クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

異色の戦国武将は“才ある者”をどう見ていた? ―幸手の一色直朝―

2009年12月17日 | ふるさと人物部屋
才ある者は、同じ才ある者に惹かれる。
しかし、その感情は好感とは限らない。
ときとして、妬みや憎しみに変わることがある。

愛と憎しみは表裏一体である。
イエス・キリストを裏切ったユダや、
モーツアルトに激しい嫉妬を覚えたサリエリも、
それは愛の裏返しであったのかもしれない。

記事「武将木戸氏は“芸”でどう身を助けたか?」で、
木戸氏の歌学について述べた。
“木戸孝範”が冷泉持為から習得した歌学は、
“範実”のときに「二流相伝」として成立する。
それを受け継いだ元斎は、
越後上杉家で武家歌人として活躍した。

ところで、戦国時代の関東に異色の武将がいた。
それは幸手城主“一色直朝”である。
この人物は、古河公方足利晴氏の奏者を務めた人物だった。
そのため、京との繋がりが深い。

直朝(なおとも)は戦国武将というより、
文化人として名を馳せている。
しかも、一つの肩書きだけではない。
歌人、随筆家、画家としてその才能を発揮しており、
戦国武将とは異色の多才ぶりである
関東の文化史を見る上で、一色直朝を避けて通ることはできない。

この直朝と、「二流相伝」を成立させた木戸範実は同じ時代を生きている。
しかも、幸手城と羽生城とでは地理的に近い。
あまつさえ、羽生領は上杉謙信に属す前は、
足利晴氏の勢力圏内であった。
当然、互いが知らないはずはなかったし、
意識し合う存在だったのだろう。

かの木戸孝範は“太田道灌”や“東常縁”、
“万里集九”と親しく交流している。
しかし、木戸範実と一色直朝はいわばライバル同士だったらしい。
直朝は『桂林集注』の中で、
範実に対抗意識を燃やす文を書き記している。

木戸の歌学もまた、京の冷泉家から影響を受けたものである。
古河公方の奏者を務め、
京の公家や僧侶など広い交流を持っていた直朝にとって、
対抗意識を燃やさざるを得なかったのに違いない。

得てして、似た者同士は唯一無二の親しい存在になるか、
対抗し合うかのどちらかである。
その中間はほとんどない。
両者が力を合わせれば大きな力を発揮するのだが、
ほとんどの場合は対抗してしまう。

『ドラゴンボール』(鳥山明)の孫悟空とベジータ、
『スラムダンク』(井上雄彦)の桜木花道と流川楓のように……。
ライバルがいるから、
互いが成長し合うとも言えるのだが……

上杉謙信が関東に出陣してからは、
幸手城と羽生城は政治的に敵対関係となった。
木戸範実がいつ没したのかは定かではないが、
永禄年間初期あたりには、故人になっていたのかもしれない。

木戸氏の歌学は元斎に確実に受け継がれている。
範実の二男“木戸忠朝”も継承したと思われるが、
その歌や作品は現存していない。
羽生城は天正2年(1574)閏11月に自落し、
元斎をはじめ城兵たちは謙信に引き取られた。

幸手の地で、一色直朝はどんな思いでその知らせを聞いたのだろう。
そして、その後元斎が直江兼続らと共に京都へ上洛し、
著名な歌人たちが集まる歌会に参加していることを
耳にしていたのだろうか。

その直朝は、慶長2年(1597)に没している。
戦国乱世でなければその才能はもっと発揮されていたかもしれない。
しかし、異色の戦国武将一色直朝の作品は、
いまも脈々と息づいている。



甘棠院(埼玉県久喜市)
同寺を開山した貞巌和尚の肖像画(伝)を一色直朝は描いている。
ここは館跡でもある。




幸手城(同県幸手市)
現在は幸手駅になっている。

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