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名所江戸百景285 第93景 にい宿のわたし 旧松戸徳川家・戸定邸(国重要文化財)

2016-10-21 23:15:28 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 今回は、前回の「松戸の渡し」の金町側に続き、千葉県・松戸(まつど)側の「旧徳川家住宅 松戸 戸定邸(とじょうてい)」の話です。
 10月に金町側の撮影後に、あちこちに回り過ぎて、夕方までに松戸にたどり着けなかったので、平成22年(西暦2010年)梅雨(つゆ)時に撮影した写真を使用します。この日も曇りでした。

 水戸藩(みとはん)最後(11代)藩主・徳川昭武(とくがわあきたけ)が、松戸に造った別邸(明治17年完成)です。
 徳川昭武は、江戸幕府・最後の15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟にあたり、父親が同じ水戸藩・9代藩主・徳川斉昭(とくがわ なりあき)です。明治維新の混乱の中、慶応4年(=明治元年)に兄にあたる先代の水戸藩10藩主・徳川 慶篤(とくがわよしあつ)が死去した為、フランスのパリ留学中から戻った翌年・明治2年になってから、水戸藩主を継ぐことになります。

 「戸定が丘歴史公園」の中にありますが、「日本の歴史公園100選」の一つとなっています。
 (色々あって、後から追加した分も含めて、250カ所が選択されているのですが)

 松戸・戸定邸は、近年になって、国の重要文化財と名勝(めいしょう)の指定を受けています。

 公園入口の階段を登ると門がありました。

 歴史館もあるのですが、この日は資料整理中で、休館日でした・・・・・・

 公園内の通路を通り、戸定邸に向かいます。

 明治17年に完成し、実際の生活の場として使用されていたようです。

 日本の建築様式のひとつである欄間(らんま)の模様は色々ありました。

 縁側の廊下(ろうか)の天井です。

 明治時代になってから作られたので、庭に芝(しば)になっており、和洋混在の庭園です。


 下の図は、前回も載せました明治13年の測量で作成されたフランス式彩色図の中にある「松戸の渡し」周辺です。迅速測図(じんそくそくず、簡易地図)のですが、彩色が美しい地図です。この頃は、まだ戸定邸はありませんが、その場所は、前回説明した「松戸の渡し」のすぐ右(東)側に丘の上にあります。(△印の測定点のある所です。)

 「江戸名所図会(えどめいしょずえ、江戸時代の地誌紀行図鑑)」のおいては、「松戸の津(つ、船着き場)」が紹介されています。「常陸街道(ひたちかいどう)にして駅舎あり。」から始まり、
 平安時代中期の女性日記文学として有名な更級日記(さらしなにっき、作者:菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ))の「産後の乳母(めのと)を見舞う」の中に、
 「太井川(ふといがわ)といふが上の瀬、松里の渡りの津にとまりて、夜一夜、舟にてかつがつ物など渡す。」
と書いてあるが、「松里」とは「松戸の渡し」のことであろうかと推察しています。「太井川」は、現在の江戸川です。

 下の写真のように、この庭から江戸川と葛飾橋を見下ろせます。戸定邸のある場所は、「松戸の渡し」正面のすぐ近くにある丘の上です。のこの庭から眺める景色は、明治から変わりゆく時代を映し出していたのでしょうね。

 明治30年代には、兄の元将軍・徳川慶喜も何度か訪れ、弟の昭武と共に趣味の写真撮影などを楽しんだそうですが、当然、この庭から移り変わっていく明治の松戸や金町の街並みや、道行く人の往来を眺めていたのでしょうか・・・・・・
 広間の上座にあたる床の間(とこのま)です。


(1)前回までの「逆井の渡し」「平井の渡し」「にい宿の渡し」「小岩・市川の渡し」「今井の渡し」「矢切の渡し」「松戸の渡し」のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史」
 「名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し」
 「名所江戸百景281 第71景 利根川ばらばらまつ 今井の渡し」
 「名所江戸百景282 第67景 逆井のわたし 旧中川のシラサギ」
 「名所江戸百景283 第67景 逆井のわたし 旧中川のふれあい橋」
 「名所江戸百景030 第93景 にい宿のわたし 矢切の渡し」
 「名所江戸百景031 第93景 にい宿のわたし 柴又帝釈天」
 「名所江戸百景284 第93景 にい宿のわたし 「松戸の渡し」金町関所」

 最後に、関係ない方向に話が脱線しますので、そのまえに、邸以外の公園内の写真でも区切りとして、入れておきます。

和風に合わせての雰囲気がありますね。

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 急に厳しい話になりますが、特に何のしがらみもない小さな個人ブログですので、自由な考えで脱線させていただきます。上の話と別になりますので、せっかくの気分を壊しかねないので、話の外に置きます。
 この戸定邸は、実は「富士見百景」に指定される富士山展望の好所だったのですが、最近、正面にタワービルが建って、富士山が見えなくなってしまったそうです。
 「くまドン」も、名所江戸百景の撮影でタワービルの展望台も利用してはいますが、なんとなく、あちこちに乱立していくタワービルは好きになれません。
 景観の問題とは別に、日照権(にっしょうけん)の問題回避の為に、タワービルが細長だから、一定時間以上、地域の日光を遮らないので合法と言う考えが、どうしても納得できないのです。(それ以外にも、過去には借地による建ぺい率のゴマカシ問題がありました。)
 現在のバブル経済の時のような都心のビル建設ラッシュも、いつまでも続きませんから、バブル崩壊後の負の遺産と同様になるのは目に見えていると考えています。ごまかしの建ぺい率緩和などを止めて、過剰なビル建設を抑止して欲しいと思っています。
 舛添要一(ますぞえよういち)・前東京都知事が問題になった「違法にならなければ、税金を勝手に使用できる」というような、現在の政治全体に蔓延(まんえん)している身勝手な考え方に反感を感じ、今の政治を叩き直して、健全な方向に向けて欲しいと思っています。その意味でも、舛添氏が、色々な問題で失職して、良かったと思うし、さらには、他の政治家の税金の使い方についても、しっかり叩き直して欲しいと思います。

 「くまドン」としては、現在の小池百合子(こいけゆりこ)・現東京都知事の「都民ファースト」の考えを応援したいと思います。オリンピック予算削減(競技場の見直し)を始めとして、税金のムダ使いや公共事業の私物化・散財を終わらせて、都民の為の健全な都政と財政を構築して欲しいと思っています。
 その意味でも、明後日の10/23(日)衆議院2選挙区の補欠選挙日で、選挙区外で直接投票には関係ないのですが、衆議院・東京都第10区では、小池氏を応援する若狭勝(わかさまさる)候補に当選して欲しいと思っています。
 逆に、いたずらな公共事業ばかり唱える放漫経営で、中国や韓国に媚売っているよう二階俊博(にかいとしひろ)・自民党幹事長は、さっさといなくなって欲しいと思います。こういう人達がはびこるから日本がダメになると思っています。
 その為にも、福岡県第6区では、自民党の世襲の2候補よりも、不満票を他候補に入れるべきだと思っています。農村部で自民党の強い選挙区ですが、農業関係者もTPPが反対であれば、しっかり反対の意思表示して、自民党に圧力をかけるべきだと思いますよ。基本的に民主主義の世界ですから、後任者は、しっかりした人を住民の中から育て、選んで行くのが基本なのですから、「弔い合戦(とむらいがっせん)」と言う言葉にゴマかされて、世襲制を肯定している時点で、完全に間違っていると思います。
 なお、初めて見る人はびっくりしていると思いますので、念のため書いておきます。
 「くまドン」は反中反韓ということを、最初の「あいさつ」書いて始めて、何度も批判していますので、特に何か変わったという分けではありません。
 (ただし、元々は写真・旅行・歴史のブログを作りたかっただけで、余り政治の話はしたくないのも本心です。3月以降、現在の政治を見て、「ろくでもない事をやっている」と思っても、政治がらみ問題を書くと、体力的にも精神的にも、余計な負荷がかかるので、家の用事や仕事もありますので、言わないで我慢していました。)

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名所江戸百景284 第93景 にい宿のわたし 「松戸の渡し」金町関所

2016-10-18 20:40:15 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 今回は、昔の江戸川にあった渡し船の話の続きで、葛飾区・東金町(ひがしかなまち)と千葉県・松戸市の間にあった「松戸の渡し」の話です。
 下の写真は、葛飾区・東金町(ひがしかなまち)にある「金町関所跡の碑」です。「松戸の渡し」の葛飾区側にありました。江戸川の堤防が後ろに見えていますが、関所は堤防下の河川敷一帯にあったそうです。

 説明板によると、水戸街道が江戸川(江戸時代の利根川)を渡る地点に置かれた江戸の東の関門でした。
 普段は渡し船による渡船でしたが、徳川将軍が鷹狩り(たかがり)に出かける際には、川に高瀬舟を並べて、仮設の船橋が架けられたそうです。

 逆に、江戸川の堤防から、「金町関所跡の碑」方向を見た現在の風景です。隣に東京都・下水道局の金町ポンプ所があります。
(絵画調)

 ここより、もう少し上流に行くと、埼玉県・三郷市(みさとし)です。この付近は東京都・千葉県・埼玉県の境界に近いです。

 下は江戸時代の地図の一部ですが、図の右を流れるのが江戸川(江戸時代の利根川)で、上に「松戸」の文字が見え、対岸に「金町の関所」が見えます。、

 水戸街道は、左下の道から中川(なかがわ)の「新宿(にいじゅく)の渡し」を渡り、曲金(まがりかね、現在の葛飾区・高砂)の所で佐倉街道を分けて、図の右上に進み、松戸の渡しにかかります。
 道の途中には、「亀有(かめあり)」「柴又(しばまた)」「矢切(やきり)」の地名も見られます。
 古地図の真中に見える調整池が、江戸時代に造られた小合溜井(こあいためい)で、現在は水元公園(みずもとこうえん)となっています。ここで撮影したのが別の季節だったので、また、別の機会とさせていただきます。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第93景 にい宿のわたし」です。

 広重の絵に描かれた「にい宿の渡し」は水戸街道の中川にあった渡し場です。
 江戸時代では、地図に藻掻いてある「新宿の渡し」の上流にある「猿ヶ俣(さるがまた)」より下流側を「中川」、上流側を「古利根川」と呼んでいました。江戸時代以前に中川が利根川の本流だった頃の名残りです。

 金町関所跡のある堤防から江戸川の対岸を見た写真ですが、正面が松戸の渡しなのですが、河川敷が広くて、江戸川が見えません。
(絵画調)

 写真の左奥に現在の松戸の町が見えます。
 この場所では、江戸川が見えないので、もう少し上流の埼玉県・三郷市に移動して撮影した松戸市のビル街です。
(絵画調)


 下の図は、明治13年の測量で作成されたフランス式彩色図に中の「松戸の渡し」周辺です。迅速測図(じんそくそくず、簡易地図)のですが、彩色が美しい地図です。金町関所は明治2年に廃止されましたが、明治維新からの混乱が残っている時代なので、江戸時代の地形が色濃く残っています。

 真中が、現在の松戸市街です。江戸川沿いに左下(南西)から水戸街道が通り、金町関所跡(現在の金町ポンプ所)の所までつながっています。「松戸の渡し」の対岸には、松戸側から道が伸びているのが分かります。

 江戸川の上流側を見ると、江戸川沿いに現代の松戸の街並みが続きます。


 金町関所跡(松戸の渡し)の堤防から下流側の景色です。「松戸の渡し」から200m程下流に葛飾橋(かつしかばし)があります。

 明治44年(西暦1911年)に初代の葛飾橋(木橋)が架設され、松戸の渡しは、その役割を終えました。
 木橋なので、痛みが早く、昭和2年(西暦1927年)には鉄橋に架け替えられています。
 さらに、時代は変わり、現在の水戸街道(国道6号線)は、さらに約1km下流にある新葛飾橋を通過しています。

 「松戸の渡し」の松戸側は、江戸川と下総台地の高台との間の距離が近いので、対岸の町のすぐ後ろに崖の森がが続きます。

 次回は、「松戸の渡し」の対岸にある松戸側の話に移ります。

(1)前回までの「逆井の渡し」「平井の渡し」「にい宿の渡し」「小岩・市川の渡し」「今井の渡し」「矢切の渡し」のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史」
 「名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し」
 「名所江戸百景281 第71景 利根川ばらばらまつ 今井の渡し」
 「名所江戸百景282 第67景 逆井のわたし 旧中川のシラサギ」
 「名所江戸百景283 第67景 逆井のわたし 旧中川のふれあい橋」
 「名所江戸百景030 第93景 にい宿のわたし 矢切の渡し」
 「名所江戸百景031 第93景 にい宿のわたし 柴又帝釈天」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 今年の3月に母親が倒れてから、家の用事と仕事で、遠くに旅行に出かけることは難しくなりました。母親の回復もゆっくりですが、家の中では自由に動ける所まで回復しており、ホッとしています。ご心配おかけしました。
 (今後、厳しいことも言わざるえない時もありますので、先に、これまで「いいね!」をいただいた方を含め、この場でお礼申し上げます。)
 4月の桜の季節だけ、車で親の病院の送り迎えする間の待ち時間に、その近くで桜撮影をしたこともありました。
 両親も回復してくると、全く旅行に出かけなくなった「くまドン」を逆に心配して、「少しはどこかに旅行に行ってきなさい」と両親に言われる有様です。前にも書いたように、8月からは、休みの日で家の用事の無い時間帯に、たまには、東京都内・周辺の近場に撮影に出かけられるようになりました。
 今回の写真は、東京周辺だけですが、2月の旅行以来で、ひさしぶりに丸1日・車で旅行した写真です。
 (一日中、曇りの日でしたから、風景写真撮影に向いておらず、歴史関係の見学旅行となってしまいましたが)

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名所江戸百景283 第67景 逆井のわたし 旧中川のふれあい橋

2016-10-16 22:00:13 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 前回同様に江戸川区の「今井交通公園」の話ブログが思うように進みません。子供の頃遊んだ「今井交通公園が、9月まで終わりとなり、10月から工事が始まる」と、親戚の方から聞いたので、懐かしさで、9月に「今井の渡し」を見に行くついでに寄ってみました。しかし、実際に地元で聞いてみると、計画自体が何も決まっていないとのことで、拍子抜けしたのと、交通公園の歴史を調べてみると、その存在意義に矛盾を感じ、新たに別の場所に交通公園作る意味があるのか?という疑問まで発生してしまいましたので、少し冷静に考えてみたいと思います。
 ずるずる1週間過ぎてしまいましたので、今回も9月に旧中川で撮影した写真の残りを載せておきます。結局、前回の続きのような感じです。

 下の写真は、旧中川の河川敷から見た江東区側の「亀戸(かめいど)中央公園」です。
(絵画調)

 公園の木しか見えませんが、青空が広がっています。家から出かけた時は、途中で小雨が少しパラつく状態でしたが、曇りの予報が外れて、この日は、午後から良く晴れてくれました!
 9月の休みの日は曇りの日がほとんどでしたの幸運(ラッキー)でした。

 続いて、旧中川に架かる「ふれあい橋」です。


(絵画調)




(絵画調)


 前回のシラサギを撮影した写真の残りです。
(絵画調)

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第67景 逆井のわたし」(夏景)ですが、名所江渡百景の中でも、シラサギの姿が多く描かれた風景です。




 次回からは、「今井交通公園」の話は後回しにして、順番を変えて、江戸川沿いの話の残分を早めに進めて行きたいと思います。

(1)前回までの「逆井の渡し」「平井の渡し」「にい宿の渡し」「小岩・市川の渡し」「今井の渡し」のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史」
 「名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し」
 「名所江戸百景281 第71景 利根川ばらばらまつ 今井の渡し」
 「名所江戸百景282 第67景 逆井のわたし 旧中川のシラサギ」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

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名所江戸百景282 第67景 逆井のわたし 旧中川のシラサギ

2016-10-09 23:16:24 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 今回予定していた江戸川区の「今井交通公園」の話ブログが思うように進みません。間が空きましたので、話が途切れますが、中間に旧中川の話で余った写真のブログを作る事にしました。撮影場所は、「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」の平井の渡しから逆井の渡しの場所までに撮影した写真です。

 下の写真は、旧中川に架かる「ふれあい橋」です。9月に半日程、祭りの撮影した帰り道で撮影した写真です。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第67景 逆井のわたし」(夏景)ですが、名所江渡百景の中でも、シラサギの姿が多く描かれた風景です。


 今回のシラサギは、コサギが主役ですが、見ての通り、休日ともなる河川敷の人通りは多いです。
(絵画調)

 良く見ると、川の棒杭の所で、コサギが羽を休めています。夏から秋にかけては、ハゼやボラの子が多くいますので、シラサギも餌には困らないようで、「くまドン」が撮影していても、警戒心も無く、のんびりしています。
 時には、カヌーが通り過ぎる、穏やかな日でした。

 シラサギにも警戒の強い個体と、余り警戒心がなく、のんびりしている個体がいるようで、
 下の写真のシラサギは警戒心が強く、水際でエサを探していも、人が近づくと急いで対岸に飛んで行ってしまいました。対岸でも、人が近づくと、他の場所に移動しています。

 最初に乗せたシラサギは、ほとんど警戒心が無く、20mぐらいの距離で「くまドン」が撮影していも、クチバシ(嘴)を開けて、あくびをしているという調子です・・・・

 この後、すぐ近くの河川敷をジョギングや自転車が通り過ぎても平気な顔して、のんびりしていました。
 なんとなくですが、年間を通して、旧中川に住んでいるシラサギは警戒心が少なく、夏の間だけ渡りで移動してくる個体が警戒心が強いようです。
 (もっとも、旧中川の場合は、釣り師にエサをもらいに飛んでくるシラサギまでいるくらいですから、不思議ではないのですが・・・・)


 「くまドン」が撮影していも、まったく気にせず、羽づくろいを始めました。コサギには冠羽があります。
(絵画調)


(1)前回までの「逆井の渡し」「平井の渡し」「にい宿の渡し」「小岩・市川の渡し」「今井の渡し」のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史」
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 「名所江戸百景281 第71景 利根川ばらばらまつ 今井の渡し」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

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名所江戸百景281 第71景 利根川ばらばらまつ 今井の渡し

2016-10-02 21:45:23 | 名所江戸百景
こんにちわ。「くまドン」です。

 今回は、江戸時代の「平井の渡し」から続く行徳街道(ぎょうとくかいどう)の先にある「今井の渡し(いまいのわたし)」と、その周辺についてです。現在の今井橋の少し北側にあり、東京都・江戸川区(えどがわく)と千葉県・市川市(いちかわし)の境界に当たります。
 写真は、過去に5月と9月に今井に撮影に行った時の写真が中心です。
 近くの親水緑道にヒガンバナ(彼岸花)が咲いていましたので、枯れている花まで写っていますが、季節的に一枚入れておきます。


 下の写真は江戸川の写真ですが、市川市の南行徳(みなみぎょうとく)側から、江戸川区の今井(江戸川3丁目)方向を眺めた風景です。この付近は船宿も多く、川岸に多くの船が停泊しています。
(絵画調)


 前回乗せました元佐倉道の説明図の地図ですが、

 中川の「平井の渡し」からの道は、行徳道(浅草道)として南東方向に進み、江戸川(江戸時代の利根川)に行きあたった所が、「今井の渡し」です。
 江戸川の千葉県側に「今井の渡し」旧跡の説明板があります。

 説明板に書いてある様に、「今井の渡し」は、室町時代の永正6年(西暦1509年)には、当時の連歌師・柴屋軒・宗長(さいおくけん・そうちょう)が訪れ、宗長の連歌(れんが)を載せた紀行文「東土産」の中で、今井にあった浄興寺を訪れる時に、浅草(あさくさ)から船に乗り、今井の渡し場で下船したという「東路の津登(あづまじのわたしば)」として紹介したのが、歴史上の文献に出てくる最初となります。

 次は、江戸川区側から、現在の今井橋と行徳側を眺めた写真です。
(絵画調)

 今井の渡しは、現在の今井橋より、少し北(上流)側にありましたので、写真を撮影している所が、今井の渡しのあった付近です。
 いつのまにか、江戸川内に河川敷ができていましたので、少し驚きました!昔は下の写真のようにコンクリート堤防のすぐ下は江戸川でした。


 さらに、江戸川上流側に向きを変えました。この付近は船宿(釣船、屋形船)も多い所です。


 今井橋の下流側に目を向けると、行徳側の対岸でも、堤防の強化(耐震?)が進んでいるようです。


 江戸時代初期においては、前回の話にあった「小岩・市川の渡し」が江戸幕府の公認の渡し場であり、「今井の渡し」は地元の農業関係の移動に使用されている程度でした。
 3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)の寛永年間に渡し場としての許可を得ていますが、江戸からの客は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていた一方通行の渡し場だったようです。

 5代将軍・綱吉(つなよし)の元禄時代になると、歌舞伎(かぶき)役者で人気者でありました初代・市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が、「成田不動明王山」を演じて、大当たり(大人気)となりました。それ以後、江戸の町から成田詣り(なりたまいり、成田不動への参拝)が盛んになると、「今井の渡し」を渡って、成田へ参拝(さんぱい)に行く旅行客が増加していくことになります。
 下の古地図(右が北)では、右上の「中川の渡し」から道がありますが、元佐倉道の途中から行徳道に向きを変え、図の下を流れる江戸川(利根川)の「今井の渡し」に到着してしまいます・・・

 左の川は「小名木川」から「新川」に至る流路で、行徳からの塩の運送経路でした。江戸川(利根川)戸の交差部には、広重の名所江戸百景「第71景 利根川ばらばらまつ」の場所と推測されている「妙見島(みょうけんじま」の地名も見えます。
 下の絵は、広重の名所江戸百景「第71景 利根川ばらばらまつ」(夏景)です。


下の写真は、今井(江戸川区江戸川3丁目)の竜亀山・浄興寺(りゅうきざん・じょうこうじ)の山門です。

 12代将軍・家斉(いえなり)の天保年間に刊行された名所江戸図会(めいしょえどずえ、地誌紀行図鑑)には、挿絵の「今井(いまゐ)の津頭(わたしば)」の中でも、柴屋軒・宗長(さいおくけん・そうちょう)の話が紹介されています。抜粋すると、
 永正六年の紀行『東土産(あつまのつと)』に、「隅田川の河舟にて葛西(かさい)の府のうちを半日ばかり葭(ヨシ、葦)・芦(アシ)をしのぎ、今井といふ津(わたり)より下りて、浄土門の寺・浄興寺に立ち寄りて」とあれば、はやくよりこの津のありしことしられたり。
 さらに、浄興寺の席にて、発句所望あり、「富士の根は 遠からぬ雪の 千里かな (宗長)」の句を残しています。

 下は明治代後半の地図ですが、紫色の○印が「今井の渡し」のあった所です。地図の左上(西北)から行徳道(現在の今井通り)が続いていますが、現在の今井橋より、少し上流にありました。
 黄色の線の所に浄興寺(じょうこうじ)の文字が見えます。

 名所江戸百景の中では、浄興寺の位置は、「上今井の渡しより西北に二丁(約200m)」とありますので、混乱気味です。

下の写真は、竜亀山・浄興寺の本殿です。
(絵画調)


 下の絵は、江戸名所図会に描かれていた絵です。今井(文中では葛西)の竜亀山・浄興寺(りゅうきざん・じょうこうじ)に、戦国大名(せんごくだいみょう)の北条氏康(ほうじょう うじやす)が、武蔵野(現在の東京都・埼玉県)の小鷹狩りの時に一夜の宿を求めた情景を表現した絵です。

 挿し絵に書きこまれている文字を抜粋すると、
 天文十五年の秋、小田原の北条左京太夫氏康、むさし野小鷹狩りのとき、葛西の浄興寺一夜のやどりをもとめられ、「松風入琴(しょうふうことに入る)」といふ和歌を題にて詠ぜられしこと、『武蔵野紀行』に見えたり。
 「松風の 吹くこゑ(音)きけば よもすがら しらべことなる 音(ね)こそかはらね (北条氏康)」
 これより後、境内にあった松を「琴弾き松」と号するようになったと書かれています。
 昔は、大きな松があったそうですが、現在では枯れて無くなっていますので、代わりに境内の松を撮影です。


 北条氏康は、小田原城(おだわらじょう)を拠点とする後北条氏の3代目当主で、初代・北条早雲(ほうじょうそううん)の孫です。天文15年(西暦1546年)は戦国時代の真中で、関東に勢力を伸ばしてきた小田原(おだわら)の後北条氏が、関東公方(かんとうくぼう)や、房総(ぼうそう、現在の千葉県)を拠点とする里見(さとみ)氏と江戸川を挟んだ国府台合戦(こうのだいかっせん)が繰り広げられた時期にあたります。
 天文7年(西暦1538年)、第一次国府台合戦の後に、江戸川国府台は北条氏に従った千葉(ちば)氏の所領となった為、この付近一帯が北条領となっていた時代でした。

 時代は変わり、江戸時代において、この寺の住職は、寺子屋(てらこや)を開き、郷里の人の教育に務めていたそうです。長卵形の石塔が筆子塚(ふでこづか)です。

 「筆子塚」は、江戸時代(明治時代の場合もある)の寺子屋などで教育を受けた教え子が、師匠が死んだ際に、その遺徳(いとく、死んでも残る功績)を偲んで、教え子が費用を出し合って建てた塚や墓、供養塔などです。

 大正元年(=明治45年、西暦1912年)に初代の今井橋が架けられて、その役割を終えました。
 現在の今井橋は、初代の今井橋の少し下流(南)側にあります。


 「今井の渡し」に話を進めてきたのは、たまたま、この近くにある「今井交通公園」の撮影がきっかけでした。写真が多いので、次回にします。(本来は9月末までに、この話する予定でしたが、のびのびとなっています・・・・)
 最後に秋の花を、もう一枚の入れておきます。
(絵画調)


(1)「今井の渡し」の付近の以前のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景148 第96景 堀江ねこざね(1) 行徳の野鳥病院」
 「名所江戸百景149 第96景 堀江ねこざね(2) 行徳の野鳥病院」
 「名所江戸百景153 第71景 利根川ばらばらまつ 葛西臨海公園(1)」
(2)前回までの「逆井の渡し」「平井の渡し」「にい宿の渡し」「小岩・市川の渡し」のブログは以下の通りです。
 「名所江戸百景277 第67景 逆井のわたし 平井諏訪神社と旧中川」
 「名所江戸百景279 第93景 にい宿のわたし 蛇行する中川の流れと歴史」
 「名所江戸百景280 第94景 真間の紅葉手古那の社継はし 元佐倉道と小岩市川の渡し」

 今回は、これで終わりとさせていただきます。

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