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城004 雪の高取城(2) (奈良県・百名城61番、日本三大山城)

2014-02-20 12:25:07 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、奈良県(ならけん)・高取町(たかとりちょう)にある高取城(たかとりじょう)を訪城した話の続きです。
 高取城は、日本三大山城に数えられるだけでなく、展望に優れた場所もあり、その広大さを感じる事ができる城です。
 下の写真は、大手道コース入り口の近くにある宗泉寺(天台宗)の境内です。
 宗泉寺は江戸時代の高取藩主の植村氏の菩提寺(ぼたいじ)です。現在も植村氏の墓碑があります。


 高取城へ登城する雪の残る大手道を登っていくと、最初にあるのが「七曲り」です。

 曲がりくねった坂道で、敵が攻めてくると坂道の樹や竹を切って攻撃を防いだと伝えられています。

(1)高取城は山城ですから、歴史は古いです。
 鎌倉時代と室町時代の間にある後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による建武の新政(けんむのしんせいい)が始まる直前の鎌倉時代末期に、大和国(やまとのくに、現在の奈良県)で勢力を持っていた越智氏(おちし、南北朝時代は南朝側)が、支城として築城したのが始まりと伝えられています。当然ながら、この時代の高取城は、小さな山城だったでしょう。

 登り坂は続きます。登るにつれて、道や周囲の雪の量が増えていきます。


(2)戦国時代になると、越智氏は、奈良県北部の筒井氏(つついし)との勢力争いに敗れ、筒井順昭(つついじゅんしょう)が大和一国を統一します。戦国時代ですから戦乱は終わらず、今度は筒井氏と三好一族の家臣・松永久秀(まつながひさひで)の間で争いが続きます。

 二ノ門に到着する前の最後の登り坂の途中に一升坂の文字が見えます。

 城を造る時に石材などの運搬に役夫は急坂と重荷の苦しさにへたってしまうので、米一升(1.5kg程度)を加給して激励したという言い伝えが残っています。

(3)続く、筒井順慶(つついじゅんけい)の時代になると、織田信長(おだのぶなが)の家臣となり、信長の命令により、大和国内の城は大和郡山城(やまとこおりやまじょう)のみとなり、高取城は、一度、廃城となります。
 ところが、天正10年6月、本能寺の変で明智光秀(あけちみつひで)の謀反により織田信長が自害すると、高取城は支城の一つとして復活することになります。

 二ノ門まで残りわずか・・・・最後の登り坂です。ほとんど道も雪に覆われてきました。


(4)その後、信長の後継者争いで、羽柴秀吉(はしばひでよし、豊臣秀吉)が勝つことになります。
 秀吉は、近隣大名との関係が落ち着いた後、畿内は一門・近臣で固める事にします。
 天正13年には、筒井氏が伊賀国上野に転封となり、大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府の一部)の3カ国64万石は、秀吉の弟である秀長(ひでなが)の領地となり、大和郡山城に居城を構えました。

 二ノ門の手前に猿石と呼ばれる石があります。

 高取城を建築の際、石垣に転用するのに飛鳥(あすか)から石材などとともに運ばれてきた物らしいのですが、
 隣の明日香村にある吉備姫王墓(キビヒメノミコのはか)ににある石像物と同類の物があるそうです。

(5)高取城は支城の一つですから、秀長の重臣の本多利久が、1万5千石として高取城に入ります。
 天正17年(西暦1589年)になると、城の縄張りが新しくなり、現在の近世的な城郭が造られます。
  本丸は多聞櫓で連結された3重の大小天守が立てられ、三重櫓が17基も建ち並び、多聞櫓もありました。
  場内には大名屋敷や侍屋敷も整備されて、山城としては、他に例の無い壮大な山城となっていきます。

 猿石の後ろを振り返れば、「二ノ門跡」はすぐ近くです。

 写真を見ても良く分かりませんが、二ノ門の前は木の橋があったらしく、左側には山城では珍しい水掘があります。
 下の写真が、城下の土佐街道(とさかいどう)沿いにある子嶋寺(こじまでら)に移築された二ノ門です。

 門の裏側から見た写真ですが、門の向こうに奈良県西部の山も見えます。
 下の写真は、前回も載せた二ノ門を正面からみた写真です。

 「三ノ門跡」を過ぎると、途中に国見櫓跡への分岐があります。名前の通り、奈良盆地を遠望できる展望の良い所です。「くまドン」が着いた時は天候が曇りとなったので、スルーして通過しましたが、高取場では最大の展望スポットで、朝早く出発したのも、ここからの景色が目的でした。お勧めです。

(6)本多利久が亡くなると、その子の本多俊政(ほんだとしまさ)が継ぎます。その後、秀長とその養子である豊臣秀保(ひでやす)が亡くなると、秀吉の直轄領となり、本多俊政は、秀吉の家臣となります。

 高取城は門の数も多く、江戸時代の植村氏(うえむらし)の時代には33棟を数えました。
 「矢場門跡」を通り、「松ノ門跡」に着きます。

 門のあった所に、石垣に大木の根が張り出す所は、時代の流れを感じさせます。

 城下の土佐街道沿いにあった児童公園の入り口に、松ノ門の一部が置かれています。

 同じく、児童公園にあった説明板に松ノ門が移築された経緯があります。

 城の見取り図もあり、松ノ門の位置も赤で記されていますが、櫓(やぐら)だけでなく、門や屋敷の数も多いです。

 登城路の左右には、屋敷跡の低い石垣もありますが、植物と雪に覆われています。
 松ノ門を過ぎて、「宇陀門跡」になると、石垣は高く、大きくなっていきます。石垣の角は、算木積み(さんぎづみ)と呼ばれる方法で積まれています。冬なので、植物が枯れている分だけ石垣が分かりやすいかもしれません。

 門のある所は敵の侵入を防ぐ為に、L字型に曲がった虎口(こぐち)となっています。
 現代に残る城閣が造られたのが、豊臣秀吉の時代ですから、石垣は野面積み(のづらづみ)です。
 加工されていない自然石をそのまま積み上げる方法です。石の形に統一性がないので、石垣職人の職人芸です。


(7)慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、本多俊政は、東軍として会津征伐に従った為、東軍として参加。
 高取城は西軍に攻められたが、堅城のため、家臣だけで守りきり、高取城は遂に落ちることはありませんでした。
 関ヶ原の戦後、1万石を加増されて、2万5千石の高取藩主となりました。
 この先に続く、石垣と門や櫓の跡を見ると、守備側の人数が揃えば、この城を落とすのは無理と感じました。

 続いて、「千早門跡」です。雪が厚くなり、石垣の石の形も分からなくなりました。この辺は完全に雪道です。

 千早門跡を過ぎると、三の丸です。やっと、正面に大手門が見えてきました。右からは、壺坂寺(つぼさかでら、南法華寺(みなみほっけじ))からの登城ロである壺坂口門からの道が合流しています。このコースは、途中で五百羅漢(ごひゃくらかん)を見ながら登っていくルートです。帰りに1名登って来られた方がいましたお疲れ様でした。

 大手門の石垣は高さがあり、見応えがあります。やっと着いた・・・・と思ったのは早かったようです。


(8)江戸時代の3代・家光(いえみつ)の寛永年間に、本多家は2代で跡継ぎが無く廃絶・幕府の天領となります。
 3年後に普代(ふだい)の植村家政(うえむらいえまさ)が高取藩2万5千石の藩主として封じられ、明治維新まで14代続く事になります。

 長くなりすぎたので、一度、ここで区切ります。

 高取城(地図の下)や明日香(あすか)の郷(地図の上)周辺には、巨大なハイキングコースもあります。


 一応、高取城の簡単な情報を再度載せておきます。
【高取城(たかとりじょう)】 百名城61番(スタンプは観光案内所の「夢創舘」、年末年始は町役場)、国指定史跡
 別名:高取山城
 分類:山城
 場所:奈良県高取町
 特徴: 三大山城の一つ(他の二つは岩村城(岐阜県)、備中松山城(岡山県))
     城内の面積は約1万平方m、城郭全域の総面積約6万平方mと、日本国内で最大規模の山城。
     高取山(583・3m)の山頂に築かれた、曲輪(くるわ)の連なった連郭式の山城ですが、
     当時の天守台には、三重天守だけでなく三重小天守もあり、天守を含めて城には櫓(ろ)が多くあり、
     山城とは思えない程の建物と広い敷地を持っていました。
     現代は山上の建造物はありませんが、大規模な石垣や石塁が往時をしのばせています。

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回も、高取城の続きです。


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