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名所江戸百景040 第64景 堀切の花菖蒲 堀切菖蒲園

2013-05-29 07:55:27 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、堀切菖蒲園(ほりきりしょうぶえん)の花菖蒲(ハナショウブ)を見に行った時の話です。

 昨年の2012年6月9日に堀切菖蒲園で撮影した写真です。今年も、花菖蒲の季節がきました。

【開花情報】
 平成25年5月27日現在の開花状況は、葛飾(かつしか)観光サイトによると「二分咲き」とのことです、
 例年の見頃は、6/10頃です。今年は、一番花が例年より5日早く5月20日に1番花が開花していますので、例年より早まりそうです。

【堀切菖蒲園】
 開園時間は、6/1(土)~6/25(火)の間は、8:00~18:00 (年末・年始のみ休)、無料
 花の種類・数 :約200種、6,000株)
 荒川河川敷にある、堀切水辺公園にも菖蒲田があります。併せて、ご覧ください。

【堀切かつしか菖蒲まつり】 開催期間:6/1(土)~6/25(火)
(1)6/2(日) :オープニングセレモニー、関東やまと太鼓や琴の演奏など
(2)6/9(日) :菖蒲パレードなど
(3)6/16(日):音楽隊演奏など
(4)6/21(金)、22(土) :菖蒲園ライトアップ(18:30~20:30)
 その他の土日にも多数のイベントあり。
 詳細は、インターネットのgoogleなどで、「葛飾菖蒲まつり2013」の検索お願いします。

【水元公園】
 開園時間の時間制限はなし(自由)、無料
 花の種類・数 :約100種、14,000株)

【小岩菖蒲園】
 小岩菖蒲園まつり :6/2(日)~6/23(日)、無料
 花の種類・数 :100種50,000本のハナショウブ、 アジサイやフジバカマ、ミゾコウジュ

【撮影のお得情報】
(1)かつしか菖蒲めぐり周遊バス (大人210円、こども110円)
   運行期間  :菖蒲まつり期間中の土・日(6月2日・8日・9日・15日・16日・22日・23日)
   周遊コース :「堀切菖蒲園」→ 「しばられ地蔵(都立水元公園)」→ 「金町駅(降車のみ)」 
            → 「柴又帝釈天」→ 「堀切菖蒲園」
   京成バスのICカード都内1日乗車券(大人500円、こども250円)でも乗車可能。(パスモ・スイカが必要)

(2) 「下町日和きっぷ」 (500円)
  京成線都内エリアが1日乗り降り自由。
  エリア内の駅: 江戸川(小岩菖蒲園)、柴又、金町(バスで水元公園へ)、町屋、日暮里、上野
  京成押上駅にはスカイツリーもあります。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第64景 堀切の花菖蒲」です。

 手前に大きく対象物を近景として置くのは、広重の江戸百景の特徴で、江戸時代の他の風景画と異なる点です。
 この絵は、その典型で、手前に大きく花菖蒲を置き、その後ろに菖蒲の咲く堀切の郷の田園風景を遠近感をつけて描いています。
 花も同じ色のものは無く、多様な品種が咲き乱れたいたことを感じさせてくれます。


 家から堀切菖蒲園まで、直線距離で数km程ですので、自転車で40分程度なのですが、当日は雨なので、電車で行くことにしました。
 東京下町の電車は、東西方向に走っている電車が多く、南北方向の移動は、回り込むように移動する為、時間がかかります。

 「くまドン」は、亀戸駅から東武亀戸線(とうぶかめいどせん)の電車に久々に乗りました。
 亀戸駅から曳舟駅(ひきふねえき)まで行き、そこから、東武伊勢崎線(いせざきせん)、京成(けいせい)本線と乗り継いで、やっと堀切菖蒲園駅に到着しました。

 駅から堀切菖蒲園まで、歩いて10分程度ですが、表通りでは無く、近道の裏通りを歩いて行くと、途中に堀切天祖神社などがありましたので、ついでに何枚か撮影しました。
 菖蒲七福神(しょうぶしちふくじん)だそうです。(元々はここに弁天社があったそうです。)


 神社の裏手には、堀切十二支神です。擬人化しています。
 大きくする為、トリミング(画面の切り取り)をしたので、7体しか見えませんが、12体ありますよ。(念のため)

 しかし、子供の頃、TVで見た特撮ヒーロー番組を思い出してしまったのは、「くまドン」だけでしょうか・・・・・?
 平成になってからの製作らしいのですが、100年後になると、その時代の人達は、この石像をどのように評価しているのでしょうか・・・・・・???
 (現在に置き換えると、100年前の大正時代に作られた物を評価しているようなものです。)

 家から1時間以上かかって、やっと、堀切菖蒲園にたどりつきました。何故か、かなり遠くへ行った気分です。
 まずは、公園の奥にある小高い築山(つきやま)で全体を俯瞰(ふかん、上から下を見渡す)します。

 「堀切菖蒲園」は元の「堀切園」を改称したものです。


【花菖蒲】
 花菖蒲の原種である「ノハナショウブ」は、日本古来からの自生種です。
 弥生時代から江戸時代までの日本において、花は農業の季節の指標として、重要な役割を担っていました。
 春は、山に残る残雪の雪形をみて、人々は田植えの時期を知り、
 稲作の田植え後に、雨を待つ昔の人たちは、あぜ道に自生して咲くノハナショウブ(花菖蒲の原種、古代は「あやめ」と呼ばれました)の開花を見て、梅雨の到来を知りました。
 江戸時代は、気象学(科学知識)はありませんし、中世の小氷期(しょうひょうき)と呼ばれる寒冷な気候でしたから、天候不順で凶作になり易かったのです。
 暦(こよみ)だけでなく、山に残る残雪の見え方や、自然の花の開花から、農耕の時期を知ることが、当り前になっていました。

 花菖蒲が、いつ頃から栽培されるようになったのか、はっきりした事はわかりませんが、江戸時代以前には、行われていたようです。
 初期の頃は、原種のノハナショウブか、その変種のようなものだったと考えられています。

 江戸時代前期には、大名が中心となって大名庭園で、花菖蒲の栽培が行われるようになりました。
 この時期に、多くの変種が集められ、交配が進み、数十種類もの色々な品種が作られていきました。
 この時期の品種は、原種のノハナショウブの形を残す花弁が下に垂れる品種しかありませんでした。

 江戸時代後期になると、花弁が垂れず水平に咲く、「平咲き」や、または、やや抱え気味に開く「受け咲き」と呼ばれ
る品種が作り出され、人気が出てくるようになります。

 この花菖蒲の品種系統は、「江戸系」と呼ばれます。
 江戸っ子は、「粋」(いき)を良しとする風潮があり、新しい物好きでしたので、花弁が下に下がらず、真っ直ぐに伸びる最新種の「平咲き」や「受け咲き」が、特に好まれたのは分かるような気がします。

 (先に咲いた花が見ごろの状態で、2番目咲きが、まだツボミ状態で、ハナショウブの撮影にはタイミングの良い時期に行けました。)

 幕末に堀切の花菖蒲園が、大勢の人々でにぎわった頃、花菖蒲は、すでに今日の花とあまり変わらないくらいまでに発達して、多くの品種が作りだされていました。


【堀切菖蒲園】
 堀切は、昔から湿潤な土地として菖蒲の栽培に適していました。

 堀切において、いつごろから花菖蒲の栽培が始まったかは、はっきりしていません。一説には室町時代からとも言われています。
 11代将軍家斉(いえなり)の文化年間に、堀切村の小高伊左衛門という人が、全国各地の花菖蒲を集めて栽培を始め、これが元になって、「小高園」と呼ばれる民営菖蒲園が開園となりました。
 広重が、名所江戸百景を描いた安政年間の頃には、菖蒲園の一帯は、田園風景が広がり、多くの品種の花菖蒲が咲き乱れる名所として賑わっていました。

 江戸末期の最初の菖蒲園である小高園に続き、明治に入ると武蔵園・吉野園・堀切園・観花園などが開園しました。

 明治時代には、堀切の菖蒲園が紹介され、全盛期(明治中期から大正末期まで)を迎えました。
 また、花菖蒲の品種も江戸時代にも増して数多く作られるようになり、時代の風潮や海外への花菖蒲輸出のためか、大輪で豪華な花が好まれ作出されるようになりました。


 しかし、昭和に入ると、堀切の花菖蒲園は衰退し始めます。
 その原因は、関東大震災により、東京の人々が、堀切地区を含む下町に移り住み、人口が増え、
 この地に、工場や住宅などの都市化が急速に進み、田園風景は無くなり、観光客が減少していきました。、
 さらに、川の水質の汚染や花菖蒲特有の連作障害の影響もあり、栽培および園の経営が次第に困難になっていきました。

 大正から昭和10年代の間に、堀切の多くの花菖蒲園は時代の流れの中に消え去ってゆきました。
 そして終戦後ふたたび開業した堀切園も、昭和30年頃には経営困難とまります。
 そこで、昭和34年に東京都が買い取り公開しました。(昭和50年葛飾区に管理移管)
 今日では「葛飾区指定史跡堀切菖蒲園」となっています。


 戦後は肥後系や伊勢系が普及したこともあって、江戸花菖蒲もそれらとの交配が進み、穏やかに垂れる花形が主流になり今日に至っています。
 現代でも、毎年のように新しい品種は、作られ続けています。
 そして、古い品種の保存も同時に行われていて、江戸の気分を今に伝える受け咲きの花菖蒲は、明治神宮御苑(めいじじんぐうぎょえん)や堀切菖蒲園などの歴史のある花菖蒲園に、現代も保存されています。


 雨の日の撮影は億劫(おっくう)ですが、花には水滴がついて、しっとりとした雰囲気を出せました。
 わずか1時間の撮影でも、色々と写真が撮りました。
 現代では、菖蒲園の周りは住宅街で、目の前に首都高速が走っていたりします。
 この景は「くまドン」の好みで決めさせていただきます。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第64景 堀切の花菖蒲」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。

 なお、撮影時間が1時間しかなかったので、写真の品種と文章は一致しておりませんので、ご注意ください。

 花菖蒲の撮影は、低いアングルから撮影することが多い為、「くまドン」の体は傘からはみ出てしまい、背中は小雨にぬれて湿っていました。雨の日に撮影される方は、傘と雨ガッパの併用をお忘れなく。お風邪などに、ご注意ください。

 この時の撮影日は、昨年の2012年6月9日ですが、この日、天気予報で、気象庁は関東地方の梅雨(つゆ)入りを宣言しました。
 堀切菖蒲園への道道沿いに植えられていたアジサイ(紫陽花)は、すでに見頃を迎えていました。


 もうすぐ6月です。今年は、季節が早いので、西日本と東海地方は、早くも梅雨入りしてしまいました。
 関東地方が梅雨入りするのも近いでしょう。
 天候変化により気温変化も大きくなりますので、皆さまも、お体には、お気をつけて、お過ごしください。


 今回は、これで終わりとさせていただきます。読んでいただき、ありがとうございました。

 なんとか、花菖蒲の見頃前にプログを載せることができました。
 6月は、梅雨で撮影に行く日が少なかった事と、「くまドン」は6月に仕事が多くなるので、平日はパソコン開ける日も少なくなります。それでも、週一回程度は、プログを更新できるように努力してみます。

 次回は、前回からの江戸城外濠の続きで、溜池(たまりいけ)になりますが、近くにある日枝神社(ひえじんじゃ)も併せて話に入れる予定です。



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名所江戸百景 東京ほたる

2013-05-26 23:32:13 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 5月25日(土)に、隅田川の東京ホタルを見に行ってきました。

 プログ作成で時間がないので、翌日朝には間に合わず、2枚だけですが、写真を載せます。

 隅田川一面に流れる青い光はきれいでした。

 スカイツリーのライトアップは、上が「粋」(いき)、下がオリンピック招致用ライトアップです。



 こういう事をしているから、プログ作成が間に合わなくなるのですが・・・・・(汗)

 今回は、これで終わりにさせていただきます。


名所江戸百景039 第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景 江戸城の外濠(2)

2013-05-25 09:30:15 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回の名所江戸百景は、前回に続いて、江戸城の外濠(そとぼり)の弁慶濠(べんけいぼり)です。

 前回の最後にお見せした喰違見附(くいちがいみつけ)から、南にある弁慶濠を見た景色です。

 弁慶濠自体は江戸時代と変わらない風景を維持しています。
 弁慶濠に並行して右にある道路は、首都高速4号線(新宿線)です。その下にある道路が紀ノ国坂(きのくにざか)です。江戸時代に坂に、御三家(ごさんけ)紀州藩上屋敷(かみやしき、現在の迎賓館・東宮御所)があったことから、紀ノ国坂と呼ばれました。
 弁慶濠の左岸は、彦根藩井伊(いい)家の屋敷跡地で、現在ホテルニューオータニの敷地となっています。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景」です。

 左にある濠が弁慶濠で、武家の行列が歩いているの道が紀ノ国坂です。
 広重の代表作「東海道五十三次」は、大名行列を多く描いていることもあり、武家行列を描いたこの絵は、当時の民衆に人気があったようです。
 絵では、行列の人物を遠近法を使用して描いていますが、江戸時代の絵では珍しく、前後方向に重ねて並べています。望遠レンズの圧縮効果(あっしゅくこうか)を併用している様な感じがします。・・・・?
 行列の先頭が持つの飾りの部分を、絵の上半分を大きく占めている空より高く、絵の外に突き出すことにより、行列の雰囲気を大きく見せようとしています。
 (江戸時代は、槍などの長さが長い方が武威(ぶい)を示せると考えられていました。)

 赤坂(あかさか、茜坂)という地名は、茜草(アカネグサ)が生える赤根山(現在の迎賓館付近の高台)に登る坂であることから名付けられました。弁慶濠の向こうには人家が広がっています。

 弁慶濠の左奥に木が茂った崖がありますが、この崖の下辺りに外濠の一部の溜池(たまりいけ)があるはずですが、絵には描かれていません・・・?

 下の地形図は、前回お見せした外濠の中で弁慶濠付近のみを拡大した地形図です。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」

 左中段の「L字」型に曲がっている青い部分が弁慶濠です。
 広重の絵は、弁慶濠のL字に曲がっている付近から、図の右下にある虎ノ門(とらのもん)方向の谷を眺めた構図です。
 弁慶濠の右端に、赤坂見附(あかさかみつけ)がありました。さらに、その下の崖沿いに溜池(たまりいけ)が細長く続いていました。

 現在、弁慶濠の写真です。道路の上は、首都高速4号線(新宿線)の高架です。
 ほぼ、広重の絵と同じような構図で写真が撮れます。(さすがに武家行列はありませんが・・・・・)


【大名行列の民衆への規制】
 時代劇等の大名行列が「下に~、下に~」との声で、道端で武士以外が平伏(へいふく)しているシーンがあります。
 「くまドン」は、この状態で、広重がどうやって行列を描いたのか気になりました・・・・???

 しかし、この掛け声を使えるのは、徳川御三家の尾張・紀州藩(水戸藩は例外で江戸常勤であるため参勤交代はなかった)だけだったそうです。・・・・!!!
 他の大名の場合は、「片寄れ~、片寄れ~」や「よけろ~、よけろ~」という掛け声を用い、一般民衆は脇に避けて道を譲るだけでよかったそうです。・・・・!!!
 さらに、華美な大名行列を見せることは、各藩の見栄(みえ)であり、逆に見てもらいたかったそうです。一層華美にして、藩の財政を圧迫したそうです。・・・・・・・・
 そして、行列を見物する事は民衆の娯楽でもあったそうです。・・・・!!!

 弁慶濠の対岸は、彦根藩井伊家の屋敷跡地で、現在はホテルニューオータニが建っています。


 さらに、紀の国坂を下っていくと、堀を渡る弁慶橋(べんけいばし)があります。その向こう見えるのは、グランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)です。


【弁慶橋 (明治22年架橋、昭和60年改架) 】
 まず、江戸時代にこの場所に、橋はありませんでした。当然、門もなく、濠と石垣が続いていましたで、ここから攻められる可能性は、ありませんでした。
 明治22年(1889年)に、それまで神田松枝町と岩本町との間にあった弁慶橋が不用になったため、ここに移されました。

【グランドプリンスホテル赤坂(平成19年に赤坂プリンスホテルから改称) 】
 ここも、江戸時代は、紀州徳川家の上屋敷(江戸中期に焼失して、再建されませんでした。)があった所です。
 昭和58年(1983年)に開業した40階建ての新館は、隣接するホテルニューオータニのタワー棟と共に、バブル時代はトレンディスポットとしても人気を得ていて、芸能人やスポーツ選手の結婚式の披露宴会場に使用されていたとのことです。
 平成23年(2011年)3月に、ホテル営業を終了となりました(老朽化・競争力低下の予想と保有資産の活用再検討が目的)。
 ホテルは解体の予定でしたが、平成23年3月11日の東日本大震災が発生。
 3月24日に、東京都は福島第一原発の事故で避難した福島県民の受け入れ施設として、新館を活用すると発表。
 同年4月9日から6月30日まで被災者を受け入れることになり、ホテルは最後の役目を果たしました。!!!
 解体工事は諸事情により工事開始は遅れて、翌年の平成24年6月から行われています。

 下の写真は、平成24年の11月に迎賓館(こちらも紀州藩の中屋敷でした。上屋敷が焼失してからは、こちらが上屋敷として使用されました。)に行った時に、前庭から撮影した写真です。(上の写真の左方向から撮影しています。)
 左のクレーンのあるビルが、解体中のグランドプリンスホテル赤坂です。

 今年の平成25年5月頃までに解体完了の予定となっています。
 このプログが出た頃は、まだ残っているかな?それとも更地かな?
 (5月中旬のまでに、下のわずかな階を残す程度まで解体が進んでいる模様。)

 上の弁慶濠の写真と、ほぼ同じ構図なのですが、ホテルニューオータニの高層2棟の右後ろに、解体前のグランドプリンスホテル赤坂も少し見えています。平成24年(21012年)5月の解体直前の写真です。

 広重の名所江戸百景は、その時代の時事ニュース的の要因もありますので、
 この写真を、広重の名所江戸百景「第85景 紀ノ国坂赤坂溜池遠景中」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版「くまドン版」を作ることを第一目標にしています。)

 下の写真は、弁慶濠から、逆方向の喰違見附(くいちがいみつけ)側を撮影した写真です。
 この方向には、御三家(ごさんけ)の尾張藩の屋敷(現在の上智大学)がありました。 


 この喰違見附の近くには、御三家(ごさんけ)の徳川紀州家、徳川尾張家、譜代大名筆頭の彦根井伊家の屋敷があり、警備が厳重な為、門も簡易のままで良かったことが理由の一つでした。
 喰違見附から東に向かう坂(200m長)を、3家の頭文字をとって、紀尾井坂(きおいざか)と呼ばれています。

 (なんとなく、武田信玄の話にでてくる「人は城、人は石垣、人は堀」を思い出してしまいました。・・・・・笑 )

 弁慶濠の最後にあるのが赤坂見附です。


【赤坂門(赤坂見附)】
 現在の青山通りを経由して大山道(おおやまみち、神奈川県の丹沢方面)へと連なる西南の関門でした。赤坂見附の地名とともに、門の石組みが一部があります。


 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 順番から行くと、次回は、溜池(たまりいけ)になるのですが、花菖蒲の開花が早まりそうなので、順番を変更して、次回は、花菖蒲の予定です。


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名所江戸百景038 第119景 赤坂桐畑雨中夕けい 江戸城の外濠(1)

2013-05-24 19:30:11 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回の名所江戸百景は、江戸城の外濠(そとぼり)の一つである四ッ谷濠(よつやぼり)です。

 明治以降、江戸城の外濠の多くは埋め立てられてしまいましたが、現在でも、飯田橋(いいだばし)~四谷(よつや)間の3カ所(牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠)と弁慶濠(べんけいぼり)は、水面が残っています。

 飯田橋~市ヶ谷(いちがや)間は濠沿いの土手(土塁・どるい)に遊歩道がありますが、「名所江戸百景002 第41景 市ヶ谷八幡」において扱いましたので、四谷駅からにします。
 なお、市ヶ谷駅~四ッ谷駅間は、土手の遊歩道が、250m程途切れていて、途中からまた、始まります。

 下の写真は、四ッ谷駅から東北方向にある市ヶ谷駅(市ヶ谷濠)の方向を撮影しました。

 市ヶ谷濠は、北半分は水面を残していますが、南半分は埋め立てられてしまい、公園となっています。
 濠の内側に沿って、四ッ谷駅までは、JR中央線(オレンジ色の線の電車)と総武線(黄色の線の電車)が並行して走っています。電車の窓から濠を望む景色も、また、面白いかもしれません。

 四ッ谷駅(JR線と地下鉄の駅があります)の所は、江戸城の四ッ谷門(甲州街道方面の門)がありました。四ッ谷見附(よつやみつけ)ともいいます。石組みが少し残っています。
 見附とは、江戸城門に置かれた見張り番所(ばんしょ)のことです。外濠の門は、見附の方で呼ばれることが多いです。

 四ッ谷駅から濠沿いの土手(土塁)に遊歩道が続きます。土手の桜の木も緑の葉が茂り、道に木陰を落としています。
 ここから先は、右手に四ッ谷濠(真田濠)越しに、風景を眺めながら、進むことになります。


 四ッ谷濠は、関東大震災や戦災のガレキにより埋め立てられ、現在は水面が無くなっています。
 北半分は、JRと東京地下鉄丸ノ内線の四ッ谷駅になっています。南半分は、大学のグラウンドです。
 現在でも、グラウンドの下の地面には、埋め立てたガレキが埋まっています。

 また、四ッ谷濠は、江戸城の濠の中で、最も高い位置にあります。石垣も状態良い状態で残っていて、高さが10m以上の所もあります。濠沿いの土手の遊歩道を歩いて行くと、その高さを実感することができるでしょう。

 遊歩道から、濠の中に、営団地下鉄の丸ノ内線(赤い線の電車)が横切って走っているのが見えます。
 その先には、まだ、明るい緑を残している木々の向こうに、青緑の屋根の建物が見えます。
 有名な赤坂(あかさか)の迎賓館(げいひんかん)です。


【赤坂迎賓館(旧赤坂離宮)】
 外国の国家元首や政府の長などの国賓(こくひん)を迎え入れた時に、宿泊等の「おもてなし」を行う施設です。
 江戸時代は、紀州徳川家の中屋敷(江戸後期は上屋敷)の土地でした。
 明治時代になると、政府に接収されて、皇室用地となり、東宮御所(とうぐうごしょ)の赤坂離宮(現在の迎賓館)が造られました。
 第二次大戦後、赤坂離宮は国に移管され、昭和49年(1974年)に迎賓館として改修・完成しました。

 通常は非公開です。ただし、支障のない時期(通常は8月)に、事前の申し込み・抽選により、一般参観できるかもしれません。

  内閣府のホームページ (平成25年5月23日現在) には、
    「平成25年度も参観実施予定です。参観期間等詳細については5月下旬頃の掲載を予定」
  とありました。予定が変更になる場合もありますので、インターネットでご確認お願いします。

  また、迎賓館の前庭のみ公開する時もあります。(こちらは、申込みは不要です。)
   平成25年迎賓館前庭公開についても、内閣府のホームページに掲載される予定と書いてありました。

 下の写真は、「くまドン」が、平成24年11月1日~3日の迎賓館の前庭公開時に、撮影した写真です。

 なお、京都の京都御苑(きょうとぎょえん)内にも京都迎賓館があるので、混乱するかもしれません。

 迎賓館の裏側の庭は現在でも東宮御所ですので、入ることはできません。
 土手の遊歩道を歩いて行くと、迎賓館の左の方に鮫が橋門(さめがはしもん)の屋根が見えます。

 門の手前に、外堀通りが通っていますので、門の前までは行くことができます。

 四ッ谷濠の南側にあるのが、喰違見附(くいちがいみつけ)です。


【喰違見附】
 江戸開府後最も初期に作られた見附のひとつです。
 他の見附とは異なり、石組みのない簡易的な門だったそうです。
 お城の門で見られる枡形(ますがた)も存在しなかったが、替わりにクランク状の道があり、敵の侵入の防御に使用します。そこから「食い違い」の名がついたと言われています。
 戦国時代の古い形の虎口(こぐち、城の出入り口)の構造となっていて、城の防御の歴史を見る上では興味深い遺構(いこう)となっています。
 現在も、車の通行を可能にする為、江戸時代より曲がりが緩くなっていますが、道路の形に、その名残りを見ることができます。「くまドン」は、写真で、うまく表現できませんでした。(汗)

 当日は、午後の逆光状態だったので、別の日の午前中に、四ッ谷駅に行きました。
 下の写真は、JR四ッ谷駅の上に架かる橋から四ッ谷濠(迎賓館)方向を撮影した写真です。
 手前に四ッ谷濠の中を走るJR総武線(黄色)と営団丸の内線(赤色)があり、その奥に、濃くなった新緑の木々の後ろに迎賓館を入れました。

 江戸百景らしい縦位置で、4層構造になっているので、この写真を、広重の名所江戸百景「第119景 赤坂桐畑雨中夕けい」に対応する「くまドン版」の景(確定)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版「くまドン版」を作ることを第一目標にしています。)

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第119景 赤坂桐畑雨中夕けい」です。

 「第119景 赤坂桐畑雨中夕けい」は、南の溜池(たまりいけ)から赤坂見附方向を望んだ絵です。
 二代目広重の絵と判定され、名所江戸百景の中に入れてもらえない可哀そうな絵です。(したがって、人により番号は異なりますが、118枚の後ろの119景となっています。)
 この絵は、四ッ谷付近ではありませんが、同じ溜池に場所に広重の描いたもう一景ありますので、この景を使用させていただきます。

 知っている人も多いので、最後にしましたが、江戸城における外濠の位置関係を説明します。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」
 地形図の右(東)側にあるのが、江戸城(皇居)と内堀です。左(西)側に新宿御苑があります。
 江戸城から西に甲州街道(こうしゅうかいどう)が伸びていて、図の真ん中にある四ッ谷門の橋を通過します。(手書きで赤の太線で入れた所です。)

 四ッ谷門の下(南)にある水のない空濠が、四ッ谷濠(真田濠)です。
 四ッ谷濠の左(西)側に迎賓館があります(水色の丸で囲った所付近)。その下(南)が東宮御所です。
 四ッ谷濠の下(南)に、喰違見附を挟んで、青く細長く曲がった弁慶濠が現在もあります。
 さらに、弁慶濠の下の谷沿いには、赤坂見附(あかさかみつけ)を挟んで、外濠の一部であった溜池(たまりいけ)がありましたが、現在では埋め立てられていて、ありません。
 溜池からの流れは、右(東)にある虎ノ門(とらのもん)へと続いていました。

 地形図上部に神田川(かんだがわ)と書かれた川があります。
 この神田川と四ッ谷門の間に濠が3つあります。上から牛込濠、新見附濠、市ヶ谷濠となります。この濠のある所は、江戸時代初期は、神田川(当時は平川と呼ばれました)の支流が流れる谷でした。外濠が造られたのは、江戸城の中では遅く、3代家光の寛永年間に諸国の大名を集めて、江戸城整備の天下普請(てんかぶしん)が行われ、現在の濠になりました。四ッ谷濠も同時期に造られました。

【四谷濠(真田濠)】
 南北の濠は谷に沿って造られましたが、四ッ谷濠の部分は、元は台地になっていて、南北の谷を分けていました。
 3代家光の寛永年間(1636年)に行われた天下普請で、東国の大名が駆り出されて、南北の濠を連結する形で開削して、四ッ谷濠は作られました。
 真田濠という名前は、現在の長野県の松代藩主真田信之(さなだのぶゆき)が中心となり造られた為、濠の名前が付きました。
 ご存じの方も多いと思いますが、真田信之は、関ヶ原合戦前に徳川軍の半分を足止めした真田 昌幸(さなだ まさゆき)の長男であり、続く大阪冬の陣・夏の陣で徳川家康を苦しめた真田幸村(さなだ ゆきむら)の兄に当たります。ただし、信之は徳川家康側についた為、松代藩主となりました。
 江戸時代に、玉川上水が四ッ谷まで引かれたのは、4代家綱の時です。1653年の時に着工・完成して、上水の残り水を四ッ谷濠に流していました。それ以前は、空濠だったのではとの説もあります。

 江戸城を最初に築いたのは、室町時代の有名な太田道灌(おおたどうかん)です。
 この当時の江戸城は、台地の東端に造られた小さな城で、現在の本丸と二の丸付近にあったそうです。
 江戸城の東側の低地部(青い部分)は日比谷入江(ひびやいりえ)という海がありました。

 下の写真は、埼玉県川越市(かわごえし)にあった太田道灌像です。


 徳川家康が関東に移転した時は、戦国の風潮は色濃く残っていますから、当然、城の防御を考えます。家臣も多く、住む場所も考えなければなりませんでしょう。(最初は内堀もありません。)
 江戸城のある台地全体を城とみた場合、東に海、南北に川と谷がありますので、一定の防御効果を望めます。西側の台地の続きが弱点となりますので、喰違見附が防衛線として、初期の頃に造られたのは、当然と考えられるでしょう。

 喰違見附から南にある弁慶濠を見た景色が下の写真です。

 弁慶濠に並行して右にある道路は、首都高4号線(新宿線)です。中央高速(山梨・長野方面)と接続する高速道路です。

 長くなりましたので、今回は、これで終わりとさせていただきます。

 次回は、弁慶濠になります。


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名所江戸百景037 第102景 蓑輪金杉三河しま 都電とバラ(2)

2013-05-21 12:30:05 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、都電荒川線のバラの続きです。まず、都電とバラに関する情報です。(前回の情報の一部)
(絵画調)


【開花情報】
 都電沿線では平成25年5月20日現在、バラは見頃を迎えています。

【5月のイベント情報】
 都電車内にバラの装飾を施した特別電車「都電バラ号」を運行しています。
  運行期間 : 平成25年5月3日(金)から平成25年6月2日(日)
 沿線では、バラのイベント「大塚バラまつり」(5/12~5/26)も開催されます。

【撮影のお得情報】
(1)都電一日乗車券 / 都電IC一日乗車券 :大人400円/小児200円
(2)都営まるごときっぷ(1日乗車券) :大人700円/小児350円

【ばら(薔薇)】
 「くまドン」は、バラというと近代的イメージがあり、明治以降と思っていたのですが、驚いたことに日本は、バラの自生地として世界に知られていたのでした。(汗・・・・・・!!!)
 下の写真は、都電荒川線の「荒川二丁目」駅のバラです。

 品種改良に使用された原種の中で、3種類(ノイバラ、テリノイバラ、ハマナシ(ハナマス))は日本原産だそうです。
 なんと、「万葉集」にも
   「みちのへの茨(うまら)の末(うれ)に延(ほ)ほ豆のからまる君をはかれか行かむ」
 という歌があり、古い時代は、バラは茨(うまら、うばら)と呼ばれ、茨城(いばらぎ)の県名の元にもなったそうです。(・・・・・!!!)
 江戸時代は、バラの栽培が一般的な花木として身分に関係なく行われていました。(・・・・!!!)
 江戸末期には、西洋バラの栽培も始まっていたそうです。(・・・・!!!)
 ただし、バラが「花の女王」として愛好されるようになるのは明治以降になってからで、一般にも普及し始めていまっしたが、戦時中は、園芸より食糧生産が優先されるようになり、一時は、バラの園芸は比較的裕福な家庭のみに限られるようになりました。・・・・・・・・・・・・

【江戸の治水】
 江戸時代の荒川区の三河島(みかわしま)付近を考える場合、江戸の治水方法を理解する必要があります。
 江戸時代に、利根川(とねがわ)を銚子(ちょうし)方面へ、荒川(あらかわ)の流れを現在の隅田川(すみだがわ)に付け替えて、中間の平野部を開拓可能にしたことは、以前もお話ししました。
 結果的に、隅田川に「荒ぶる川」といわれた荒からの水が流れ込むようになり、隅田川に洪水が頻発(ひんぱつ)に起きるようになります。

 下の絵は、北区にある荒川知水(ちすい)資料館にあった江戸時代の治水の説明図を撮った写真です。
 (資料館の人に聞いたら、特に撮影しても、個人プログであれば問題ないとのことでした。)
 どの図が、分かり易いか分かりませんので、3枚お見せします。

 江戸時代の治水は、幕府が江戸の町を守ることが最優先に考えて造られていました。
 幕府は、隅田川の西(左)側に日本堤(にほんてい)を築き、東側には自然堤防を利用した墨田堤があり、二つの堤に挟まれて、ロウトの口のように狭くなっていて、洪水時の下流部への水の流出を制限していました。
 結果的に、下流側の江戸の町の被害は軽減したのですが、逆に、現在の荒川区を始めとする上流側は水を貯めて、遊水地(ゆうすいち)となり、洪水が頻発するようになりました。住民は困りました。

 下の地図の写真は、荒川区付近の拡大図です。荒川放水路が水色の線で引いてありますので、開削(かいさく)前の地図です。

 江戸時代は、技術力(木造、土堤)も生産力(人力)も低く、できることは限られています。
 しかし、江戸時代の関東流(伊奈(いな)流)と呼ばれる治水方法は、結構したたかでした。

(1)無理に堤防を作り、洪水を止めようとすると、堤防が壊れて勢いよく水が流れ込み、逆に被害が大きくなる。
 →一定以上の洪水に対しては、水があふれても建物などが壊れなければ良いとして考える。 
 →水を滞留させることにより、洪水の勢いを弱め、建物は浸水するが壊れないようにする。
  →堤防を雁行(がんこう)形に配置する不連続堤(霞堤(かすみてい)、信玄堤(しんげんつつみ))により、本流に滞留した水を支流を逆流させて、ゆっくり平地部に水をあふれさせる。
  →所々に洪水時に越水できる箇所(越水堤)を設け、一定以上の洪水に対して、後背地の平野部への流入をゆるやかに行わせる。

(2)民家側の対応として、被害を最小限にするようにしていました。
  →居住用の家や土蔵の所だけ、少し高く土盛りして浸水を避けるようにする。
  →田畑を遊水地の代わりにして、水を広く浅く分散させることにより洪水の被害を軽減する。
  →洪水の水の流れを弱めるために、家の周りに木を植えて、屋敷林(やしきりん)を作っていました。

(3)上流から流れてきた水には、農業に必要な養分が含まれており、化学肥料のなかった江戸時代では、水の引いた後の農地の貴重な肥料になっていました。

 下の地図は、現代の荒川区周辺の地形図です。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」
 手書きですので、大雑把ですが、日本堤を黒の太線で、都電荒川線を赤の太線で入れました。


 江戸時代において、現在の荒川区の低地部は、農村が点在する土地でした。
 そして、隅田川の近くは、氾濫時に浸水する湿地帯が広がっていました。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第102景 蓑輪金杉三河しま」です。

 「鶴千年、亀万年」と言われるように、ツルの絵は縁起物(えんぎもの)として、人気がありました。
 三河島付近は湿地が多く、江戸時代はタンチョウヅルの飛来地で、将軍家の鷹狩(たかがり)が行われていました。

 寒の入り(小寒の最初の日、1月5日頃)に行われる鷹狩りは、「鶴お成り」と呼ばれ、朝廷に献上される為、格式が高く扱われていました。
 タカ(鷹)を放って捕らえたツル(鶴)は、将軍の前で鷹匠(たかじょう)に刀でさばかれ、塩で防腐処置が施され、朝廷のいる京都に運ばれていきます。
 ツルを捕らえた方のタカは、徳川将軍に鶴を献上したとの功績で、紫の総(ふさ)をつけて隠居できるという特典がついていました。鷹匠にとっては、とても名誉なことでした。

 農家の稲刈りが終わり、冬が近付くと、北方からツルが飛来してきます。
 幕府は、ツルのエサ場になる池などを作り、環境を整えます。濠をめぐらして、竹の囲いをつけて、犬などを入れないようにして、毎日、エサ(なんと米)をまいて、飛んできたツルが逃げないように馴らしていたそうです。
 (将軍が鷹狩りに行っても、ツルがいなかったり、逃げてしまえば、狩りは失敗ですからね・・・・・)

 絵で、後方の畑に描かれた人は、ツルに餌(エサ)を与える係「餌まきの平四郎」だと言われています。
 ツルは餌が欲しいのか、鶴が餌まき係の方を見ているのが、ユーモラスです。

 この絵の題名の「蓑輪」(みのわ)、「金杉」、「三河しま」(みかわしま)は全て、この付近の江戸時代の地名です。
 題名からすると、「蓑輪から、金杉と三河しま方面を望む」といった意味になります。
 「蓑輪」は、現在の荒川区の三ノ輪(みのわ)にあたり、近くに都電荒川線の始発駅「三ノ輪橋駅」があります。
 「三河しま」は、現在の荒川区の荒川(町名)付近です。

 この「三河しま」付近に、都電荒川線の「荒川二丁目駅」のすぐ横に荒川自然公園があります。
 ツルはいませんでしたが、白鳥がいました。

 ここは、下水処理場の上の人工地盤に造られた公園です。
 南側は緑が多く、落ち着いた雰囲気で白鳥の池や昆虫園、展望台、アスレチックがあります。
 北側には交通園やじゃぶじゃぶプール、遊具、芝生の広場と、スポーツ施設ががあります。
 家族向け公園ですが、飲食設備はありません。
 開園時間は、月により異なります。5月~9月は、6:00~19:00です。

 花も少しずつですが、植えられています。


 将軍が三河島で「鶴お成」をする時は、観音寺(かんのんじ)か法界寺(ほうかいじ)が、将軍の御膳所(休息や食事をする場所)にあてられていました。いずれの寺も現在の荒川区荒川(旧三河島町)にあります。

 下の写真は、観音寺です。都電の「荒川二丁目駅」から南西に350m程離れた所にあります。


 その際に、観音寺では、土地の名産「三河島菜」(みかわしまな)を献上するのことになっていました。
【三河島菜】
 三河島一帯の畑は、「三河島菜」と呼ばれる漬物用の野菜の名産地でした。


 話がそれますが、現在、漬物になっている白菜についても気になったので、調べてみました。
【白菜(はくさい)】
 江戸時代に白菜はまだありませんでした。江戸時代以前から日本に何度も持ち込まれたのですが、アブラナ科の植物の為、同じ場所にある近縁多種と花粉で受粉して、交雑種を作る為、品種を保持できなかったことが原因です。
 (江戸時代に「メンデルの遺伝の法則」(1865年発表、1898年頃再発見)なんて知りませんからね・・・・・・)
 20世紀になって、明治末期から大正にかけて、現在の白菜の品種が造られ、広く、一般の家庭に出回りました。

 前述の荒川自然公園に「カキツバタ」が咲いていました。ちょうど、虫(ハナアブ?)がいましたので撮影しました。

 この写真は、画像のトリミング(画面の切り取り)をしています。

 観音寺に寄っていたら、撮影時間が無くなり、「くまドン」は、用事があり、早めに帰ることになりました。、
 道路の反対側にある100m程離れた法界寺や、都電の始発駅「三ノ輪橋駅」は撮影できませんでした。

 都電の三ノ輪橋駅は「関東の駅百選」にも選ばれていて、雰囲気のいい場所です。バラの撮影ポイントでもあります。都電のバラ撮影に行かれる方は、ぜひ、行ってみてください。(笑)


 今回は、これで終わりです。ありがとうございました。
 5月も下旬となりました。晴れた日は暑く、梅雨が近づき雨の日もありますので、お体にお気を付けください。

 次回は、別の話となります。