小山会談のあと、“佐竹義重”と別行動を取ることになった謙信は、
古河・栗橋・館林を蹂躙した。
そして、再び利根川を渡り、
騎西・菖蒲・岩付などの「武州敵地」を悉く放火する。
あくまでも“放火”であり、“決戦”ではない。
領民は城に籠もり、上杉勢が行き過ぎるのを待ったのだろう。
城兵もあえて決戦を挑もうとはしなかった。
謙信は猪突猛進のきらいがある。
幼少の頃は「直情径行」であったという。
かの“太田資正”は謙信を、
「十にして八つは大賢人、二つは大悪人ならん。怒りに乗じて為し給ふ所、多くは僻事なり。是悪しき所なり」
と評している(『名将言行録』)
また、北条氏康も怒りに駆られた謙信は手の施しようがないが、
ほとぼりが冷めれば「その勇釈然として万事において思慮あり」と評したという。
つまり、謙信と決戦を挑むより、
ひたすら嵐が行き過ぎるのを待つのが得策と考えたのだろう。
したがって、領地が放火されても、
城兵たちは一歩も城を出ず謙信をやり過ごした。
武蔵国で、謙信に恨みを持つ者はおそらく多くいたはずである。
特に、騎西領は永禄6年(1561)にも謙信の侵攻を受けており、
そのときの戦いは凄まじかったと伝えられる。
城に籠もった男女3千人余りが撫斬りとなり、
その光景は目も当てられないほどだったという。(『北条五代記』『関八州古戦録』)
騎西城跡(埼玉県騎西)に残る土塁。
騎西城の支城“油井城”(鐘撞山)。同県加須市油井ヶ島。
永禄6年の騎西城攻めの際、この城も落城したという。
油井城のそばに広がる油井ヶ島沼。
人々は謙信の来攻を恐れ、
ただ行き過ぎるのを待った。
騎西のみならず、各城がそうであっただろう。
約40日に及ぶ謙信の侵攻であったが、
結局干戈を交えることはなかった。
城外へ出る者はひともおらず、それは隠れているわけでもなく、
謙信の働きによるものだろうと、
謙信自身も蘆名盛氏に宛てて書き記している(「名将之消息録」)
そして謙信は向かう。
ひたすら自分の救援を待っていた羽生城に……
(続く)
古河・栗橋・館林を蹂躙した。
そして、再び利根川を渡り、
騎西・菖蒲・岩付などの「武州敵地」を悉く放火する。
あくまでも“放火”であり、“決戦”ではない。
領民は城に籠もり、上杉勢が行き過ぎるのを待ったのだろう。
城兵もあえて決戦を挑もうとはしなかった。
謙信は猪突猛進のきらいがある。
幼少の頃は「直情径行」であったという。
かの“太田資正”は謙信を、
「十にして八つは大賢人、二つは大悪人ならん。怒りに乗じて為し給ふ所、多くは僻事なり。是悪しき所なり」
と評している(『名将言行録』)
また、北条氏康も怒りに駆られた謙信は手の施しようがないが、
ほとぼりが冷めれば「その勇釈然として万事において思慮あり」と評したという。
つまり、謙信と決戦を挑むより、
ひたすら嵐が行き過ぎるのを待つのが得策と考えたのだろう。
したがって、領地が放火されても、
城兵たちは一歩も城を出ず謙信をやり過ごした。
武蔵国で、謙信に恨みを持つ者はおそらく多くいたはずである。
特に、騎西領は永禄6年(1561)にも謙信の侵攻を受けており、
そのときの戦いは凄まじかったと伝えられる。
城に籠もった男女3千人余りが撫斬りとなり、
その光景は目も当てられないほどだったという。(『北条五代記』『関八州古戦録』)
騎西城跡(埼玉県騎西)に残る土塁。
騎西城の支城“油井城”(鐘撞山)。同県加須市油井ヶ島。
永禄6年の騎西城攻めの際、この城も落城したという。
油井城のそばに広がる油井ヶ島沼。
人々は謙信の来攻を恐れ、
ただ行き過ぎるのを待った。
騎西のみならず、各城がそうであっただろう。
約40日に及ぶ謙信の侵攻であったが、
結局干戈を交えることはなかった。
城外へ出る者はひともおらず、それは隠れているわけでもなく、
謙信の働きによるものだろうと、
謙信自身も蘆名盛氏に宛てて書き記している(「名将之消息録」)
そして謙信は向かう。
ひたすら自分の救援を待っていた羽生城に……
(続く)
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