フランスの分子生物学者フランソワ・ジャコブは、神話、魔術、科学を問わず、あらゆる説明体系は同じ原理を共有していると指摘した。いずれの体系もみな、物理化学者ジャン・ペランの言う「目に見える複雑な物を、目に見えない単純な物で説明」しようとしているというのだ。
全く唐突な話なんだけれども、それは、こんな風にとらえることも出来ないだろうか。
「芸術は、目に見えない複雑な物を、目に見える単純な物で表現しようとしている」とかなんとか。
「目に見える」を「耳に聞こえる」としてもかまわないのだけれどね。
流動的でとらえどころのない頭の中のよもやまを、形式というか形ある物へとフィックスする作業、そんなのを芸術と呼んでも良いんじゃないかとかね。
まぁ、こんな話はきっと昔の人が既に書いてることなんだろうけどねぇ....
学生の頃、たまたま読んだ心理学の本の中の一行が、また何の偶然かその直後に読み出した長編小説のテーマだったりしたときも、同じようなことを考えたっけ。
心理学という科学は、人生のよもやまからたった1行を抽出する。が、小説という芸術は、その1行を生きてみせる。
ま、それはさておき......
高山帯を徘徊しながら、写真を撮ったりその辺にある物でワケワカな悪戯をもくろんだりするとき、まぁそれでも少しは物を考えたりもするのだ。
例えば、「美」って何よ?とかね。
A(^_^;
しばしば美の基準の一つに黄金比なんてのが持ち出されるけれど、何でも黄金比で片がつくなら、美の歴史なんてとっくにマンネリに陥って終わってる。
もっと新しい調和のバランス、あるいはもっとアンバランスな何かに潜む新しい美なんてのをみんな探してるよね。
べつに、新しい何かを探し求めたりしないんなら、黄金比で片がつくとも言えるんだろうけれど。
美しい物を黄金比だけで説明しようとして来た、言ってしまえば一種インチキな美の説明の歴史は、「黄金比はすべてを美しくするか?」なんて本が詳しく紹介してくれていて、何とも胸がすく。
僕がこの本を買った理由は、もちろんタイトルの最後についている「か?」が決め手だった。
なんてこと話したところで、一向に「美」について語ってるわけではないのだけれど。
ってか、そんなことを僕がどう思おうが、皆さん興味ないだろうし。
僕自身、素人の僕が考えたことが、たいした結論にたどり着くはずもないことぐらいわかってるので、こんな本を見つけて読み始めたところだったりして。
それにしても、この手の本ってどういう訳だか偶然見つけるんだよね。
ところでこの「美の歴史」を書いたご当人は、最近「On Ugliness」ってな本を出したそうで、「美しさはしばしば退屈だ。バービー(Barbie)人形のような美しい鼻は高いだけだが、醜い鼻は無限の多様性をもっている」とか「醜さは、美しさよりも興味深いテーマだが、バーブラ・ストライサンド(Barbra Streisand)の特殊な魅力ほど複雑ではない」とか「世界を美醜で分かつことはできない。その間には、例えばわたしがいる」なんてことをのたもうて居るようで、楽しそうなのだ。
「On Ugliness」の日本語訳っていつ出るんかしらん?
......いつもの事ながら、またまた話しが迷走してるんで、戻しましょ。
ちょっとだけ「美の歴史」から抜粋してみようかねぇ。
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「われわれを導くもう一つの基準は、近代に定められた美とアートの密接な関係は、われわれが考えるほど明白なものではないという事実である。ある種の近代の美学理論はアートの美のみを認識し、自然の美を過小評価したが、他の時代には事態は逆であった。美は自然のもの(月光やみごとな果実や美しい色彩など)が有する特質であり、アートの課題はただ単に、事物が「みごとに」なされること、それらの事物が計画通りに目的に役立つようにすることであった
中略
にもかかわらず、美とアートの関係はしばしばあいまいに表現された。なぜなら、自然の美は好まれるけれども、アートは写し取られた自然自体が危険であったり、嫌悪すべきものであっても、自然を美しく写し取ることができると認識されたからであった。
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なるほど、例えばあなたの手元に安全に自然の美を届けるのは、アートの役目なのね。
でもまぁ、自然の美しさは膨大で、すべてをお届けするなんて事ははじめから不可能な話しなので、ごく一部だけかいつまんでってなことになるのよね。
風景のどこをどう切り取るか。
とってもパッシブなやり方だとも言えるのよねぇ.....。
そこに既にある美を摘み取ってくる。
山菜摘みと大して変わらない行為。
A(^_^;
んでね、そんなパッシブなやり方ばっかりやってると、何というか悪さを仕掛けたくなるんだよね。
とは言っても、おっこちてる葉っぱをチョコチョコッと並べるだけのことだけどね。
これをご大層な言い方に変えるなら、ミニマリズムとかってな話しになって、手抜きとは言わないのが大人だったり。>汗
もちろんこれが何かを象徴してるなんて言い出したりはしませんよ。
えぇ、見たまんまです。
意味?
意味なんて必要?
山を徘徊してると、いろんな物に出くわすんだよね。
続けてこんなのを見ちゃうと、何となく色々考えちゃうかも知れないけど、意味はないのよね。
たまたま山の中で見かけた石でしかないわけ。
でも、こんなのが日本庭園の中にはさりげなく据えられてたりして、そう言うのは陰陽石ってやつで、ちゃんと意味があったりする。
こんなのも、野外美術館なんかに据え置かれていたら意味が発生するんだろうけれど、これ、ただの朽ち果てた道標でしかないんだよね。
でも、見ようによってはなかなか素敵なオブジェでしょ?
そうねぇ、ただ山の中で朽ちていく道標を見て、面白いとか美しいとか意味ありげだとかあとでウダウダ言うにしても言わないにしても、シャッターを押した段階で何か別の物として抽出されちゃってるって言われれば、確かにそれもそうだしねぇ。
わざわざ汗水たらして、こんなものを3000m級の尾根筋まで見に行きたいと思う奴も居ないだろうけど、こうやってWeb上でチョコッとクリックしてただで見られるのだったら、クレームの対象にされるほどの価値もない「美?」の提供ぐらいにはなってるのかなと。
これなんかは、計らずしてダダの作品っぽいかななんて、くすくす笑いながらシャッター押したんだけどさ。
これ、道の縁に並べられた石らしいんだけど(登山者の動線を誘導しようとしたのかな?)、並べた人の意図に関係なく皆さん跨いで歩いちゃってるんで、結果としてそこはかとなくシュールなランドアート風オブジェに成り下がっちゃってるんだよね。w
本来の意味が無視されたり風化させられたりなんかして無意味になっちゃったりしても、それなりの価値が与えられちゃうのって、一種エコなのかしらん?
ころんでもダダでは起きないってやつ?>ボカバキッ!!
ってなわけで、こんな風に本来の存在意義が否定されちゃったり風化しちゃうことで、アートっぽい風格を醸しちゃうこともあるわけで。
これを意図的にやると、デュシャンの「泉」になったりするんかしらね?
してみると、写真を撮るという行為ははなはだ暴力的だとも言えるような気がしてくる。
だって、意識的にしろ無意識的にしろシャッターを押すだけで、被写体の外観を本来の有り様や機能からひっぺがえすことができてしまうんだからねぇ。
そして撮った本人の好むと好まざるとによらず、受け手側は別の意味を感じ取ってしまったりするんだから。
.....あぁ、愚考がとまらない。
これだって、一体どのくらい前からここに乗っかってるのかわからない。
ただの石ころなんだけど、何とも謎めいた造形物のような形に見えるよね。
もちろんこれはただの自然石なんだ。
だから、何か意味ありげな形に見えたとしても、それは僕たちの中に備わっている認識の仕方にバイアスがかかっているからに他ならない。
僕たちは、ただそこにある物に対して、常に勝手に意味を与え続ける存在なのかもね。
かと思うとこんな風景もある。
これは前にもちょっと紹介した針の山なんだけど、はたしてそう見えるかどうかは見立てのお約束を聞かされないと今ひとつ伝わってこなかったりする。
確かに一種超自然的な雰囲気は醸されてるんだけど、地獄絵図の感覚を呼び覚ますほどのことでもないような気がするのよね。
意図的に構築したからと言って、それが必ずしも受け手に伝わるとは限らないあたりが、何とも気楽でイイ感じ。
これは、同じ御嶽山にある賽の河原の風景。
この小石一つ一つを積んでいった人々の思いや願いの堆積の方が、僕には重すぎる感じだわ。>汗
で、ちょっとばかし悪戯を仕掛けてみたくなる。
重たすぎる祈願の堆積の中に、ささやかながら無意味の風穴を開けてみたくなるのだ。
おあつらえ向きの岩が僕をそそのかす。
そこに先人と同じように小石を積むのだけれど、その心はちょいとだけへそ曲がりだ。
どこまでも軽々しく、重さのない軽率な積み重ねを願う心。
バランスド・スト-ンのやり方で小石を立てて、ふっととまった小鳥のように重ねてみる。
どのみち数時間と持たないだろう、ささやかな茶化し。
それは、モニュメントのように長い時間を占有し続けたりしないから、稜線上のたおやかな風景を下界から持ち込んだ人間の欲望の堆積でゆがめ続けるなんて事もない。
ささやかな悪ふざけでも、旨くいくとエスカレートするものだ。
美しい山上の湖の岸辺に、気付かれないようにランドアートのパロディーを作ってみる。
尾根筋の地層の変わり目に、赤い石の層と青い石の層の交点を見つけた。
そこにささやかな注釈を試みる。
そこらに転がっている小石を、高々数m移動させるだけ。
見過ごしてしまう地質の違いをこんな風に際だたせて、だから何の意味があるのかと聞かれても、意味なんて無いのだが。
火山の尾根筋には、妙な物がふんだんに見つかる。
この石は、溶岩が急激に冷えて表面が固まり始めたあと内部からのガス圧でふくれて割れ目が入った物だ。
ちょうどパンが膨らんでひび割れるのと同じ理屈。
その割れ目に、すぐ脇になっていたナナカマドの実を挟み込んでみる。
1979年の噴火はマグマ物質が直接地表に噴出したのではなく,水蒸気が爆発的に噴出した水蒸気爆発だったってな記録があるから、この石はもっと前に出来た物。一番新しくても5200年前か1万年前の火砕流に含まれていた物のようだ。
そんな石に、やっと50年ちょっとをこの地球に暮らしているだけの大型哺乳類の僕が、こんなオイタを仕掛けてるんだから不思議と言えば不思議な話、いや、取るに足らない全く馬鹿げた出来事に過ぎない。
いったい何の因果なんだかねぇ.....A(^_^;
干上がった流れの岩の割れ目に溜まった水に、ナナカマドの紅葉を浮かべてみる。
なかなか美しいと僕は思うのだけれども、はて、その「美しい」というのはいったい何なのかしらねぇ、いったい。
それにしても、こうやって生きてるのって、不思議だしステキなことだよねぇ。
この星に来てみて正解だわ、ホントに。
A(^_^;