クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(52) ―羽生城兵の撤退―

2008年09月20日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
上杉謙信の命によって羽生城は自落した。
敵にみすみす城を奪われる前に、城を破却したのである。

大沼を背景に、堀と曲輪で形成された羽生城は、
石垣も天守閣もない砦のような城であった。
城内にどのような建物が建っていたのかは定かではないが、
破却はそう難しいものではなかっただろう。

羽生城兵は謙信に引き取られることになった。
謙信の書状には「千余人」を引き取ったとあるが、
これは膨張のきらいがある。
羽生を去る者がいれば、残る者もいた。
謙信の命によって派遣されてきた“斎藤盛秋”も、
羽生に残りのちに帰農している。

城を去った者が新たに配置されたのは、
上州の膳城と山上城である。
羽生城を破却した謙信は厩橋城へ戻っていることから、
城兵たちも共にしていたのかもしれない。
『小田原編年録』によると、羽生城兵の撤退のときに、
飯野城兵と一戦交えたらしい。

飯野城は、川向こうの群馬県板倉町飯野に所在している。
対岸には羽生支城の“堀の内城”がある。
『渋井氏家譜』によると、堀の内城主は“栢場源五郎吉家”であり、
その甥である“渋井越前吉元”が家老を務めていたという。
この渋井越前は、
「羽生之衆」(関東幕注文)に名を連ねる「渋江平六郎」と比定される。

おそらく羽生城兵は堀の内城へ赴き、
その裏を流れる利根川を使って羽生を撤退したのではないだろうか。
このとき、対岸の飯野城兵と干戈を交えた。
大きな合戦ではなく、小競り合い程度だったと思われる。
このとき敵をひとり討ち取ったとして、
謙信から陣羽織を褒美として貰った者もいる。

撤退する羽生城兵の中には、“菅原為繁”と“木戸元斎”がいた。
おそらく再び羽生に戻ってくることを誓って、
城をあとにしたであろう。
しかし、2人が羽生城を取り戻すことは2度となかった。
(続く)


堀の内(埼玉県羽生市名)
『武蔵志』に「古城堀の内」とあるが、現在その遺構はない。

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