなくなってしまいます。
そのいざないを心地よく受け止めるか、
それとも踏みとどまるか、それは見る者の自由でしょう。

なお、近年の研究で、銘文の金像嵌に含まれる金の量に
差があることが判明しました。
蛍光エックス線分析で明らかになったのですが、
この金含有量の差が何を意味しているのかは、謎ということです。

※画像は鉄剣が検出された稲荷山古墳の礫槨です

参考文献
塩野博著『埼玉の古墳』(さきたま出版会)
宮川進著『さきたま双書 さいたま古墳めぐり』(さきたま出版会)
大井荘次著『行田歴史散歩 史跡と文化財を尋ねて』(大井立夫設計工房)
岡本健一「二十年目の知的饗宴」
(上田正昭・大塚初重監修金井塚良一編『稲荷山古墳の鉄剣を見直す』(学生社)所収)
「稲荷山古墳」(平凡社『埼玉県の地名』所収)

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