クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

逆井城に入った‟北条氏繁”が呼んだのは?

2021年02月11日 | 城・館の部屋
歴史好きの息子を持つ先輩から、
北埼玉の近くでおすすめの城はどこかと訊かれたとき、「逆井城」と答えたことがあります。
すると、先輩は息子を連れて逆井城を探訪。
後日、「とってもよかったよ」と感想を述べてくれましたが、
当時小学生高学年の息子さんの心の琴線に触れたかどうか、少し不安になりました。

とはいえ、逆井城址は平城の史跡公園としては理想の形に近いと思います。
茨城県坂東市にある逆井城。
別名飯沼城とも呼びます。
文献に登場するのは後者で、飯沼城=逆井城とするのは疑問を持たれていましたが、
数度にわたる発掘調査によって同一視されるようになりました。

土塁や堀が現存するほか、二階櫓や井楼矢倉、土塀や木橋などが復元されており、
遺構の迫力はもとより、ビジュアル的にも楽しめる史跡公園です。
かつて関宿城にあった城門が移設されており、その奥には大台城の主殿が復元。
一部の建設物は逆井城に存在したものではありませんが、
綿密に時代考証がなされており、日本の中世を感じるのに不足はないでしょう。

戦国時代後期、かつて羽生城(埼玉県羽生市)を攻めたことのある北条氏繁は、
後北条氏の北関東進出のため逆井城(飯沼城)へ入城しました。
氏繁が築城したのではなりません。
元々城があり、そこへ入ったのです。

しかし、逆井城はいわば前線基地のようなものです。
後北条氏に敵対する佐竹氏や太田氏も健在であり、
眼前には反北条の下妻城主多賀谷氏もいます。
そのため城の改修工事が必要だったのでしょう。
その一端として、氏繁は藤沢の大鋸引(おがびき)頭の森木工助(もりもくのすけ)に対し、
大鋸引2組を要請しています(「森文書」)。

 当城取立候処ニ、是非不申越候、一段無曲候、仍新地与云、無際限用所候、此時ニ候之間、大鋸二絃、一刻も早々可借候、爰元於本意者、当口之大鋸、其方ニ可申付候条、惣別一廉可走廻事、尤ニ候、仍如件
   十月廿二日        氏繁(花押)
     森木工助とのへ
 
この判物は天正5年(1577)に比定されています。
森氏は工匠の棟梁で、かつては北条氏康からの要請を受けて仕事をしたこともありました。
逆井城に入ったばかりの氏繁は多くの任務を抱えており、
一刻も早く大鋸引2組を借りたい旨が伝えられています。

当時、城の北側では広大な飯沼が横たわっていました。
現在とは全く別の光景が広がっていたはずです。
氏繁は城に立ち、何を想ったでしょう。

氏繁は城の縄張りを拡大させ、堀や土塁を新たに設け、整備したと考えられています。
かつて公園の外側にも空堀があったそうです。
それが事実なら、城の縄張りはもっと広かったことになります。
北関東進出の拠点として、着々と整備したことが想像されます。

そんな氏繁は同地で死去。
城の整備を終えたばかりの死没と見られています。
北条氏康や氏政に比べると知名度はいささか薄いかもしれませんが、
後北条氏の勢力伸長に一役買った人物でした。

現在の逆井城址は、茨城県指定史跡となっています。
先述のとおり、城址は史跡公園として整備されており、
復元された建造物も少なくありません。
無料で入園できることに気が引けるくらいです。
春に訪れたことはありませんが、
園内には桜の木が多いので、季節が訪れれば満開の花で彩られるのでしょう。

城の遺構も現存し、復元された建造物のある逆井城址。
子どもでも、歴史が好きなら心に訴えるものがあるかもしれません。
先輩に勧めたのは、遺構のほかにわかりやすい建造物があるからで、
また地域学習として充実した場所というのもあります。

あれから何年も経ちました。
先輩の息子ももう成人に近い年齢になっていると思います。
さすがにもう父親と城址を訪ねることはないのかもしれません。
でも、子どもの時分に父親と一緒に城址へ行くなんて素敵なことですね。
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