クニの部屋 -北武蔵の風土記-

郷土作家の歴史ハックツ部屋。

“羽生城”へ行きませんか?(44) ―上杉謙信の救援―

2008年09月09日 | 羽生城をめぐる戦乱の縮図
後北条氏の関宿・羽生攻略は大詰めを迎えていた。
“北条氏照”は関宿・水海両城、
“北条氏繁”と“成田氏長”は羽生城攻略の任に就く。

そこで、上杉謙信はいよいよ関東出陣の気配を見せる。
天正2年3月、上野国へ出陣し、善・山上・女淵を落としたと、
羽生城将らに書状を送っている(「西沢徳太郎氏所蔵文書」)

木戸忠朝らはしきりに出陣要請をしていたらしい。
彼らの願いを聞き入れるべく、謙信は武蔵へ打って出る構えを見せた。
ちなみに、ちょうどこの頃、3度目上洛を果たそうとする謙信を警戒して、
“織田信長”が「洛中洛外図屏風」を贈っている。

謙信の関東出陣に、羽生城将らは士気が上がったのだろう。
この機に乗じて、改めて味方の結束を図ろうとした。
幡羅郡の日向城(旧妻沼町)を拠点とし、
羽生城に属す“嶋田助十郎”という者に、
忠朝が「忠」の一字を与えたのはこの頃であった(「嶋田家文書」)。
同年4月には、「山城守」の官途を与えている(「同文書」)


日向城内と推定される長井神社(埼玉県旧妻沼町)


同上


嶋田氏の墓所

謙信は金山城を攻めるにあたって、木戸重朝を留守役にして、
木戸忠朝らに参陣を求めた(「中山小太郎氏所蔵文書」)。
しかし、城が手薄になることで、
北条氏繁や成田氏長の動きを警戒したのだろう。
結局、羽生勢の出陣は延期された(「秋元興朝氏所蔵文書」)

そして、一両日の内に羽生へ向かうので安心してほしいと書き送る(「林文書」)
北条軍の動きを報告することと、
舟を集めておいて欲しいと羽生城将らに伝えた。

謙信の到着は近い――
羽生城将らは、期待と安堵に胸をいっぱいにしたであろう。
ところが、羽生城はすでに運に見放されていた。
駆けつけた謙信の前に立ちはだかったもの。
それは、雪解け水で増水した利根川であった。
(続く)

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3 コメント

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物の見方も変われば (儀一)
2008-09-09 14:14:22
上杉方に属した羽生城兵たちは、関東に置いて孤島に取り残されたような気分になっていたでしょうね。
気分はまさに画像が示しているような圧迫感はあったでしょう。

ところで旧妻沼町にあったと以前お教えいただいた「日向館」ですが、こちらの資料などを調べておりましたが、まったく見つかっておりません。
探し方が悪かったかも知れませんが、もし詳しい資料などをご存知でしたらお教えいただけないでしょうか?


秋の気配が感じられるようになり、夏の疲れが出やすい季節になりました。どうか体調管理にご注意ください。
今後の随筆活動、陰ながら応援しております。
返信する
日向城 (クニ)
2008-09-09 23:45:41
儀一さん

天正2年の羽生城兵が一番大変だったでしょうし、
換言すれば最も躍動感があったときだったかもしれませんね。

日向城ですが、跡地の詳しいことは不明です。
ただ、旧妻沼町日向に鎮座する「長井神社」(八幡社)は、
『新編武蔵風土記稿』によると、嶋田氏と深い関係があるので、
この神社を含めた一帯が日向城であったと考えられます。
嶋田氏の由緒書「祀日向八幡宮千田宗記」にも、
「城内八幡之祠在焉」とあります。

また、「武州幡羅郡長井之庄日向郷鎮守八幡宮御鎮坐伝記」(長井神社文書)には、
「嶋田山城守日向郷堀乃内仁移」とあり、
長井神社のあたりの小字を堀の内と言ったことから、
やはり日向城は長井神社を含めた一帯と推定されます。
ただ、規模は小さかったでしょうね。

本当に秋の気配が日に日に強まってきました。
昼はまだ残暑は厳しくても、夜になると涼しいですね。
儀一さんも体調には気を付けて、館城巡りを充実させて下さい。
こちらこそ影ながら応援しています。
返信する
日向城(追記) (クニ)
2008-09-10 01:15:22
貴サイトの「妻沼町」の館城跡に、
日向館として長井神社の写真が掲載されていますね。

ここを訪れたとき、
近くに川が流れたとおぼしき跡がありました。
川の流れによってできた自然堤防の上に、
神社や嶋田氏の屋敷があったのでしょうね。
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