クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

武田信玄に攻められた“倉賀野城”はなぜ落城した? ―上州争乱(21)―

2013年08月22日 | 戦国時代の部屋
倉賀野城主“倉賀野直行”は上杉方の武将だった。
北条氏康の進攻によって、
平井城を退去せざるを得なかった上杉憲政に供し、
越後の上杉謙信に失地回復を頼った。

永禄4年の謙信の小田原城攻めには参陣し、
「関東幕注文」の「箕輪衆」の中に、
「倉賀野左衛門尉五郎 団之内ニ松竹」と記されている。

謙信の関東出陣によって、直行は倉賀野城を回復したのだろう。
政治的自立権を喪失したその記憶は、謙信への忠信を強め、
反北条の態度を確固としたのだろうか。
北条氏康と同盟を組む武田信玄の進攻を受けても、
謙信から離反することはなかった。

しかし、すでに和田城が陥落しており、
旗色は決してよくはなかった。
“橋爪若狭守”の活躍があったものの、
上杉謙信の宿敵である武田信玄の軍勢である。
倉賀野城が堅固な構えとはいえ、
抵抗し続けるのは難しかった。

そして、永禄7年5月についに落城。
武田信玄の西上州進攻がさらに前進した瞬間だった。
一方、謙信にとっては大きな痛手である。
この倉賀野城の落城について、里見義弘に愚痴めいたことを洩らしている。

 西上州倉賀野左衛門五郎若輩故、以油断地利被奪凶徒候
 (反町英作氏所蔵文書)

すなわち、倉賀野直行は若輩ものゆえ、
油断して敵に城を奪われたのだろうと謙信はぼやいている。
直行自身は命を落とすことはなかったが、
城から退去せざるを得なかった。
永禄5年の和田城落城に続き、今度は倉賀野城の陥落である。
上州を舞台に、謙信と信玄の戦いが激化していくのだった。

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