夏休みの羽生図書館で閉館時間まで勉強したあと、
利根川へ行くのがお決まりのコースでした。
高校生最後の夏。
1日中館内に籠っていただけに、高い土手に登って吹き抜ける風に当たりながら眺める利根川は、とても開放的に感じたのを覚えています。
そして、その帰りに羽生市役所近くのそば屋へ寄り道。
利根川で過ごしたせいもあるかもしれません。
その店で食べるそばは絶品で、注文するのはいつも大盛でした。
“ざるそば”と“もりそば”の違いがノリの有無と知ったのもその店です。
勉強して、川で遊んで、グルメで締める。
時間に追われる日々でしたが、出来事の一つ一つが熱を帯びていた夏だったように思います。
家に着くのはおおよそ19時15分で、
再び机に向かって広げる『菅野日本史B講義の実況中継』や『日本史B用語集』はとても刺激的でした。
ずっと読み続けたい本でしたし、参考書をそんな風に思えるのはほかになかったかもしれません。
いまも「読書」として読み返すことのできる参考書です。
ところで、いまから約5百年前の戦国時代においても利根川は流れており、
交通や軍事として重要な存在でした。
当時は軍事的理由から恒常的な橋は架けられていません。
したがって、川を渡るには舟橋を架けたり、浅瀬を歩いたりしなければならず、
大軍であるほど川の状態によって行動が規制されたのです。
洪水が起これば、むろん動けません。
武田信玄も北条氏康もそのために進軍を見合わせることがありました。
「利根川無渡候上者、後詰之擬別ニ無了簡候」と、武田信玄が佐野昌綱に伝え(「渡辺(茂)家文書」)、
「氏康者号大神所迄出陣、洪水故于今進陣無之候」と、小田氏治が白川義親に状況を報告したように(「東京大学白川文書」)、
軍事事業に支障をきたし、延期せざるを得なかったのです。
また、春先は融雪によって川が増水し、渡河を困難にさせます。
羽生城救援へ向かった上杉謙信が利根川に阻まれ、大輪(群馬県明和町)で足止めを余儀なくされたことがありました。
せめて物資だけでも羽生城(埼玉県羽生市)へ送り込もうとしますが、
これを担当した「佐藤筑前守」が地形を見誤り、失敗に終わったことはよく知られています(「東京大学文学部所蔵謙信公御書集」)。
坂東太郎の異名を持つ利根川です。
関東を舞台に合戦を繰り広げた上杉謙信、北条氏康・氏政父子、武田信玄は少なからず利根川の影響を受けています。
そんな利根川を背にして敵城に攻め込んだ深谷城勢が、敗北した上に溺死するということがありました。
背水の陣ゆえの結果です。
深谷上杉勢は利根川を越えて小泉城(群馬県大泉町)へ出撃。
ところが、城方の抵抗を受けて数多討ち取られます。
無理な力攻めは得策でないと判断したのでしょう。
深谷城主上杉憲盛は撤退を下知します。
すると、反撃するかのごとく小泉城では追撃の兵が出撃します。
深谷城へ戻るには利根川を渡らなければなりません。
進めば坂東太郎、引き返せば小泉城勢。
そんな状況が展開されました。
そして、退路を断たれた深谷城勢の多くは川に飛び込んだのでしょう。
無事に渡河する者もいれば、溺死する者も多くいました。
この合戦の知らせを受けた謙信は、小泉城主富岡氏に宛てて次のような書状を送っています(「冨岡家文書」)。
従深谷至于其地、被成懸動之処、引付突而出、凶徒数百討捕、残党利根河へ逐入之由、其聞候、心地好候、乍不初儀、戦功無比類候、弥相挊簡要候、猶河田豊前守可申遣候、謹言
卯月十日 輝虎(花押)
冨岡主税助殿
深谷上杉勢を数百人討ち取ったあと、その残党は利根川へ入水したことを聞き「心地よし」と喜びを表す謙信。
初めてのことではないにせよその戦功は比類がないと誉め、いよいよ尽力せよと結んでいます。
このように、戦国時代において利根川で命を落とす者は少なくなかったと思われます。
先述した上水謙信の羽生城救援の際、物資を送り込もうとした佐藤筑前守は、
三十艘の船を「一船」にして渡河する予定でした。
この「一船」を“一線”と読むか、“一勢に”と捉えるか悩ましいところですが、
敵の妨害にあい、謙信に「一世中之不足おかき候事」と言わしめています。
この敵の妨害にあったとき、利根川に水没する者がいたとしても不自然ではありません。
命を落とす者もいたでしょう。
羽生城救援に向けた動きは、
例え干戈を交えずとも、犠牲になった者が皆無ではなかったと思われます。
利根川を舞台に戦国大名や国衆たちが火花を散らしてきたわけですが、
高校生最後の夏に眺めた利根川に、そのような視点は持ち合わせていませんでした。
羽生城の存在を知ってもその歴史はわからず、
利根川を舞台に謙信の救援失敗があったことなど、見たことも聞いたこともなかったのです。
図書館で勉強した古典の余韻にひたり、土手の上で「いとあはれなり」と口にするくらいです。
もし、郷土の歴史を知っていたら、選ぶ進路も変わっていたかもしれません。
あれから短くはない時間が流れ、色々なものが変わっていきました。
一緒に利根川へ行った同級生と顔を合わせることもなくなっています。
あの頃、図書館へ行けば勉強している同級生の1人や2人がいたものですが、
いまはそれぞれの日常を過ごしているということでしょう。
むろん、上杉謙信や後北条氏が生きた時代は遠い昔です。
利根川はいまも流れていますが姿を変えています。
流路さえ変わっているのですから。
僕はいま41歳の日常を過ごし、あの頃知らなかった人たちがそばにいます。
変わらないのは、利根川帰りに食べたそばの味でしょうか。
太くてコシの強いそば。
時代の流れはどんどん早くなっていますが、自分が親しんだ変わらぬ味があるというのはいいものですね。
そして、夏の利根川帰りにそばを食べたくなる自分自身も、
根本的には変わっていないということなのでしょう。
利根川へ行くのがお決まりのコースでした。
高校生最後の夏。
1日中館内に籠っていただけに、高い土手に登って吹き抜ける風に当たりながら眺める利根川は、とても開放的に感じたのを覚えています。
そして、その帰りに羽生市役所近くのそば屋へ寄り道。
利根川で過ごしたせいもあるかもしれません。
その店で食べるそばは絶品で、注文するのはいつも大盛でした。
“ざるそば”と“もりそば”の違いがノリの有無と知ったのもその店です。
勉強して、川で遊んで、グルメで締める。
時間に追われる日々でしたが、出来事の一つ一つが熱を帯びていた夏だったように思います。
家に着くのはおおよそ19時15分で、
再び机に向かって広げる『菅野日本史B講義の実況中継』や『日本史B用語集』はとても刺激的でした。
ずっと読み続けたい本でしたし、参考書をそんな風に思えるのはほかになかったかもしれません。
いまも「読書」として読み返すことのできる参考書です。
ところで、いまから約5百年前の戦国時代においても利根川は流れており、
交通や軍事として重要な存在でした。
当時は軍事的理由から恒常的な橋は架けられていません。
したがって、川を渡るには舟橋を架けたり、浅瀬を歩いたりしなければならず、
大軍であるほど川の状態によって行動が規制されたのです。
洪水が起これば、むろん動けません。
武田信玄も北条氏康もそのために進軍を見合わせることがありました。
「利根川無渡候上者、後詰之擬別ニ無了簡候」と、武田信玄が佐野昌綱に伝え(「渡辺(茂)家文書」)、
「氏康者号大神所迄出陣、洪水故于今進陣無之候」と、小田氏治が白川義親に状況を報告したように(「東京大学白川文書」)、
軍事事業に支障をきたし、延期せざるを得なかったのです。
また、春先は融雪によって川が増水し、渡河を困難にさせます。
羽生城救援へ向かった上杉謙信が利根川に阻まれ、大輪(群馬県明和町)で足止めを余儀なくされたことがありました。
せめて物資だけでも羽生城(埼玉県羽生市)へ送り込もうとしますが、
これを担当した「佐藤筑前守」が地形を見誤り、失敗に終わったことはよく知られています(「東京大学文学部所蔵謙信公御書集」)。
坂東太郎の異名を持つ利根川です。
関東を舞台に合戦を繰り広げた上杉謙信、北条氏康・氏政父子、武田信玄は少なからず利根川の影響を受けています。
そんな利根川を背にして敵城に攻め込んだ深谷城勢が、敗北した上に溺死するということがありました。
背水の陣ゆえの結果です。
深谷上杉勢は利根川を越えて小泉城(群馬県大泉町)へ出撃。
ところが、城方の抵抗を受けて数多討ち取られます。
無理な力攻めは得策でないと判断したのでしょう。
深谷城主上杉憲盛は撤退を下知します。
すると、反撃するかのごとく小泉城では追撃の兵が出撃します。
深谷城へ戻るには利根川を渡らなければなりません。
進めば坂東太郎、引き返せば小泉城勢。
そんな状況が展開されました。
そして、退路を断たれた深谷城勢の多くは川に飛び込んだのでしょう。
無事に渡河する者もいれば、溺死する者も多くいました。
この合戦の知らせを受けた謙信は、小泉城主富岡氏に宛てて次のような書状を送っています(「冨岡家文書」)。
従深谷至于其地、被成懸動之処、引付突而出、凶徒数百討捕、残党利根河へ逐入之由、其聞候、心地好候、乍不初儀、戦功無比類候、弥相挊簡要候、猶河田豊前守可申遣候、謹言
卯月十日 輝虎(花押)
冨岡主税助殿
深谷上杉勢を数百人討ち取ったあと、その残党は利根川へ入水したことを聞き「心地よし」と喜びを表す謙信。
初めてのことではないにせよその戦功は比類がないと誉め、いよいよ尽力せよと結んでいます。
このように、戦国時代において利根川で命を落とす者は少なくなかったと思われます。
先述した上水謙信の羽生城救援の際、物資を送り込もうとした佐藤筑前守は、
三十艘の船を「一船」にして渡河する予定でした。
この「一船」を“一線”と読むか、“一勢に”と捉えるか悩ましいところですが、
敵の妨害にあい、謙信に「一世中之不足おかき候事」と言わしめています。
この敵の妨害にあったとき、利根川に水没する者がいたとしても不自然ではありません。
命を落とす者もいたでしょう。
羽生城救援に向けた動きは、
例え干戈を交えずとも、犠牲になった者が皆無ではなかったと思われます。
利根川を舞台に戦国大名や国衆たちが火花を散らしてきたわけですが、
高校生最後の夏に眺めた利根川に、そのような視点は持ち合わせていませんでした。
羽生城の存在を知ってもその歴史はわからず、
利根川を舞台に謙信の救援失敗があったことなど、見たことも聞いたこともなかったのです。
図書館で勉強した古典の余韻にひたり、土手の上で「いとあはれなり」と口にするくらいです。
もし、郷土の歴史を知っていたら、選ぶ進路も変わっていたかもしれません。
あれから短くはない時間が流れ、色々なものが変わっていきました。
一緒に利根川へ行った同級生と顔を合わせることもなくなっています。
あの頃、図書館へ行けば勉強している同級生の1人や2人がいたものですが、
いまはそれぞれの日常を過ごしているということでしょう。
むろん、上杉謙信や後北条氏が生きた時代は遠い昔です。
利根川はいまも流れていますが姿を変えています。
流路さえ変わっているのですから。
僕はいま41歳の日常を過ごし、あの頃知らなかった人たちがそばにいます。
変わらないのは、利根川帰りに食べたそばの味でしょうか。
太くてコシの強いそば。
時代の流れはどんどん早くなっていますが、自分が親しんだ変わらぬ味があるというのはいいものですね。
そして、夏の利根川帰りにそばを食べたくなる自分自身も、
根本的には変わっていないということなのでしょう。
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