くまドン旅日記

写真が趣味です。自然の風景、旅行、歴史に興味を持って撮影を続けています。

名所江戸百景054 第56景 深川萬年橋 響け江戸風鈴 泳げ江戸川の金魚

2013年07月20日 12時05分06秒 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、江戸川区(えどがわく)の特産品である風鈴(ふうりん)と金魚(きんぎょ)が話題の中心です。

 下の写真は、江東区(こうとうく)の隅田川(すみだがわ)と小名木川(こなきがわ)の合流点にある「芭蕉庵史跡庭園」(ばしょうあんしせきていえん)にある松尾芭蕉(まつおばしょう)像と、隅田川に架かる清洲橋(きよすばし)です。


 プログ作成中に江戸川区(えどがわく)で「金魚まつり」があるのに気がついて、作成の順番を変更しました。
 すでに、当日になってしまいましたが、先行して、金魚まつりの情報からです。

【第42回金魚のふるさと江戸川区 金魚まつり】 (江戸川区の「えどがわ百景」にも選ばれています。)
 日時: 平成25年 7/20(土)10:00~18:00、7/21(日)10:00~16:00
 場所: 江戸川区 行船公園(ぎょうせんこうえん) :東京メトロ東西線「西葛西駅」から徒歩15分
 内容: 金魚の展示即売(琉金(りゅうきん)・ 東錦(あずまにしき)・キャリコ・ランチュウ・オランダシシガシラ」他20種)
      金魚すくい(高校生以上1回100円)
      江戸川区特産品の販売
        「小松菜焼酎」「小松菜アイス」など小松菜(こまつな)関連商品コーナー
        「江戸川区特産の花卉(かき=草花)」の即売
        「江戸風鈴」 「つりしのぶ」をはじめとする伝統工芸(でんとうこうげい)の実演・販売

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第56景 深川萬年橋」(夏景)です。

 萬年橋(まんねんばし)は、江東区(こうとうく)の小名木川(こなきがわ)に架かる橋です。
 江戸時代は、葛飾北斎(かつしかほくさい)の富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろくけい)「深川(ふかがわ)萬年橋下」でも描かれ、太鼓橋(たいこばし)として有名でした。
 小名木川が隅田川(すみだがわ)に合流する近くに架かる橋であり、
 萬年橋から、隅田川の流れを眺める事が出来ます。
 広重の絵に描かれている川も、隅田川です。
 江戸時代の川は、物資の輸送ルートになっていました。
 絵に描かれている舟には、荷物(米でしょうか?)が積まれています。
 一番左端の船は、材木を組んだ筏(いかだ)です。隅田川の上流から江戸に運ぶ途中でしょうか?

 絵の構図としては、「名所江戸百景」の特徴の一つとなっている、手前の物を大きく描く近景構図で描かれています。
 まず、絵の右側と下部に萬年橋の欄干(らんかん=人の落下を防ぐ手すり)の一部を置き、
 次に、絵の上部と左側に亀(かめ)を吊るした手桶(ておけ、取ってが付いている水などを入れる容器)の一部を置く事により、額縁構造(がくぶちこうぞう)を構成しています。
 そして、額縁の中にある遠景の富士山(ふじさん)や、隅田川の川面と舟や人を描き、吊るされた亀が、その景色を見ているように大きく描き、さらに、その絵を見る人がいるという「入れ子構造」により遠近感と奥行きを表現しています。

 江戸時代には、萬年橋の北側に、「奥の細道」を始めとする俳句(はいく)で有名な松尾芭蕉の芭蕉庵があったことで知られています。
 下の写真は芭蕉稲荷(ばしょういなり)です。

 大正6年に、松尾芭蕉ゆかりの「石のカエル(蛙)」が見つかったことから、芭蕉稲荷が建てられました。


 さて、広重の絵に描かれた吊るされた亀は、現代に住む「くまドン」には、全く意味不明でしたが、江戸時代の人から見れば、すぐに分かる内容でした。

【放生会(ほうじょうえ)】
 江戸時代までの日本は、基本的に農耕を中心とした社会で、狩猟(しゅりょう)を行う人は限られていました。
 仏教(ぶっきょう)には、不殺生戒(ふせっしょうかい=生き物を殺してはいけない)という考え方があります。
 放生会は、捕獲(ほかく)した動物(魚、鳥など)を、川や野に放して、殺生(さっしょう)を戒める(いましめる)宗教儀式でしたが、江戸時代になると、町人の間で、流行のように行われていたようです。

 放つ動物は、場所により異なっていたそうですが、萬年橋では、「鶴(つる)は千年、亀は万年」の言葉に引っ掛けて、亀の放生が行われていたようです。
 絵に描かれている亀は、放生会用の亀を売っている亀屋の手桶ということになるのですが、
 亀屋から客が買って川に放した亀を、亀屋が再び捕まえて、また新たな客に売るという商売が行われていたらしいです・・・・・・・・・・・・・・・・

 そうやって考えてみると、絵の中に描かれている人は、「はたして、釣りをしている人なのか?客が亀を放すのを待っている人なのか?」という疑問も発生します。「くまドン」の考えすぎかもしれませんが・・・・・・・・・・・・・



 さて、当然のことですが、現代では、不用意に生き物を捕獲・放流すると、法律違反となります。
 (1)野鳥などの捕獲=鳥獣保護法違反など
 (2)生物の放流(ペットの遺棄)=動物愛護法違反、外来生物や危険生物の遺棄も法律違反、遺伝子汚染など
 (3)勝手に捕獲禁止した生物の売買も、法律違反

 従いまして、生き物は不可として、亀の替わりに何を置くかは、人それぞれの発想だと思いますので、
 「くまドン」は風鈴をにしてみることにしました。(こんな橋の上で風鈴を鳴らす人はいないと思いますが・・・)

 風があり、タイミングが合わせずらいので、連写モードで撮影です。


【風鈴(ふうりん)】
 あの「り~ん」と鳴る風鈴の音は、日本では一般に涼しげな音と表現されてきた音で、夏の風物詩(ふうぶつし)の一つとなっています。
 秋のスズムシなどの虫の声と対比されることもありますが、この音に関する感覚は、外国の人や、子供の頃に自然の音にふれる環境の無い人には、雑音(ざつおん=ノイズ)に聞こえるらしく、日本は独特に発達した考え方のようです。
 子供の頃の環境や教え方が、音に対するイメージ・感情に影響を与えるという事は、不思議な事です。

 日本における風鈴の原型は、縄文時代に土鈴(どれい)と呼ばれる音を出す器物から始まります。
 弥生時代になると、田畑を荒らす動物を追い払うため鳴子(なるこ)を置くようになり、守るための結界(けっかい)のような使われ方になってきます。
 日本に仏教が伝わると、寺の建築物の四方に青銅(せいどう)製の「風鐸」(ふうたく)と呼ばれるものが吊り下げられるようになりますが、日本特有の厄除け(やくよけ)の考え方で使われていました。
 その後、鎌倉時代(かまくらじだい)の僧「法然(ほうねん、浄土宗の開祖)」上人が風鈴(ふうれい)と名付けたという話が伝わっています。
 下の写真は、上野公園の不忍池(しのばずのいけ)にある大黒天堂(弁天堂の隣)の風鐸です。


 江戸時代の8代吉宗(よしむね)に享保年間になると、「書物の輸入解禁」により、西ヨーロッパで開発された無色透明ガラスが、オランダ→長崎(ながさき)経由で日本に伝わります。
 この当時において、長崎職人により、ガラス製の風鈴が作られたそうです。
 当時のガラスは「ビードロ」と呼ばれ、とても高価な為、一部の富裕層(大名・豪商)しか手に入らなかったそうです。
 12代家慶(いえよし)の天保(てんぽう)年間になると、長崎で腕を磨いた職人により、江戸でもガラスが作られるようになり、
 江戸時代末期には、吹きガラスで作られた風鈴が、夏の風情(ふぜい)を楽しむ粋(いき)な道具として、江戸で流行するようになりました。

 時々、強い風が吹き、風鈴がぶれてしまいます。(絵画調)


 明治時代になると、西洋のガラス製造技術が導入され、生産量増加=価格低下により、最盛期を迎えました。

 明治から昭和初期にかけては墨田区一帯が製造地でしたが、手間がかかる、空襲被害等の理由から徐々に減り、現在は篠原風鈴本舗(江戸川区南篠塚)とその一門で都内二軒のみ。そもそも江戸風鈴は昭和四〇年頃に五代目・儀治氏が名付け広めたものです。一つ一つが手吹きで、切り口がギザギザしていること(滑らかだといい音が出ないそう)が特徴。

 試しに、風鈴の動きを止める為に、ストロボを使用してみましたが、ガラスに光の反射が入ってしまいました。
 この位置からでは、隅田川の川面が見え難いので、場所を移動することにしました。


【江戸風鈴(篠原風鈴本舗)】 (江戸川区の「えどがわ百景」にも選ばれています。)
 昭和初期までは、墨田区(すみだく)一帯が風鈴の製造地でした。
 昭和30年代~40年代の高度成長期(こうどせいちょうき)に伴う都市化の時代の流れと共に、製造する店も減り、現在では、都内の製造地は、篠原風鈴本舗(しのはらふうりんほんぽ、江戸川区南篠塚)と、その一門だけの、わずか2軒のみとなってしまいました。
 江戸風鈴という名前は、昭和40年頃に、篠原風鈴本舗の方が、「江戸時代のガラス風鈴が現在の東京でも受け継がれている」ことから名前をつけたそうです。
 「江戸風鈴」という名前は、篠原風鈴本舗の商品名だそうです。それ以前は、「ガラス風鈴」や「ビードロ風鈴」と呼ばれていたそうです。
 江戸時代以来の伝統的な「宙吹き」という製法で作り上げています。
 「篠原風鈴本舗」は、外国にも文化交流の一環として行くこともあるそうです。
 (外国では、実演で、火を使うことに許可が出ない国もあるそうです。)

 一応、広重の絵に近づける為、萬年橋の欄干を下に入れて構図を取りました。
 手前が小名木川、奥を左右に流れる川が隅田川です。

 隅田川に架かる橋は、「清洲橋(きよすばし)」で、ドイツ・ケルンのライン川に架かる吊橋がモデルになっていて、萬年橋からの眺めは、「ケルンの眺め」と呼ばれる時があります。
 風鈴の絵柄は、金魚と水草ですが、この写真では、分かり難いので取り直します。

【金魚】
 現在でも、縁日や夜店の金魚すくいなどで、日本人には馴染み深い金魚ですが、
 江戸時代前期に、金魚の大規模養殖が始まりましたが、まだ高価な物で、武士や豪商の物でした。
 江戸時代中期になると、庶民にも手に入り、飼育されるようになります。「金魚売り」や「金魚すくい」なども行われるようになったようです。
 江戸時代後期の11代家斉(いえなり)の化政文化期(かせいぶんかき)には、大量生産・流通体制が確立し、金魚の価格が安価になり、本格的な金魚飼育が庶民に普及していき、幕末には、金魚の飼育が流行しました。
 歌川国芳の「金魚づくし」を代表とする浮世絵や日本画の画題として取り扱われました。
 広重のいた江戸時代末期の「金魚」は、新しいもの好きの江戸の人にとり、粋(いき)だったのです。

 東京東部の下町地区は、低湿地が多かったため、明治時代から養魚場が多くありました。
 大正12年の関東大震災後の昭和初期に、江東区や墨田区に都市化や工業化の波が押し寄せ、養魚池は、広い土地、良質な水を求めて、江戸川区に移転してくるようになりました。
 江戸川区は、愛知県弥富市(やとみし)、奈良県大和郡山市(やまとこおりやまし)と並んで、江戸川下流域の金魚の三大養殖地として有名でした。(他に山形県や熊本県を含め、全国に産地があります。)

 ちょうど、隅田川の水上バスが清洲橋を通過する所です。この付近は、水上バスの運行が多いので、助かります。
 さすがに、ビルが立ち並び、富士山は見えませんが、
 一応、風鈴の金魚の絵と、川、橋、舟、雲、青空と夏景らしさが揃いましたので、

 この写真を、広重の名所江戸百景「第56景 深川萬年橋」に対応する「くまドン版」の景(夏景・確定)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作る事を第一目標にしています。)


 昭和30年代からの高度成長期から始まる都市化の波で、江戸川区も宅地が増えていき、周辺の川の水質も悪化していきました。
 それでも、金魚の養殖池のあった江戸川区船堀(ふなぼり)付近は、交通が不便であった為、なんとか、金魚の生産は行われ続けました。
 しかし、昭和58年に、都営地下鉄新宿線(しんじゅくせん)が船堀駅まで延長になると、急速に宅地が進み、地価高騰(ちかこうとう)や、金魚のエサになるミジンコが入手不可能になるなどの理由により、経営環境が悪化してしまいました。
 (住民の生活環境を良くする目的の地下鉄が、地域の産業を衰退させてしまったのは、皮肉な結果といえます。)
 多くの業者は、生産拠点を埼玉県や、千葉県、茨城県へ移転していき、昭和初期の最盛期に22軒もあった養魚場は、現在では3軒(1軒は区外で生産)を残すのみとなってしまいました。

 現在でも、江戸川区の金魚は、生産量こそ少なくなったものの、「エドガワリュウキン」を始めとする高品質の金魚が作られています。
 (「全日本金魚品評会」では江戸川区産の金魚(リュウキン)が、最高賞の農林水産大臣賞を数多く受賞!!)
 現在の江戸川金魚は、養殖業者の善意で続いているような所もあり、あまり「くまドン」が勝手な事を言えませんが、江戸川金魚の伝統の火が続いて欲しいとは思います。

(絵画調)


【甘いもの情報】
 都営地下鉄新宿線の船堀駅前には、金魚の形をした「きんとと」という美味しいお菓子の店があるらしい。


 今回は、これで終わりとさせていただきます。

 突然、江戸百景を地元の話題に引き込みましたが、時代の流れに負けずに、前向きに進もうとする地元の産業を盛り立てたいと思うのは、誰もが同じと思います。お察しください。

 次回は、夏のイベントに関する景の予定です。


 日本プログ村に参加してみました。時間があれば、どれか一つ「ポチッ」と押してください。
にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村 写真ブログ 風景写真へ


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。