合戦で父を亡くした幼女がいた。
その名を“福”という。
永禄10年(1567)における三船山合戦で、北条方に属した“賀藤源左衛門尉”という者が討死する。
その娘が福だった。
里見義弘率いる軍勢に敗北したとはいえ、
北条氏政は源左衛門の「忠節」を賞賛する。
同時に、父を失った福を不憫に思ったのだろうか。
あるいは政治的な力が働いたのかもしれない。
源左衛門の甥である“賀藤源二郎(源次郎)”に対し、
賀藤家を断絶させないよう取り計らうのである。
(前略)然間一跡福可相続、然共只今為幼少間、福成人之上相当之者、妻一跡可相続候、
其間者源次郎可有手代者也(後略)
すなわち、源左衛門の跡目に福を継がせようにも、あまりにも幼い。
そのため、福が成人して婿をとったときに相続させることとする。
それまでは、賀藤家は源二郎に任せるというものだった。
かくして、氏政は永禄10年9月10日付で、源二郎に対して判物を発給したのだった(「武州文書」)。
この賀藤家は、のちに旧騎西町(現埼玉県加須市)に移ったとみられる。
当家家譜によると、父源左衛門を失ったときの福は、わずか3歳だったらしい。
一方、氏政から賀藤家の後見を一任された源二郎は、当時15、6歳であった。
三船山合戦は、岩付城主“太田氏資”が討死した戦いでもあった。
源左衛門は氏資の軍勢に加わり、身命をなげうって戦ったと家譜は伝える。
この合戦後、岩付城には“太田氏房”が新たに就くこととなった。
賀藤源二郎は、改めてこの氏房に仕えることとなり、岩付に居住したようである。
ところが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで岩付城は陥落。
源二郎は生き延びたものの、民間に身を潜め、浦和町付近に流れ着いた。
同年、徳川家康が関東に入府し、世間が落ち着きを見せ始めた頃だろう。
源二郎は騎西領へ移ったという。
家譜によれば、賀藤家の名跡は結局源二郎が継いだとする。
福は成人ののち、婿をとったわけではなく、どこへ嫁いだのかも不明と記されている。
ただ、家譜という性格上、その記述の全てを鵜呑みにすることはできない。
例えば、『新編武蔵風土記稿』では源二郎は福を伴って騎西領へ移り、
のちに福が賀藤家を相続したとしている。
戦国時代、戦場で父を失うことは珍しくなかったと思われる。
幼いとはいえ、福は父の訃報に接し胸を痛めたのではないだろうか。
討死した源左衛門にしても、幼子を残してこの世を去るのは無念だったに違いない。
敵の凶刃に倒れたとき、最後に脳裏に浮かんだのは幼い福の顔だっただろうか。
ちなみに、源二郎の妻は雲祥寺七代住持の姪と家譜は記す。
この妻こそが、福本人だったのかもしれない。
つまり、いとこ同士での結婚である。
その可能性が考えられるものの、決定打はない。
もしそうであれば、北条氏政は未來が見ていたのだろう。
だからこそ、先の判物を発給したのかもしれない。
父と娘。
戦国期に限らす、どの時代にも父と娘は存在する。
むろん、現在もいる。
北条氏政の判物は、「戦場で散った父」及び「戦場で父を亡くした娘」、
そして「為政者による戦後処理」を浮かび上がらせている。
いまから約500年前に生きた人々である。
が、幼くして父を失った福が、
その後幸せな生涯を送ったと願わずにはいられない。
その名を“福”という。
永禄10年(1567)における三船山合戦で、北条方に属した“賀藤源左衛門尉”という者が討死する。
その娘が福だった。
里見義弘率いる軍勢に敗北したとはいえ、
北条氏政は源左衛門の「忠節」を賞賛する。
同時に、父を失った福を不憫に思ったのだろうか。
あるいは政治的な力が働いたのかもしれない。
源左衛門の甥である“賀藤源二郎(源次郎)”に対し、
賀藤家を断絶させないよう取り計らうのである。
(前略)然間一跡福可相続、然共只今為幼少間、福成人之上相当之者、妻一跡可相続候、
其間者源次郎可有手代者也(後略)
すなわち、源左衛門の跡目に福を継がせようにも、あまりにも幼い。
そのため、福が成人して婿をとったときに相続させることとする。
それまでは、賀藤家は源二郎に任せるというものだった。
かくして、氏政は永禄10年9月10日付で、源二郎に対して判物を発給したのだった(「武州文書」)。
この賀藤家は、のちに旧騎西町(現埼玉県加須市)に移ったとみられる。
当家家譜によると、父源左衛門を失ったときの福は、わずか3歳だったらしい。
一方、氏政から賀藤家の後見を一任された源二郎は、当時15、6歳であった。
三船山合戦は、岩付城主“太田氏資”が討死した戦いでもあった。
源左衛門は氏資の軍勢に加わり、身命をなげうって戦ったと家譜は伝える。
この合戦後、岩付城には“太田氏房”が新たに就くこととなった。
賀藤源二郎は、改めてこの氏房に仕えることとなり、岩付に居住したようである。
ところが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで岩付城は陥落。
源二郎は生き延びたものの、民間に身を潜め、浦和町付近に流れ着いた。
同年、徳川家康が関東に入府し、世間が落ち着きを見せ始めた頃だろう。
源二郎は騎西領へ移ったという。
家譜によれば、賀藤家の名跡は結局源二郎が継いだとする。
福は成人ののち、婿をとったわけではなく、どこへ嫁いだのかも不明と記されている。
ただ、家譜という性格上、その記述の全てを鵜呑みにすることはできない。
例えば、『新編武蔵風土記稿』では源二郎は福を伴って騎西領へ移り、
のちに福が賀藤家を相続したとしている。
戦国時代、戦場で父を失うことは珍しくなかったと思われる。
幼いとはいえ、福は父の訃報に接し胸を痛めたのではないだろうか。
討死した源左衛門にしても、幼子を残してこの世を去るのは無念だったに違いない。
敵の凶刃に倒れたとき、最後に脳裏に浮かんだのは幼い福の顔だっただろうか。
ちなみに、源二郎の妻は雲祥寺七代住持の姪と家譜は記す。
この妻こそが、福本人だったのかもしれない。
つまり、いとこ同士での結婚である。
その可能性が考えられるものの、決定打はない。
もしそうであれば、北条氏政は未來が見ていたのだろう。
だからこそ、先の判物を発給したのかもしれない。
父と娘。
戦国期に限らす、どの時代にも父と娘は存在する。
むろん、現在もいる。
北条氏政の判物は、「戦場で散った父」及び「戦場で父を亡くした娘」、
そして「為政者による戦後処理」を浮かび上がらせている。
いまから約500年前に生きた人々である。
が、幼くして父を失った福が、
その後幸せな生涯を送ったと願わずにはいられない。
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