クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

武将木戸氏は“芸”でどう身を助けたか? ―木戸孝範と元斎―

2009年12月16日 | ふるさと人物部屋
「芸は身を助ける」という諺がある。
芸と言っても幅広く、『岩波ことわざ辞典』(岩波書店)によると、
遊興や道楽で身につけた芸を指しているらしい。

芸は身を助けてくれるが、
逆説的には「芸が身を助けるほどの不仕合わせ」の状況であることを、
同書は指摘している。

ところで、“木戸孝範”という人物がいる。
永享の乱で“足利持氏”が鎌倉永安寺で自害したとき、
孝範(たかのり)は6歳であった。
持氏の死によって、孝範は乳母とともに甲州に潜むことになる。

それを耳にした将軍“足利義教”は、孝範を上洛させた。
そして預けた先は“冷泉持為”である。
孝範はそこで歌道を習得したらしい。
いわば、歌道という芸を身につけたということになる。

長禄元年(1457)12月、孝範は足利政知に伴って関東へ下向した。
ときに関東は享徳の乱の真っ只中である。
足利政知が“堀越公方”と呼ばれることは周知のとおりで、
孝範も伊豆にいたが、
やがて“太田道灌”や“東常縁”と親交を結んだ。

人を見出すのは“人”である。
ある日突然、神のお告げが降ってくるわけではない。
見ている人は見ている。
才ある者は、やはり才ある者に敏感なものだ。

木戸孝範は道灌や常縁に見出されたのだろう。
歌人としてその名を轟かせていくようになる。
文明6年(1474)の江戸城内での歌合に孝範は参加していた。
そして、次の歌を詠んでいる。

 しくれめく雨のあら海秋はまた遠嶋かけてめくる雲かな

その次に詠んだのが太田道灌であった。
関東の文化人の間で、孝範を知らない者はいなかった。
その名声は、京都にまで届いていたらしい。
“万里集九”は『梅花無尽蔵』の中で
「余、洛にありてその声誉を聞くこと久し」と述べている。

この木戸孝範の歌学と、二条流の東常和の歌学を受け、
「二流相伝」を成立させたのが“木戸範実”である。
この人物は、孝範の孫にあたる。
木戸の歌学は面々と受け継がれていた。

木戸範実は、台頭する後北条氏のために羽生(埼玉県羽生市)へ派遣された。
この範実の男子が“広田直繁”と“木戸忠朝”であり、
永禄3年(1560)に上杉謙信に属した。
そして、反北条として羽生城を守っていくことになる。
彼らが詠んだ歌は現存していないが、
歌学はおそらく忠朝に受け継がれたと思われる。

羽生城は天正2年(1574)に自落した。
城兵は謙信に引き取られ、
羽生領は忍城主成田氏の支配下となる。
直繁と忠朝はすでに亡き人になっていた。

忠朝の二男の“木戸元斎”は羽生を落ち延びたあと、
のちに上杉景勝に仕えている。
そして、“直江兼続”と昵懇の仲になり、
武家歌人として越後歌壇に大きな影響を及ぼしていく。

元斎は上杉の歌会には必ず参加しており、
外様としては最大の知行地を得ていた。
兼続らと上洛したおりには、
かつて敵対していた忍城主成田氏長と顔を合わせている。

木戸の歌学は連綿と続いていたと言えよう。
元斎もまた武家歌人として、その名を轟かせていた。
ひとえに、歌という芸がそうさせたと言っても過言ではない。

元斎の人生は羽生自落後に花開いた。
それは、かつて甲州に潜んでいたこともあった木戸孝範が、
歌によって人生を切り開いていったのと似ている。



隅田川。
木戸孝範は隅田川の上流に住んでいたという(『梅花無尽蔵』)



羽生城(埼玉県羽生市)
広田直繁と木戸忠朝の歌は残っていない。
しかし、現存する忠朝の書き記した文字は、
歌人のごとく流麗である。



膳城(群馬県前橋市粕川町膳)
木戸元斎は羽生自落後、膳城に配置されていた。


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2 コメント

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社長に会っていれば心中撤回!か? (さいたまんぞう)
2009-12-16 23:03:36
今晩は。「氷川神社と太宰治」20回分一気に拝読させていただきました。太宰が心中の前日に大宮を訪れていたなんて、、、全く知りませんでした。山崎富栄との問題、『グッドバイ』執筆の難儀、不眠症被害妄想など、指一本押せばバタンと倒れるほど憔悴しきってたのでしょう。最後の救いを求め大宮までやってきた彼の姿が目に浮かびます。筑摩書房の社長に叱責され激励される事を期待し、いきずまった状態から抜け出すわずかな光をみいだしたかったのでは、と自分は思います。猪瀬さんの推理-自殺未遂を演じる事で打開する-は、太宰にもうそこまでの余裕は、なかったんじゃないかと思うのですが、クニさんはどう思いますか?
世間とも肉親とも絶ち切った富栄の情念たるや凄まじいです。彼女を主人公に描いた映画なんて作られても面白いとおもいますけどね。
太宰が滞在していた場所は、ココイチの辺りだったのですね、以前何かの新聞で大宮市民会館の付近にあった中華料理屋の2階にたいざいしていた云々という記事を見たことがあって、いやいや誤解していました。今度あそこのココイチで大盛の野菜カレーでも食ってきます。(笑)ご自身の未完作品も気になっちゃいます。寿能城の伝説なども。これからもいろいろ教えてください!

どうぞよろしくです。




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さいたまんぞうさんへ (クニ)
2009-12-18 02:22:39
コメントありがとうございます。
また、拙稿を読んでいただき恐縮です。
意外に太宰と大宮の関係は深いですよね。
短期間とはいえ、大宮で過ごした日々のことをもっと注目されてもいい気がします。
もし玉川上水の入水前日に社長と会っていたら、
太宰はどんな結末を迎えていたでしょう。
自殺未遂演出説は過去はそうだったかもしれませんが、
山崎富栄のときはどうだったでしょうか。
身体的にも衰えが激しく、演出どころではなかったかもしれませんね。
そこには作家としての絶望感もあったのかも……

太宰が寄宿した場所は現在駐車場になっています。
ひと頃はココイチのカレーをよく食べに行っていました。
ウズラの卵フライカレーがいつものメニューで。
野菜カレーもおいしそうですね(笑)

未完成の小説はやはり書き上げたいです。
まだ未知数ですが。

こちらこそいろいろと御教示いただけたら幸いです。
年末年始で、氷川神社の季節ですね。
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