永禄6年に上杉謙信が騎西城を攻めたとき、
城を守っていたのは“小田助三郎”(朝興)という者です。
忍城主成田長泰の弟で、
小田姓を名乗っているのは騎西城主小田家の婿に入ったからです。
政略結婚だったのでしょう。
騎西城主小田顕家の娘と結婚すると、
助三郎は小田家の家督を継ぎ、同城を守っていました。
広田直繁・木戸忠朝のように、
2人は兄弟で領地経営を行っていたのです。
ただ、小田助三郎の場合は「騎西領」を統治する存在です。
現代の言葉で言えば、2人も地方公共団体の長ということになります。
木戸忠朝は当時皿尾城主でしたが、
そこは役所というより軍事施設。
いわば砦です。
首長というよりは、出先機関へ出向した部長のようなものだったと思われます。
一方、成田長泰と小田助三郎兄弟は、
いわば「忍市」と「騎西市」というそれぞれの自治体の長だったのでしょう。
地方自治法の第147条で言うところの「当該普通地方公共団体を統轄し、これを代表する」存在として、
ここでは位置付けたいと思います。
忍城と騎西城は「組合」のようなものでしょうか。
地方自治法の第284条では、
「地方公共団体の組合は、一部事務組合及び広域連合とする」と定められています。
前者は、一部の事務を共同処理するために設けられるもの。
後者は、広域にわたって事務を処理することが適当であると認められたものになります。
忍領と騎西領が、どのような行政事務を行っていたのか定かではないので、
組合のようなものだとしても、その具体的なところを探るのは困難です。
視野を狭めて領を「県」、村を「市」とすれば、
忍県、騎西県の各村が「広域」として共通して行う行政事務もあったでしょうか。
年貢の徴収、徴兵、作事などはおそらく共通性の高い事務で、
領主の指示のもと、職員は連絡をし合って処理していたかもしれません。
とはいえ、地域同士で争いを繰り広げていた戦国時代。
どこまで協働が可能だったかは疑問です。
昭和22年施行の地方自治法を戦国時代に当てはめるのは無理がありますが、
「現代」を考える上での一つの参考です。
ところで、忍城主成田氏は、政略結婚によって騎西領を包摂したきらいがあります。
元々、小田氏は関宿城主簗田氏に属していました。
ところが、成田氏に属してしまったため、
元のように戻るよう古河公方足利義氏は北条氏康と成田長泰に意見を述べています(「簗田系図」)。
したがって、小田助三郎が成田氏に従属しているような関係だったと思われます。
その後、忍城と騎西城は終始争うことはありませんでした。
代が変わって、成田氏長・小田泰親(泰喬)兄弟の時代になっても、
両者は火花を散らすことなく領地経営を行っています。
忍城が石田三成に攻められたときも、援軍として城内に入っています。
さて、永禄6年の上杉謙信の騎西城攻めですが、
成田氏は援軍を出すことはできなかったようです。
というのも、北条氏康も兵が不足をしており、
援軍に向かうことができなかったからです(「結城文書」)
忍勢だけで上杉勢に向かったところで犠牲が増大するだけ。
桶狭間の戦いのようにはいきません。
兄の成田長泰はどんな想いで上杉勢の騎西進攻を許したでしょう。
外曲輪、二の丸が落ち、本丸を残すところとなったとき、
小田助三郎は降伏。
成田長泰も再び上杉勢に属すことになります。
謙信は「然間下総守可覆先忠由侘言候」と、蘆名盛氏に書き送っています。
つまり、騎西城の陥落と同時に下総守(成田長泰)は上杉方に属したのです。
実は、長泰は弟の想いの男だったとしたらどうでしょう。
騎西城が落ちたため後北条氏から離れたのではなく、
上杉氏への従属の代わりに、
弟助三郎の助命を願ったのかもしれません。
城を守っていたのは“小田助三郎”(朝興)という者です。
忍城主成田長泰の弟で、
小田姓を名乗っているのは騎西城主小田家の婿に入ったからです。
政略結婚だったのでしょう。
騎西城主小田顕家の娘と結婚すると、
助三郎は小田家の家督を継ぎ、同城を守っていました。
広田直繁・木戸忠朝のように、
2人は兄弟で領地経営を行っていたのです。
ただ、小田助三郎の場合は「騎西領」を統治する存在です。
現代の言葉で言えば、2人も地方公共団体の長ということになります。
木戸忠朝は当時皿尾城主でしたが、
そこは役所というより軍事施設。
いわば砦です。
首長というよりは、出先機関へ出向した部長のようなものだったと思われます。
一方、成田長泰と小田助三郎兄弟は、
いわば「忍市」と「騎西市」というそれぞれの自治体の長だったのでしょう。
地方自治法の第147条で言うところの「当該普通地方公共団体を統轄し、これを代表する」存在として、
ここでは位置付けたいと思います。
忍城と騎西城は「組合」のようなものでしょうか。
地方自治法の第284条では、
「地方公共団体の組合は、一部事務組合及び広域連合とする」と定められています。
前者は、一部の事務を共同処理するために設けられるもの。
後者は、広域にわたって事務を処理することが適当であると認められたものになります。
忍領と騎西領が、どのような行政事務を行っていたのか定かではないので、
組合のようなものだとしても、その具体的なところを探るのは困難です。
視野を狭めて領を「県」、村を「市」とすれば、
忍県、騎西県の各村が「広域」として共通して行う行政事務もあったでしょうか。
年貢の徴収、徴兵、作事などはおそらく共通性の高い事務で、
領主の指示のもと、職員は連絡をし合って処理していたかもしれません。
とはいえ、地域同士で争いを繰り広げていた戦国時代。
どこまで協働が可能だったかは疑問です。
昭和22年施行の地方自治法を戦国時代に当てはめるのは無理がありますが、
「現代」を考える上での一つの参考です。
ところで、忍城主成田氏は、政略結婚によって騎西領を包摂したきらいがあります。
元々、小田氏は関宿城主簗田氏に属していました。
ところが、成田氏に属してしまったため、
元のように戻るよう古河公方足利義氏は北条氏康と成田長泰に意見を述べています(「簗田系図」)。
したがって、小田助三郎が成田氏に従属しているような関係だったと思われます。
その後、忍城と騎西城は終始争うことはありませんでした。
代が変わって、成田氏長・小田泰親(泰喬)兄弟の時代になっても、
両者は火花を散らすことなく領地経営を行っています。
忍城が石田三成に攻められたときも、援軍として城内に入っています。
さて、永禄6年の上杉謙信の騎西城攻めですが、
成田氏は援軍を出すことはできなかったようです。
というのも、北条氏康も兵が不足をしており、
援軍に向かうことができなかったからです(「結城文書」)
忍勢だけで上杉勢に向かったところで犠牲が増大するだけ。
桶狭間の戦いのようにはいきません。
兄の成田長泰はどんな想いで上杉勢の騎西進攻を許したでしょう。
外曲輪、二の丸が落ち、本丸を残すところとなったとき、
小田助三郎は降伏。
成田長泰も再び上杉勢に属すことになります。
謙信は「然間下総守可覆先忠由侘言候」と、蘆名盛氏に書き送っています。
つまり、騎西城の陥落と同時に下総守(成田長泰)は上杉方に属したのです。
実は、長泰は弟の想いの男だったとしたらどうでしょう。
騎西城が落ちたため後北条氏から離れたのではなく、
上杉氏への従属の代わりに、
弟助三郎の助命を願ったのかもしれません。
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