クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(50) ―上杉謙信の侵攻Ⅱ―

2008年09月18日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
小山会談のあと、“佐竹義重”と別行動を取ることになった謙信は、
古河・栗橋・館林を蹂躙した。
そして、再び利根川を渡り、
騎西・菖蒲・岩付などの「武州敵地」を悉く放火する。

あくまでも“放火”であり、“決戦”ではない。
領民は城に籠もり、上杉勢が行き過ぎるのを待ったのだろう。
城兵もあえて決戦を挑もうとはしなかった。

謙信は猪突猛進のきらいがある。
幼少の頃は「直情径行」であったという。
かの“太田資正”は謙信を、
「十にして八つは大賢人、二つは大悪人ならん。怒りに乗じて為し給ふ所、多くは僻事なり。是悪しき所なり」
と評している(『名将言行録』)

また、北条氏康も怒りに駆られた謙信は手の施しようがないが、
ほとぼりが冷めれば「その勇釈然として万事において思慮あり」と評したという。
つまり、謙信と決戦を挑むより、
ひたすら嵐が行き過ぎるのを待つのが得策と考えたのだろう。
したがって、領地が放火されても、
城兵たちは一歩も城を出ず謙信をやり過ごした。

武蔵国で、謙信に恨みを持つ者はおそらく多くいたはずである。
特に、騎西領は永禄6年(1561)にも謙信の侵攻を受けており、
そのときの戦いは凄まじかったと伝えられる。
城に籠もった男女3千人余りが撫斬りとなり、
その光景は目も当てられないほどだったという。(『北条五代記』『関八州古戦録』)


騎西城跡(埼玉県騎西)に残る土塁。


騎西城の支城“油井城”(鐘撞山)。同県加須市油井ヶ島。
永禄6年の騎西城攻めの際、この城も落城したという。


油井城のそばに広がる油井ヶ島沼。

人々は謙信の来攻を恐れ、
ただ行き過ぎるのを待った。
騎西のみならず、各城がそうであっただろう。
約40日に及ぶ謙信の侵攻であったが、
結局干戈を交えることはなかった。
城外へ出る者はひともおらず、それは隠れているわけでもなく、
謙信の働きによるものだろうと、
謙信自身も蘆名盛氏に宛てて書き記している(「名将之消息録」)

そして謙信は向かう。
ひたすら自分の救援を待っていた羽生城に……
(続く)

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