会の川の南側に“千方神社(ちかたじんじゃ)”という神社が鎮座しています。
実はこの神社は1社だけではありません。
加須、礼羽、羽生、(阿良川)に鎮座しており、
阿良川以外は村の鎮守として祀られてきました。
羽生市堤の千方神社は利根川の土手の麓にあって少々わかりづらいのですが、
加須、礼羽は東武線の線路沿いに鎮座しているので、
わりと簡単に見付けることができます。
(加須の当社は加須中央図書館の目の前です)
ちなみに、阿良川の千方神社は明治時代に天神社に合祀(ごうし)されており、
単独で社地を有しているわけではありません。
実はこの千方神社は、“平将門”を討ったことで知られる“藤原秀郷”(ふじわらひでさと)と関係しています。
『新編武蔵風土記稿』という江戸時代に書かれた書物には、
次のように記されています。
礼羽村(現加須市礼羽)
「彼社伝に俵藤太秀郷の六男、修理大夫千方を祀れりと」
堤村(現羽生市堤)
「相伝ふ俵藤太秀郷の男を祀る所なりといへり、
按に秀郷が六男修理大夫を千方と云、此人を祀りしなるべし」
平将門が反乱を起こしたのは939年。
将門は関東を次々に占領して「新皇」と称しましたが、
藤原秀郷や平貞盛たちによって滅ぼされました。
この功績によって、秀郷は下野(栃木県)と
武蔵(埼玉・東京)の国司に任じられるのです。
このとき加須や羽生方面に配置されたのが、
秀郷の子“修理大夫(しゅりたゆう)”だったと言われています。
(羽生は秀郷の2男の“千春”が治めたと亀田鵬斎の書にあり)
この者は“千方”と呼ばれ仁政をしいたため、領民たちは修理大夫を祀り、
千方神社を創建したということでしょうか。
確たる証拠がないため、「言い伝え」の域を出ません。
しかし、現在羽生城跡に鎮座する“天神社”も、
藤原秀郷が国司となったおりに創建されたと伝えられています。
栃木県の“唐沢山神社”には藤原秀郷が祀られており、
羽生市上村君の“避来矢神社”も秀郷が祭神です。
この藤原秀郷以来、「秀郷流」と呼ばれる武士たちが活躍し始めます。
千方神社と武士の関係も見逃せない点です。
神社の創建の信憑性が定かでなくとも、
北埼玉の人たちの信仰を垣間見ることができるでしょう。
※画像は上から羽生、礼羽、加須に鎮座する千方神社です。
実はこの神社は1社だけではありません。
加須、礼羽、羽生、(阿良川)に鎮座しており、
阿良川以外は村の鎮守として祀られてきました。
羽生市堤の千方神社は利根川の土手の麓にあって少々わかりづらいのですが、
加須、礼羽は東武線の線路沿いに鎮座しているので、
わりと簡単に見付けることができます。
(加須の当社は加須中央図書館の目の前です)
ちなみに、阿良川の千方神社は明治時代に天神社に合祀(ごうし)されており、
単独で社地を有しているわけではありません。
実はこの千方神社は、“平将門”を討ったことで知られる“藤原秀郷”(ふじわらひでさと)と関係しています。
『新編武蔵風土記稿』という江戸時代に書かれた書物には、
次のように記されています。
礼羽村(現加須市礼羽)
「彼社伝に俵藤太秀郷の六男、修理大夫千方を祀れりと」
堤村(現羽生市堤)
「相伝ふ俵藤太秀郷の男を祀る所なりといへり、
按に秀郷が六男修理大夫を千方と云、此人を祀りしなるべし」
平将門が反乱を起こしたのは939年。
将門は関東を次々に占領して「新皇」と称しましたが、
藤原秀郷や平貞盛たちによって滅ぼされました。
この功績によって、秀郷は下野(栃木県)と
武蔵(埼玉・東京)の国司に任じられるのです。
このとき加須や羽生方面に配置されたのが、
秀郷の子“修理大夫(しゅりたゆう)”だったと言われています。
(羽生は秀郷の2男の“千春”が治めたと亀田鵬斎の書にあり)
この者は“千方”と呼ばれ仁政をしいたため、領民たちは修理大夫を祀り、
千方神社を創建したということでしょうか。
確たる証拠がないため、「言い伝え」の域を出ません。
しかし、現在羽生城跡に鎮座する“天神社”も、
藤原秀郷が国司となったおりに創建されたと伝えられています。
栃木県の“唐沢山神社”には藤原秀郷が祀られており、
羽生市上村君の“避来矢神社”も秀郷が祭神です。
この藤原秀郷以来、「秀郷流」と呼ばれる武士たちが活躍し始めます。
千方神社と武士の関係も見逃せない点です。
神社の創建の信憑性が定かでなくとも、
北埼玉の人たちの信仰を垣間見ることができるでしょう。
※画像は上から羽生、礼羽、加須に鎮座する千方神社です。
ただ、浅学者なので的確なご指摘はできないと思いますが・・・
作品を読まさせていただきますね。