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旅日記009 蒜山高原と大山の風景(9) 大山寺・阿弥陀堂

2014-07-31 07:55:37 | 旅日記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、4月の鳥取県の大山(だいせん)中腹にある大山寺(だいせんじ)の阿弥陀堂(あみだどう)です。
 阿弥陀堂は、大山寺の横を流れる佐陀川の対岸にありますが、雪解けの増水中ですので、大山寺橋を渡って、阿弥陀堂に向かうことになります。
 下の写真は、阿弥陀堂へ向かう道ですが、江戸時代には周囲に僧坊が数多くあったので、整地してあります。

 百名城の城跡を見てきた為、こういう石垣の並びを見ると城跡と錯覚(さっかく)してしまいます。
 下の写真も道の脇にある僧坊の入口です。

 僧坊跡は、こんな感じなのですが、きれいに整地されていて、武家屋敷跡と似ているな思ったりします。
 (間取りや出土品は、全く違うのでしょうが・・・・・、別の場所ですが、大山寺には僧兵が住んだエリアもあります。)

 阿弥陀堂に向かう途中の階段には、「宝永」と刻まれた石碑がありました。

 下の写真が阿弥陀堂(国重要文化財)ですが、大山寺では最古の建物です。
 阿弥陀堂は、平安時代の藤原時代に建造されたらしいのですが、大洪水で破損した為、天文21年(西暦1552年)に古材を利用して再建された建物だそうで、柱などは鎌倉時代のものと推定されている古さがあります。

 阿弥陀堂から戻り、大山寺の宿坊・洞明院(どうみょういん)の近くには、このようなポストがありました。

 考えてみると、鳥取県西部の境港市(さかいみなとし)には、マンガ「ゲゲゲの鬼太郎」の作者・水木 しげるの出身地でしたね。
 大山寺付近は、参道や町を少し外れると、小鳥が多く見かけました。

 ただし、前にも話しましたように、野鳥撮影は素人(しろうと)ですから、警戒心が強く、小柄な鳥に全く歯が立ちませんでした。やっと撮影できたのが、下のカシラダカ(冬鳥)です。でも、写真はブレ・ボケで、これ以上拡大できません。

 蒜山高原でも、カシラダカの写真を一枚載せましたが、冠羽が寝ていましたので、一応載せておきます。

 最後は大山の名物「大山そば」です。

 大山寺付近の食事処は早じまいする店が多く、この時期の夕日の時間が午後6時半ごろの為、宿兼食堂の夕食を頼まなかったのは失敗でした。

 やっと、大山寺が終わりましたので、大山から日本海に向かう事になります。
 続きは、また次回とさせていただきます。

 過去のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
 「旅日記001 蒜山高原と大山の風景(1) 鬼女台から見た大山」
 「旅日記002 蒜山高原と大山の風景(2) 茅部神社の桜並木」
 「旅日記003 蒜山高原と大山の風景(3) 蒜山高原の自然」
 「旅日記004 蒜山高原と大山の風景(4) 大山南壁」
 「旅日記005 蒜山高原と大山の風景(5) 大山からの夕景」
 「旅日記006 蒜山高原と大山の風景(6) 大山寺」
 「旅日記007 蒜山高原と大山の風景(7) 大神山神社・奥宮」
 「旅日記008 蒜山高原と大山の風景(8) 大山寺・寂静山」
 (ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 7月後半は、ブログを作成している時間がなかったので、前回のブログからかなり時間が空いてしまいました。
 なんとか、ブログを作る時間ができそうなので、少しずつ作っていこうと思います。
 考えてみると、大山は「旅日記」ですから、あまり、ごちゃごちゃ書く必要が無いと思いますので、
 今後の「旅日記」は写真中心で、説明は最小限にして、速度を上げます。

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旅日記008 蒜山高原と大山の風景(8) 大山寺・寂静山

2014-07-30 07:55:06 | 旅日記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、4月の鳥取県の大山(だいせん)中腹にある大山寺(だいせんじ)と大神山神社(おおがみやまじんじゃ)を参拝した後に、寂静山と呼ばれる見学コースがあるので、行ってみる事にしました。
 この寂静山コースは、大神山神社のから左に回り込むコースなのですが、下の写真のように4月頃は、大神山神社付近は、下の写真のように、かなり雪が残っているので、通行不能でした。

 石畳参道を戻る途中に銅鳥居(天明2年健立)があり、さらに下った所に寂静山へ登っていくルートがあり、こちらは通行可能でした。
(絵画調)

 寂静山は、大山寺の開祖・金連上人が寂静(じゃくじょう)したという伝説の場所だそうです。
 (寂静とは、煩悩(ぼんのう)を離れ、苦しみを去った解脱(げだつ)の境地だそうです)

 開山の伝説の残る場所ですから、中世の頃は、寂静山の周囲に堂社や僧坊が、かなりの数あったそうです。
 現在は、樹木と草に埋もれる静かな場所となっています。途中で、ヤマドリかキジ(雉)のメスのどちらか分かりませんが、「くまドン」の前の細い山道を、いきなり出てきて、慌てて横切って行ったのには、驚きました。もっとも、参道から外れたルートですから、他の人は一人も来ませんでしたから・・・・・

 この時間帯になると、晴れてきたので、寂静山からの大山・北壁の展望は良かったです。

 下の展望図に登山ルートが書いてありました。

 寂静山から裏側のスキー場に降りる道がありますが、雪が深いので、元の道を引き返す事にしました。

 続きは、また次回とさせていただきます。

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 「旅日記005 蒜山高原と大山の風景(5) 大山からの夕景」
 「旅日記006 蒜山高原と大山の風景(6) 大山寺」
 「旅日記007 蒜山高原と大山の風景(7) 大神山神社・奥宮」

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旅日記007 蒜山高原と大山の風景(7) 大神山神社・奥宮

2014-07-29 07:55:22 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、4月の鳥取県の大山(だいせん)中腹にある大山寺(だいせんじ)の続きで、大神山神社(おおがみやまじんじゃ)です。
 前回の大山寺の山門の手前で左に分岐する道が、大神山神社・奥宮への参道です。

 奥宮は、元々、大山山頂の遥拝所(ようはいじょ、遠くから神仏などを拝むための場所)であったのですが、奥宮が冬に祭祀(さいし)ができないことから、後の時代に山麓の鳥取県・米子市(よなごし)に本宮が造られたそうです。
 自然石を並べた石畳(いしだたみ)の参道が奥宮まで、ずっと続きます。


 標高が900m近くありますので、石畳を歩いて進むにつれて、周辺の残雪の量も増して行きます。
(絵画調)

 前後が逆向きの門のため、「後向き門」と呼ばれる門です。

 大神山神社の奥宮に到着です。現在の社殿は江戸時代の文化2年(西暦1805年)に再建された建物で、江戸時代を代表する権現造り(ごんげんづくり、拝殿と本殿を幣殿で結ぶ)で、国重要文化財となっています。

 「偉大な神のおわす山~大神岳(おおかみのたけ)」、古代の人々は大山のことをそう呼んで敬いました。 
 その大山信仰が古代より延々と続くのが、この大神山神社です。

 祭神は山陰地方の「因幡の白兎」で有名な大国主(おおくにぬし、奥宮では大己貴命(おほなむち)と呼ばれます)です。明治の神仏分離前は、大山寺本社の大智明権現(ちみょうごんげん、地蔵菩薩)社でした。


 奥宮の左脇にある下山神社(しもやまじんじゃ)です。

 津和野藩主・亀井氏によって再建された建物です。白狐の伝説もあります。

 続きは、また次回とさせていただきます。

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旅日記006 蒜山高原と大山の風景(6) 大山寺

2014-07-19 12:55:45 | 旅日記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、4月の鳥取県・伯耆(ほうき、鳥取県西部)にある大山(だいせん)からの風景の続きで、大山北西側の中腹にある大山寺(だいせんじ)です。
 最初は、大山の北壁の写真からです。最高峰の剣ヶ峰(標高1,729m)を含めたいくつかの峰からなる山で、南壁と共に、山の険しい表情を見せています。百名山の一つとしても知られています。

 山陰地方の歴史は古く、日本最古の書物「古事記(こじき)」や「日本書紀(にほんしょき)」に書かれた出雲(いずも、現在の島根県)のスサノオのヤマタノオロチ(八岐大蛇)伝説や、因幡(いなば、現在の鳥取県・東部)の白兎(しろうさぎ)で有名な大国主(おおくにぬし)の伝説で知られ、大和王権(やまとおうけん)誕生前の日本神話の時代まで遡る(さかのぼる)ことになります。
 この山陰地方から望むことができる大山(だいせん)は、仏教到来以前の古くから信仰の山として栄えてきました。
 奈良時代初期の養老年間に山岳信仰の山として開かれ、奈良時代末期に編纂(へんさん)された「出雲国風土記(いずものくにふどき、奈良時代の島根県の地誌)」によれば古くは「大神岳(おおかみのたけ)」と呼ばれ、「大いなる神の在ます山」とあがめてきました。
 「出雲富士(いずもふじ)」や「伯耆富士(ほうきふじ)」と呼ばれ、西から見ると富士山のような秀麗な姿を見せる大山も、北から見ると北壁と呼ばれる斜面が並び、山岳信仰の厳しさを現す一面を見せています。

 下の写真は、大山寺・入り口にある山門です、

【大山寺(だいせんじ)】 天台宗(てんだいしゅう、平安時代の僧・最澄(さいちょう)が開祖)
 大山寺は奈良時代に始まる山岳信仰の霊場の一つ。
(1)本尊(ほんぞん)は地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)で、奈良時代・初期の養老年間に金蓮上人(依道)が草庵をむすび地蔵菩薩を祀ったことが起源と伝わります。

 下の写真は大山北壁の写真ですが、谷に残る残雪と岩が、今も人を寄せ付けない山の厳しさを感じさせます。

 大山寺も元々は、奈良時代に成立した山岳信仰の霊場でした。
 「大山寺縁起」によると、出雲の猟師であった依道(よりみち)が海より出てきた金色の狼(おおかみ)を追って大山に入り弓矢を放った所、矢の前に地蔵菩薩が現れ、信心が起き、弓矢を捨てる。
 かの狼はいつの間にか老尼となりて、依道に話しかけ、仏の道を説きます。そして、依道は出家して、金蓮上人となって修練や修行を続けたという話が残ります。

 山岳信仰が盛んになる中、昔は徒歩で大山に登りますので、大山の四方には登山ルートの古道が発達していきます。


 大山(だいせん)の参拝者は、古くから牛馬を連れて参拝していたそうです。
 その習慣は、平安時代の基好上人が「大山寺の地蔵菩薩は牛馬守護の仏である」と唱えて、牛馬安全の守護札を施与した事が始まりと伝えられています。この札を受ける為に、参拝者は牛馬に荷物を乗せて、大山寺を参拝するようになり、いつしか互いの牛や馬を比べて交換するようになったことから牛馬市へ繋がっていったとされます。
 下の絵は、江戸時代に鳥取県・大山町で開かれていた牛馬市・博労座(ばくろうざ)の絵です。

 江戸時代の享保年間(8代将軍・徳川吉宗の時代)頃に組織的に発展し、福島の「白河馬市」、広島の「久井牛市」と並んで日本三大牛馬市の一つとなるほどにぎわいました。
 古代から近世までの農耕社会であった日本においては、牛馬は田畑を耕す大事な生産力として扱われていた事を示す話とも言えます。
 下の写真は、大山寺の山門前にある牛霊碑です。

 この大山の牛馬市は1年に数回開催されて、一度に3000~4000頭の取引があったとされています。
 博労座の牛馬市は、昭和12年まで続き、大山が国立公園になる時に、その長い歴史に幕を閉じました。
 下の写真は大山寺の境内にあった宝牛(たからうし、撫牛(なでうし))です。

 現代でも、大山寺の近くにある「大山情報館」周辺の駐車場の一部を博労座駐車場と呼ぶこともあるそうです。

 山岳信仰の流れは、いつしか伝説上の生き物であった天狗(てんぐ)と結びつき、天狗が山の神として、民間信仰の対象となっていきます。
 下の写真は、大山寺への参道登り坂にある建物(店?)にあった八天狗・大山の伯耆坊の像です。

 (大山の伯耆坊については、「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」の後半に書きましたので、省略します。)

(2)平安時代に入って天台宗が統括するようになり、西日本に於ける天台宗の大きな拠点となります。
 下の写真は、大山寺・本堂の脇にある天台密教による護摩供を行う護摩堂(ごまどう)です。

 「伯耆の大山」は、「僧坊百六十坊」、「僧兵三千人」の言葉のように、その勢力の大きさを伝えています。
 中国地方一帯の信者に対する影響力から、尼子氏・毛利氏などの戦国大名や国人領主は、お寺の造営・修理や寄進などにより関係を深めて、領国の安定を図ってきたようです。

(お詫び)急いで作成した為、本坊と本堂を混同いたしましたので、以下の文を訂正しました。
(3)その後の戦乱の世の中にあって、大山寺は衰退していきましたが、
 江戸時代の慶長年間に、豪円僧正が二代将軍・徳川秀忠(ひでただ)から寺領3,000石を認められることになり、大山寺は復興の時代を迎える事になります。この当時は西楽院(さいらくいん)が寺の政務をおこなう場所でした。
 下の写真が現在の本坊西楽院跡(ほんぼうさいらくいいんあと)にある本坊です。


(4)江戸時代までは、大山寺の中に大神山神社がありました。明治時代になると、時代が変わります。お寺より神社の方が重要視されるようになり、明治8年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われ、大神山神社として扱われ、大山寺との号が廃止となります。
 大日堂(現在の本堂)に本尊を移し、本殿(現在の大神山神社奥宮)を大神山神社に引き渡し、大日堂に移ることになります。
 これにより大山寺は急激に衰退することになります。時代が進むと、廃仏毀釈の行動が行き過ぎとして認識されるようになり、明治36年になると、「大山寺」の号が復活することになります。
 当時の仮本堂も昭和3年の火災で焼失してしまい、昭和26年になって、下の写真の現在の大山寺の本堂が再建されたそうです。


 大山寺の話が続くのですが、前回のブログと日数が空きましたので、前半を先に更新して、話の続きを作ります。


 過去のブログは、以下の通りです。(ブログ右欄のカテゴリアーカイブで「旅日記」をクリックすると、一覧が表示され、一覧の先頭(一番下)にあるので、これをクリックしてもブログが開きます。)
 「旅日記001 蒜山高原と大山の風景(1) 鬼女台から見た大山」
 「旅日記002 蒜山高原と大山の風景(2) 茅部神社の桜並木」
 「旅日記003 蒜山高原と大山の風景(3) 蒜山高原の自然」
 「旅日記004 蒜山高原と大山の風景(4) 大山南壁」
 「旅日記005 蒜山高原と大山の風景(5) 大山からの夕景」
 (ブログ左欄の「カテゴリーアーカイブ」の「旅日記」をクリックしても、先頭(一番下)に過去ブログ一覧が表示されます。これをクリックしても、見る事可能です。)

(2)大山の伯耆坊については、下のブログの中間にあります。
 「名所江戸百景047 第21景 芝愛宕山 ほおずき市」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 
 しばらく、コメントの記入は不可にしていましたが、解除して、書きこみ可能になりました。

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名所江戸百景195 第110景 千束の池袈裟懸松 洗足池の灯篭流し

2014-07-13 09:30:24 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、大田区(おおたく)にある洗足池(せんぞくいけ)の灯篭流し(とうろうながし)の話のブログを昨年作成しましたが、撮影に行ってきましたので、平成25年分(前回は平成24年度分)の写真を載せる事にします。

 洗足池の灯篭流しは、御松庵(ごしょうあん)妙福寺というお寺の法事として行われますので、観光イベントではありません。誤解しないでください。灯篭には、「○○家先祖代々・・」というように書くそうです。
 東京のお盆は7月(新暦)で、毎年7月16日に決まって行われます。
 今年・平成26年7月16日は水曜日です。
 昨年は、コメントをいただいた方に、灯篭流しの始まる時間は19:30以降と教えていただきました。
 お寺に聞くと、ご迷惑ですので、この場で、お伝えします。(makajitsuさん、ありがとうございました)
(絵画調)

【洗足池と日蓮】
 この付近の地名は千束(せんぞく)といいますが、この池の名前が「洗足池」になった理由は、「鎌倉時代に日蓮宗(法華宗(ほっけしゅう))を始めた日蓮(にちれん)上人が、静岡県の身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ、日蓮宗の総本山)から常陸(ひたち、茨城県)へ湯治(とうじ)に向かう途中、池で休息して、足を洗った」という言い伝えからきています。
 日蓮上人は、この後、近くにある現在の本行寺(日蓮宗本山、大田区池上、池上本門寺の近く)で病状が悪化して、亡くなったそうです。
 「袈裟掛けの松」を護る「護松堂」が建立され、護(御)松庵といわれるようになりました。
 下の写真は、境内にある日蓮が袈裟(けさ、お坊さんが付ける布状の衣装)をかけたと言われる「袈裟掛けの松」です。

 その時代の松はすでに無く、現在の松は、3代目だそうです。


 お寺の奥が、ボートに灯篭を載せる場所です。
(絵画調)

 まだ日も沈まず、明るかったので、洗足池の周りを一周してみることにしました。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第110景 千束の池袈裟懸松」(冬景)です。

 洗足池の右側中段にあるのが、袈裟懸松(けさがけのまつ)です。さらに、分かり難いですが、池の奥の左寄りの森にある神社があります。千束八幡神社(せんぞくはちまんじんじゃ)です。

 洗足池の弁財天社(べんざいてんしゃ)です。洗足池北側にある島にある祠(ほこら)です。千束八幡神社は洗足池の西側にあって、この写真の左奥の方にあります。
(絵画調)


 日が沈んで大分経ちましたので、夕闇の中に、灯篭を積むボートの発着所が明るく浮き上がってきます。

 灯篭流しの始まる7時30頃になると、灯篭を積んだボートが出て、池の各所に散ってい行きます。

 対岸でお寺の檀家(だんか)さん達が見守る中、静かにボートから灯篭が流され始めます。

 昨年・平成25年は風も弱かったので、ゆっくりとゆらめく灯篭の灯り(あかり)を眺めることができました。

 人が亡くなってから初めて迎えるお盆のことを、新盆(にいぼん、初盆(はつぼん))と言うそうです。故人が仏になって初めて里帰りするという事だそうです。
 1時間程経つと、池の片側に固まってしまいましたが、灯篭を流した方々の先祖の霊や亡くなった方の魂を見送るかのように、ゆらゆらと水面で輝いていました。

 「くまドン」も洗足池の撮影終了後に、他の皆さまと同様に合掌(がっしょう)をさせていただきました。

 その他に、洗足池でホタル(蛍)を数匹ですが池の端で見る事ができました。洗足池には湧水があるので、近くにある中学校でホタルの幼虫を飼育しているらしく、数年後には自然のホタルが見れるようにならないかと期待しているそうです。
 7月19日(土)には、「洗足池ほたるの夕べ2014」が行われるそうですが、この日に見れるホタルの数は多いのですが、長蛇の列で大混雑だそうです!!!

昨年作成したブログは、以下の通りです。
 「名所江戸百景050 第110景 千束の池袈裟懸松 洗足池の灯篭流し」
 「名所江戸百景051 第70景 中川口 勝海舟と西郷隆盛」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 「くまドン旅日記」のブログを見ていただきありがとうございました。

 次回は、旅日記の続きで大山(だいせん)の大山寺の話を作る予定です。
 訪城記の続きや、名所江戸百景の残分もあるので、今年の夏も大変そうです・・・・・(汗)

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