クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

世紀の発見はいかにしてされたか -稲荷山古墳の鉄剣(1)-

2006年05月10日 | 考古の部屋
画像は、昭和43年(1968)に埼玉古墳群のひとつ「稲荷山古墳」の
礫槨から検出された金錯銘鉄剣(辛亥年鉄剣)です。
現在は画像のように金色の銘文を見ることができますが、
検出された当時は赤サビで文字は完全に消えた状態でした。
銘文の発見はそれから十年の歳月を要します。
その十年の間、鉄剣は当時新設されたばかりの
さきたま資料館(現さきたま史跡の博物館)に一般公開され、
ただの展示物のひとつでしかありませんでした。

ところが、昭和53年(1978)5月中旬、サビ防止のために、
鉄剣が奈良の元興寺文化財研究所に送られてからのことです。
同年7月27日、女子研究員の大崎敏子氏が、
サビの中でわずかに輝く金色の光を発見しました。
同年9月11日、工業用のレントゲン装置を使って、
鉄剣にエックス線をあてて写真撮影をします。
すると、鉄剣の両面から115文字が浮かび上がってくるのが判明しました。
これが、百年に一度の発見と言われた金錯銘文の発見の瞬間でした。
同年9月12日、早速文字の写ったフィルムを国立奈良文化財研究所に送り、
銘文の解読が行われます。
そして翌日、解読が終了すると、
9月19日に埼玉県教育委員会による記者発表が行われました。さらに、
その日の毎日新聞の夕刊に、早くも銘文の発見が報じられました。

そもそも、稲荷山古墳の鉄剣の検出自体が、
偶然の積み重ねだったといいます。
現在では稲荷山古墳は前方後円墳の形をしていますが、
数年前までは後円部の部分しかなく、
前方部は学校用地埋め立てのために、
昭和13年(1938)には完全に消滅していたといいます。
すなわち、現在の前方部は復元されたものです。
昭和43年(1968)8月の埼玉古墳群の発掘調査の際に、
遺構が良好に残っている古墳を避け、
すでに一部が破壊されていた稲荷山古墳にターゲットが絞られたのです。
もし稲荷山古墳の前方部が消滅していなかったら、
鉄剣の検出も銘文の発見も遅れていたかもしれません。
破壊によって世紀の発見がされるとは、
皮肉なものを感じてしまいます。

参考文献
塩野博著『埼玉の古墳』(さきたま出版会)
大井荘次著『行田歴史散歩』(大井立夫設計工房)
高橋一夫著『鉄剣銘一一五文字の謎に迫る 埼玉古墳群』(新泉社)

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