クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

羽生の“藍染め”の歴史は? ―子ども昔語り(21)―

2007年08月14日 | 子どもの部屋
羽生領の総鎮守“小松神社”のほど近い場所に、
「武州中島紺屋資料館」があります(埼玉県羽生市小松)。
ここは約150年続く紺屋(こうや)の中島家です。

“紺屋”とは染物屋です。
北埼玉では江戸時代の天明年間(1781~1789)頃に藍染めが始まり、
騎西・加須・羽生でやがて“市”が開かれると、どんどん盛んになっていきました。
(市は騎西→加須→羽生の順番で栄えました)
明治時代、羽生だけでも100軒以上の紺屋があったそうです。
それ以降は時代と共にだんだん姿を消していきましたが、
中島家は武州藍染技術保持者として、埼玉県の無形文化財に認定されています。

北埼玉は“藍”や“綿”の栽培に適した土地です。
綿からつむいだ糸を紺屋で染めてもらい、
農家の主婦は時間の合間に“足袋(たび)”や“ハンテン”などを織っていました。
こうした藍染めの綿織物を“青縞(あおじま)”と言います。
これは最初、家族のため織っていましたが、
やがて市が開かれると主婦たちは青縞を売りに出掛けました。
羽生では「4」と「9」のつく日に市が立ち、大いに賑わったようです。

羽生を舞台にした小説『田舎教師』(田山花袋作、明治42年刊行)の書き出しには、
「四里の道は長かった。その間に青縞の市の立つ羽生の町があった」とあり、四章にも、

 青縞を織る音が処々に聞える。
 チャンカラチャンカラと忙しそうな調子が絶えず響いて来る。
 時には四辺にそれらしい人家も見えないのに、
 何処で織ってるのだろうと思わせることもある。

と書かれています。
明治5年の羽生町の青縞の出荷量は、騎西と加須を抜いて40830反でしたから、
至るところで「チャンカラチャンカラ」と織る音が聞こえたのでしょう。

藍染めは温もりのある独特の色を出します。
虫は藍が嫌いなので、藍で染めたものには虫がつきません。
いまでも藍染業者は羽生市内に数軒あり、
伝統は脈々と受け継がれています。
そのひとつが小松の中島家であり、
藍染の資料館を開設して伝統を伝えています。

参考サイト
「武州中島紺屋」
http://www.izome.jp/about/

「小島染織工業株式会社」(羽生市神戸に所在)
http://www.kojimasenshoku.com/index_2.html

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