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名所江戸百景172 第116景 高田姿見のはし俤の橋砂利場

2014-03-31 07:55:45 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、新宿区(しんじゅくく)と豊島区(としまく)の境を流れる面影橋(おもかげばし)付近の神田川(かんだがわ)に咲く桜の風景です。
 神田川に架かる高戸橋(たかとばし)到着すると、橋と並行に神田川を渡ってきた都電荒川線の電車が、交差点付近で直角に曲がります。神田川と同じ方向に「面影橋駅」を経由して、終点の「早稲田駅」まで走っていきます。

 前回のブログ「名所江戸百景171 第23景 目黒千代が池 目黒川の桜並木」の話の続きになりますが、今回は、ここから神田川沿いにある桜並木の遊歩道を行きます。

 高戸橋のたもとから桜並木の遊歩道に入ると、すぐ下流で川が流れる大きな音がします。都会では珍しい川の流れる音です。音のする方に行くと、都会では珍しい段差のある大きな魚道がありますが、結構な流量です。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第116景 高田姿見のはし俤の橋砂利場」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 高戸橋のすぐ上流で神田川に、妙正寺川(みょうしょうじがわ)と高田馬場分水路の水が合流するため、この付近から水の量が急に多くなります。
 春の暖かい日差しの中、川に覆いかぶさるような桜並木を見ながら遊歩道を行きます。


 最初に見える橋が曙橋(あけぼのばし)で、次に見える橋が面影橋(おもかげばし)です。
(絵画調)

 現在ではコンクリート橋ですが、江戸時代には木の太鼓橋が架けられていました。

 下の絵は、広重の名所江戸百景「第116景 高田姿見のはし俤の橋砂利場」(冬景)です。

 広重の絵の題名からすると、絵の手前の神田川にかかる太鼓橋(たいこばし)が姿見の橋(すがたみのはし)となり、画面右奥の北へ続く鎌倉街道(かまくらかいどう)に見える小さな川にかかる橋が俤の橋(おもかげのはし)を眺めた景色となります。現在の面影橋という橋は神田川に架かっていますので、混乱します。
 神田川を向こう側北側(現在の高田)付近は砂利(じゃり)がとれたので、「砂利場村」と呼ばれたそうです。
 江戸名所百景で描かれたのは、この地が室町時代の武将・大田道灌(おおたどうかん)の山吹の里の伝説で知られる地だった為です。また、ホタルの名所でもありました。

 面影橋付近は水深があるので分かりませんが、面影橋の下流に向かうと、川底に不思議な岩の列が見えます。
(絵画調)

 この付近の神田川は、都心では珍しく自然の川の地形が残っている場所です。通常の都心の川は、前回の目黒川の写真のように、三面コンクリート張りの川が多いのですが、川底に岩が見えるようになってきて、水面の上に大きな岩盤が姿を見せるようになってきます。

 「高田の一枚岩」と呼ばれる岩盤です。堆積岩(たいせきがん)で柔らかい岩盤の為、明治になると、暴れ川だった神田川の治水のため、重機で平らに削られてしまったそうです。
(絵画調)

 江戸時代の神田川は、神田上水の水として使われる程きれいな水が流れていましたが、
 他の都市の河川と同様に神田川も都市化の進行に伴い生活排水が流れ込み、急速にどぶ川となって行きました。川は三面コンクリートに覆われ、多くの支流は埋められ、暗渠(あんきょ)となり下水道となって行きました。
 以前は、「死の川」と呼ばれ、日本でもっとも汚い川(BOD)のワースト1位になる程ひどかったのです。
 現在では、生活排水は下水処理場で処理される様になり、落合水再生センターの処理水を神田川に、中野水再生センターの処理水を妙正寺川に放流するようになったので、天気の良い日の神田川の水はかなりきれいになりました。

 さらに、神田川は本流の水源である井の頭池だけでなく、支流の善福寺川(ぜんぷくじがわ、水源は善福寺池)や妙正寺川(みょうしょうじがわ、水源は妙正寺池)など湧水が多く、清流復活事業復活した玉川上水の水も供給されているので、水量が豊富なのも幸いしました。現在では、アユの遡上がブログの前半にでてきた魚道の上まで確認されています。

 上の写真の新江戸川公園の横を通り過ぎると、駒塚橋があります。この付近は関口と呼ばれる地名です。
 下の写真は駒塚橋から北側を撮影した写真ですが、江戸時代の代表的俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)が神田上水の改修工事に携わった時に住んでいた関口芭蕉庵(せきぐちばしょうあん)があります。写真真ん中の桜の間に見える門が、復元された芭蕉庵の門です。(開園時間は10:00~16:00、月・火休)
 この当時の芭蕉の俳号は「桃青」という名前でした。俳人としての名前を高めつつ、水戸藩の工事も請け負っていたわけです。その後、深川の芭蕉庵に移り、松尾芭蕉として、後世に残る「奥の細道」を始めとした「わび・さび」の世界を確立していく事になります。

 当時は「竜隠庵」と呼ばれた水番屋に住んでいたそうですが、芭蕉死後の33回忌に門人の弟子たちにより、「芭蕉堂」が建てられ、その後、芭蕉の真筆の短冊を埋めた「さみだれ塚」も建てられていきます。いつしか、「竜隠庵」は「関口芭蕉庵」と呼ばれるようになりました。

 この付近の河原には石も転がっていて、「東京都心にもこのような場所が残っていたのか・・・!」と思わせる雰囲気があります。
 さらに、関口芭蕉庵のすぐ下流側には、有名な椿山荘(ちんざんそう)があります。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第40景 せき口上水端はせを庵椿やま」(春景)です。

 この絵の説明は、紅葉の景の時にさせていただきます。(紅葉の残景のブログができていないもので・・・・・)

 絵と同じ位置から撮影してみました。桜に埋め尽くされていますが、写真の右端が椿山荘で、写真真ん中の奥に見える付近が関口芭蕉庵です。

 この場所の景は「くまドン板」では秋景にしたのですが、後から桜の季節に撮影して、春景にしておけばよかったかな・・・・・と思った一枚でした。(すでに桜景の上限20景の上限に達していたので、入れることができませんでした。)

(1)この付近の以前のブログは、
 「名所江戸百景096 第115景 高田の馬場 流鏑馬(やぶさめ)」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 ブログ作成をのんびりしていたら、あっという間に桜が開き始め、都心では満開・7分咲きの所も出てきています。桜散るまでに残りの桜景作れるのか不安になってきました・・・・・・(汗)

 また、脱線ですが、別に4月になって消費税が8%上がります。
 しかし、相変わらずというか、「くまドン」は消費税増税は8%すら反対です。したがいまして、平成26年度も、
 適当な理由を付けて公共事業を増やして財政悪化させるの反対!!!
 国民にだけ負担を押しつける消費税増税反対!!! 消費税5%に戻せ!!!
 企業優遇の法人税減税反対!!!
です。個人ブログで、何のしがらみもありませんので、気にせず書かせていただきます。
 (ブログ作るのが大変で、あまり政治の事は気が重くなるので、書いている時間がなかったのですが・・・・)

 次回は、名所江戸百景の別の桜景の予定です。

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名所江戸百景171 第23景 目黒千代が池 目黒川の桜並木 

2014-03-29 09:30:54 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、目黒区(めぐろく)の目黒川・桜並木の風景です。まだ東京の桜は咲き始めですが、早めに進めていきます。前回話しました西郷山公園(さいごうやまこうえん)と菅刈公園(すげかりこうえん)のすぐ近くに目黒川が流れています。明治時代の頃は、西郷邸の周りは水田地帯だったのですが、現在は住宅地で、その面影はありません。
 下の写真は、目黒川の桜並木です。奥に見える赤い橋は「中の橋」です。
(絵画調)

 桜の並木に埋もれる赤い橋は印象的で、目黒川沿いの撮影スポットの一つです。


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第23景 目黒千代が池」(春景)です。

 目黒台地から池に流れ落ちる滝と、桜の花咲き乱れる木々が池の水面に映し出される美しい風景が広がっています。広重の名所江戸百景の中でも、風流画として評価の高い絵の一つです。
 この絵が描かれた場所は、広重が生きていた江戸後期に肥前(ひぜん、現在の長崎県)の島原藩・松平主殿頭(まつだいらとものかみ)の抱え屋敷(かかえやしき、民間から購入した土地に建てて屋敷)のあった所で、現在の目黒区目黒1丁目付近です。目黒の台地と目黒川の谷底の間の崖下にありました。
 この絵に描かれている水面は、その大名屋敷にあった「千代が池」です。この池の名前の由来は、南北朝時代に新田義興(にったよしおき)の侍女の「千代」がこの池に身を投げた伝説からきています。
 新田義興は、鎌倉幕府(かまくらばくふ)を滅ぼし、南北朝時代は朝廷側として足利尊氏(あしかがたかうじ)と戦った新田義貞(にったよしさだ)の次男です。太平記(たいへいき)では、足利尊氏が亡くなった後、兵をあげて鎌倉を目指し、多摩川の「矢口の渡し(やぐちのわたし)」で謀殺されてしまいます。義興の死を知った千代は「死ねば義興のそばに行ける」と考え、この池に身を投げてしまったという悲しい伝説が残ります。
 前回のブログで話をしました西郷邸も大名の抱え屋敷で池と滝がありました。滝の水は目黒の台地を流れる三田用水から引いた水でした。千代が池は伝説からすると古い池ですが、この滝も三田用水(4代将軍・家綱の寛文年間に開削)からの水だったのでしょうか?
 昭和10年頃までは、千代が池の一部が残っていましたが、現在ではその姿はありません。

 「くまドン」も広重風に、赤い橋と桜を水面に映してみました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第23景 目黒千代が池」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 江戸時代の目黒川の水源は、現代では暗渠(あんきょ、地中に埋没とした水路)・緑道となってしまい、水源の供給がなくなっています。この為、上流の大橋から新宿区の東京都下水道局落合水再生センターで下水を高度処理した水を供給しているので、晴れた日の水は澄んでいます。桜並木は、この大橋から続いています。


 江戸時代の頃の目黒川は、川が台地を削った谷を曲がりくねって流れていました。当時の目黒川は川幅が狭く、水深が浅いため、大雨が降れる川の水があふれて田畑が水につかることも多かったそうです。

 目黒川は日だまりなのか、他に先駆けて桜は見頃を迎えていました。
(絵画調)


 江戸時代後期になると農業生産力は上がり、農村では自給自足の生活から貨幣経済の発達により、農民は年貢の残りを売るようになってきます。さらに、商品作物(大根、ナス、ウリ、菜)を栽培したり、水車で精米や製粉を行うといった農産物を加工するようにもなってきます。幕末から明治初期の頃には、目黒川にも数多くの水車が並んでいました。

 下流に向かって、歩いて行くことにします。

 春の日差しは明るく、風もない暖かい日でした。

 目黒川は、大正12年頃から始まった治水工事(昭和12年頃に完成)により現在のような直線的な川に変わっていきました。それでも、当時は子供の水遊びやホタルが飛ぶ清流だったそうです。昭和30年代までは、染物屋が友禅(ゆうぜん)流しをしていたとの記録もあります。

(絵画調)

 目黒川の上流部は川幅が狭いので、桜が両岸から覆いかぶさり、花の回廊を作っていました。コンクリート護岸が見えなくなるので、撮影する上でもありがたいです。


 大正時代までは、目黒付近は田園地帯でした。大正12年に発生した関東大震災以後は、宅地化の波が押し寄せ、昭和2年の東横線の開通も相まって、目黒付近は住宅地に変わっていきます。

 歩いて行くと、少し川幅が広くなったのか、隙間に目黒川が見えるようになりました。


 東急東横線が横切る所に近づいてくると、だんだん都心の川のようなコンクリート3面張りの単調さが目立ちます。

 桜は咲いていても、都心の川の物悲しさを感じます・・・・・・・

 東急東横線の中目黒駅を通り過ぎます。
(絵画調)

 江戸時代には川の左から、蛇崩川(じゃくずれがわ)という支流が流れ込んでいましたが、現在では、ほとんど暗渠化されて、目黒川との合流部数mだけが開渠となっています。

 駒沢通りの歩道橋を渡り、中目黒公園付近からは急に川幅が広くなります。歩いてきた上流方向を眺めた風景です。中目黒公園には、「さくらのテラス」という花見の場所があります。

 この付近は、川幅が広いので、風で冷やされるか、咲いている桜より、つぼみの桜の方が多いくらいでした。

 さらに、下流の奥には、「名所江戸百景143 第111景 目黒太鼓橋夕日の岡 目黒の雪景」で撮影した目黒雅叙園(めぐろがじょえん)のアルコタワーが望めます。途中の川沿いに、「目黒のさんま」で話をした場所があります。
(絵画調)

 また、写真の橋を左に曲がり坂を登った所が、恵比寿ガーデンプレイスです。こちらは、「名所江戸百景133 第24景 目黒新富士 恵比寿ガーデンプレイスからの夕景」でお話ししました。
 時間の都合で、次の百景の撮影地に移動する事になりましたので、目黒の桜は、ここで終わります。

 以前お見せした目黒元富士と目黒新富士のあった位置を大雑把(おおざっぱ)にしました地図です。
 目黒新富士はJR恵比寿駅から小道の坂を下りていくと、階段の所に今も石碑が残っています。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」

 なお、広重の絵に描かれた「目黒千代が池」は、上の地形図の赤い★の右(東)側の崖付近だそうです。

(1)目黒付近の以前のブログは、
 「名所江戸百景170 第25景 目黒元不二 西郷山から富士山遠望」
 「名所江戸百景133 第24景 目黒新富士 恵比寿ガーデンプレイスからの夕景」
 「名所江戸百景084 第84景 目黒爺々が茶屋 目黒のサンマ」
 「名所江戸百景143 第111景 目黒太鼓橋夕日の岡 目黒の雪景」

 今回は、これで終了とさせていただきます。

 次回は、名所江戸百景の別の桜景の予定です。

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名所江戸百景170 第25景 目黒元不二 西郷山から富士山遠望

2014-03-27 12:25:23 | 名所江戸百景
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回は、目黒区(めぐろく)の西郷山公園(さいごうやまこうえん)と菅刈公園(すげかりこうえん)からの景色です。
 今年・平成26年は、平年より1日早い3月25日に都心で桜の開花が宣言されました。
 今回から昨年の桜の時期に間に合わなかった桜の景の残分10景を作り始めます。

 撮影日は、昨年・平成25年の3月21日頃でした。平成25年は3月になってから急に暖かくなり、桜の開花が例年より一週間も早く始まり、3月20日には見頃を迎えた場所も多かった年です。その前年の平成24年に撮影が間に合わなかった桜の4景を撮影した日です。写真は抜けるような青空ですが、昨年は、この日に撮影した後は、花曇り(はなぐもり)と呼ばれる晴れていても薄雲が広がり白っぽい空の日が続いたので、貴重な一日でした。
 逆に一昨年・平成24年は非常に寒く、平年より一週間遅く桜が開花したので、4月になってから桜の開花が始まり、あっと言う間に満開になり散って行った年でした。
 二週間もあるギャップに、桜が開花するまで日があると、のんびりしていた「くまドン」は、慌てて「くまドン旅日記」のブログを開始した所でした。

 西郷山公園という名からは、「上野の西郷さん」の銅像で有名な西郷隆盛(さいごうたかもり)を思い出すでしょう。
 この公園は、西郷隆盛の弟である西郷従道(さいごう じゅうどう)が兄・隆盛の再起を願って購入した場所でした。
 しかし、西郷さんが西南戦争の戦いで亡くなったため、その願いはかなわず、従道自身の別邸となりました。
 下の写真は、菅刈公園に展示されていた西郷従道の写真と、当時の西郷邸付近の地図です。

 西郷邸付近は目黒の台地の崖に木が茂り、近くの谷には目黒川(めぐろがわ)が流れ、田畑が広がっていました。

 西郷山公園は崖の部分にあたり、崖の上の台地は富士山の見える場所として、江戸時代から有名でした。
 高層ビルが並ぶ現代でも、下の写真のように真ん中奥に富士山の姿を望む事ができる貴重な場所です。
(絵画調)


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第25景 目黒元不二」(春景)です。

 絵の構図としては、やや俯瞰(ふかん、上から下を見下ろす)気味に、遠近法を用いた自然な風景です。
 手前の近景に富士塚と松を置き、その先の中景に桜の花と茶屋で休む人が描かれ、遠景は、目黒川の谷間に広がる田園と丹沢(たんざわ)の山並み、そして富士山と続きます。
 良く見ると、手前の富士塚を登っていく人の足元には階段らしき線が描かれています。
 この絵の描かれた場所は、現在は代官山付近の旧山手通り沿い付近の住宅地で何もないので、取り扱いません。

 上の写真を富士山の所だけを望遠で拡大してみました。
(絵画調)


 下の絵は、広重の名所江戸百景「第24景 目黒新富士」(春景)です。

 絵の説明は「名所江戸百景133 第24景 目黒新富士 恵比寿ガーデンプレイスからの夕景」でしていますので、省略させていただきます。

 西郷山公園の高台は、風が吹いて気温が下がる為か、ソメイヨシノは咲き始めで、早咲きの河津桜(かわづざくら)が満開という状態でした。河津桜の右横に小さくなりますが、富士山を入れて、西郷山公園の雰囲気と共に構図を作りました。

 この写真を、広重の名所江戸百景「第25景 目黒元不二」に対応する「くまドン板」の景(確定・春景)とさせていただきます。
 (このプログは、名所江戸百景の現代版である「くまドン版」を作ることを第一目標としています。)

 現代において、高い建物が建ち並び、公園の高台からは目黒川は見ることはできません。

 公園の崖の所には人工の滝もありますが、この日は水が流れていませんでした。

(1)西郷邸は江戸時代においては、豊後国(現在の大分県)・竹田城主・中川氏の抱え屋敷(かかえやしき、大名が民間の土地を購入した屋敷)だった所です。
 4代将軍・徳川家綱(いえつな)の明暦年間に、目黒村の御野屋敷を石川太兵衛から譲与され、その後敷地を買い足し、2万5千坪の屋敷となりました。表御殿や長屋などもあったようですが、江戸後期の文化年間には、毎年4月~7月の間、家中の鉄砲稽古場として使用されたとの記録もあります。

 まだ、風の吹きつける西郷山公園のソメイヨシノは咲き始めなので、崖の下にある菅刈公園に移動します。

(2)明治時代に旧中川邸を含む約2万坪(6万6千平方メートル=約250m四方)の広大な土地が売りに出されました。当時の閣僚の話題となり、大隈重信(おおくま しげのぶ)、井上馨(いのうえ かおる)、山縣有朋(やまがた ありとも)らも購入しようとしましたが、価格が折り合わず、購入までいきませんでした。
 明治7年に西郷従道に、鹿児島に戻った兄・西郷隆盛の為に購入します。上でも話したように、結局、西南戦争で西郷さんが亡くなった後、従道の別邸として使用される事になります。(現在は愛知県・犬山市の明治村に移築)
 明治13年にはフランス人・レスカス設計の当時としては珍しい耐震設計の洋館が造られます。その後、九州から永田熊吉を呼び寄せ庭園も改修していきます。洋館や書院もあり、「東都一の名園」と呼ばれたそうです。

 復元した庭園には和館があり、展示資料や和室、庭園展望室があります。下はその資料の一部です。

 絵の右側の池が菅刈公園に復元した庭園のようです。後方の坂が西郷公園の崖付近でしょうか?
 庭園の高低差は14mもあり、絵に描かれている滝は三田用水の水を引いていたそうです。

(3)当時の西郷邸は、旧中川家の屋敷だけでなく、渋谷から目黒に連なって、14万坪のあったそうです・・・!!!
 周辺の農地を含んでいましたので、約70%が麦畑・桑畑・野菜畑で、庭も木立の山をそのまま使用して手入れもしなかったようです。屋敷の内部には、水車(動力源)、米つき小屋、養蚕室があり、庭では七面鳥やニワトリ、牛を飼い、明治時代の大臣を歴任した華族(かぞく)とは思えない、「農家の如きくらし」だったようです。
 西郷家は、細かいことは気にしないし、農作業も進んでやる家風でしたからね・・・・・
 兄の西郷隆盛も鹿児島に戻った時は、野山で狩りをするなど悠々自適の生活でしたし、西南戦争が起きずに生きていたら、弟が準備した屋敷を気にいったかもしれませんね?

 菅刈公園は目黒川が造った谷底ですので、日だまりになるため、桜の開花が早く、ソメイヨシノも見頃です。
(絵画調)

 菅刈公園も西郷邸の一部です。当時の西郷邸にあった庭園を再現した日本庭園がありますが、
 この日は午前中の早い時間だったので、まだ開園していませんでした。(平成13年開園、9:00~16:00、火休)


(4)その後、国鉄(現在のJR)に所有が移り、職員の宿舎などに使用されましたが、昭和56年に目黒区が1万平方メートル(=約100m四方)を購入し、西郷山公園として開園。平成13年に目黒区が2万平方メートル(=約140m四方)を購入して、菅刈公園として開園となりました。

 下の写真が西郷邸の庭を再現した日本庭園です。下見で5月に行った時の写真です。こちらにも人工ですが西郷邸の滝を復元した人工滝があります。「くまドン」が行った時は水は流れていませんでしたが・・・


 以前お見せした目黒元富士と目黒新富士のあった位置を大雑把(おおざっぱ)にしました地図です。
 目黒新富士はJR恵比寿駅から小道の坂を下りていくと、階段の所に今も石碑が残っています。
 「国土地理院ホームページ掲載のデジタル標高地形図画像データ(図名等)を使用しました。」


(1)「第24景 目黒新富士」の絵の説明は、
 「名所江戸百景133 第24景 目黒新富士 恵比寿ガーデンプレイスからの夕景」
(2)それ以外の目黒付近ブログは、
 「名所江戸百景084 第84景 目黒爺々が茶屋 目黒のサンマ」
 「名所江戸百景143 第111景 目黒太鼓橋夕日の岡 目黒の雪景」

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 スカイツリーの回ができなかったので、桜の景が先行になりました。

 次回は、名所江戸百景の目黒の桜景の続きの予定です。

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城005 奈良県の織田家 芝村藩 織田小学校・慶田寺

2014-03-26 12:25:43 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県(ならけん)・桜井市・芝の芝村藩(しばむらはん)陣屋です。
 下の写真は、芝村陣屋の南門を移築した慶田寺山門です。

 前回からの話の繰り返しになりますが、織田信長(おだのぶなが)の弟にあたる織田有楽斎(うらくさい、長益)は、関ヶ原の戦いで東軍に味方した為、徳川家康(とくがわいえやす)から大和国(現在の奈良県)の一部を加増され、3万石の大名となりましたが、3万石の所領のうち、1万石を有楽斎の隠居料に、残りの1万石ずつをそれぞれ四男の長政(ながまさ)と五男の尚長(なおなが)に分与して相続させました。
 四男・長政の系統が今回の芝村藩、五男・尚長の系統が前回まで話をした柳本藩として幕末まで存続しています。
 柴村藩は、最初は戒重村(現在の桜井市・戒重)に陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれます。
 第7代藩主・織田輔宜(すけよし)の延享2年(西暦1745年、8代将軍・吉宗が9代将軍・家重に将軍を譲った年)に陣屋を芝村(現在の市立織田小学校)に移しました。
 下の写真が、市立織田小学校ですが、随分凝った校門や塀(へい)の造りです!・・・

 年末なので、学校は休みなので気にせず撮影できました。
 陣屋跡は小学校の敷地ですが、下の石垣は、陣屋時代の石垣が現存しています。

 また、陣屋の南門が慶田寺山門として移築されているので、こちらにも寄ってみました。

【慶田寺(けいでんじ)】 住所:奈良県桜井市芝753、曹洞宗(そうとうしゅう、禅宗の一派)の寺
 芝村藩・織田家の菩提寺(ぼだいじ、先祖の位牌(いはい)を納めてある寺)で、織田有楽斎の分骨塔と、芝村藩の歴代藩主の墓があります。
 本堂です。開創は室町時代の長禄年間(西暦1460年、8代将軍・足利義政の時代)の古いお寺です。

 墓地に「織田公墓所」があるのですが、年末で訪問客が多く、墓参りの人と勘違いして、墓地に入るのを遠慮したので、写真がありません・・・・・・・・・
 下の写真は、境内の鐘楼です。

 本尊は「十一面観音」(平安時代の作)ですが、お寺内なので、境内にあった仏像を代わりに撮影しました。

 有楽斎の系統の織田家の話はこれが最後です。

前回までのブログは、
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳」
 (ブログ上部のバーに直近前後のブログが表示されていますので、そちらをクリックしても、移動できます。)

 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。
 実は、奈良県の織田家は、まだ続きがあるのですが、
 東京都心で桜の開花が平年より1日早く宣言されましたので、この続きは4月以降にさせてください。

 次回は、名所江戸百景の話に戻ります。スカイツリー(作るのが行き詰っています)か?桜の景か?


城005 奈良県の織田家 柳本藩(2) 黒塚古墳

2014-03-25 12:25:16 | 訪城記
こんにちわ、「くまドン」です。

 今回のお城訪問は、奈良県(ならけん)・天理市(てんりし)・柳本町にある黒塚古墳(くろつかこふん)です。江戸時代には、織田家の柳本藩(やなぎもとはん)の陣屋(じんや、藩庁)のあった所です。
 下の写真は、黒塚古墳の後円墳と周囲の周濠(水濠)です。

 前回の「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」からの続きになりますが、
 話の流れから、前回と今回の間に立ち寄った訪問先は、順番を次回とさせていただきます。

 黒塚古墳に到着して案内板を見ると、見ての通り全長130mの前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)です。

 古墳時代前期(3世紀末頃)前方後円墳で、平成9年の発掘調査で33面の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と画文帯神獣鏡1面が出土したことで有名です。

 下は、前の方墳側から後円墳側を見た写真ですが、前方後円墳らしいラインが出ています。

 護岸はコンクリートに覆われて味気ないですが、現代では、カルガモの休憩場となっているようです。
 後方に見える水濠の石垣は陣屋の石垣らしいですが、いつの時代に造られたものなのでしょうか・・・・・??

(1)この柳本の地は興福寺(こうふくじ)の荘園として、荘官の楊本氏が治めていました。
 室町時代の大和国(現在の奈良県)は、南北朝時代や戦国時代以外の時も戦乱が多く、黒塚古墳南側にある柳本小学校付近の伊射奈岐(いざなぎ)神社西北付近が城跡で、柳本城の一部に黒塚古墳を含んでいた可能性もあります。
 後円墳部分の小高さや、周囲を囲む環濠(かんごう)の水濠は、中世の城の形状としては便利です。
 下の写真の手前は前方部ですが、長さが48m程あります。

 中世の頃には古墳の存在自体が忘れ去られていたのか、下の写真のように前方部と後円部の間を分断する掘割が発掘されたそうです。その他にも、城として活用する目的で古墳の形に改修が加えられているようです。

(2)室町時代から戦国時代にかけて、柳本城の城主はたびたび変わり、松永一族の支配下になりますが、安土桃山時代の天正5年に、織田信長に松永久秀(まつながひさひで、松永弾正)が滅ぼされると、一時廃城となります。

 後円墳の上部に登って行きます。前方部が高さ6m、後円部が高さ11mですから高低差があります。

(3)慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原の戦い後は、前回も話しましたように、東軍についた織田有楽斎(おだうらくさい、織田長益)は大和国の一部を加増されて、柳本周辺はの織田有楽斎の所領となります。
 さらに大阪夏の陣があった元和元年(西暦1615年)には、織田有楽斎は所領3万石の内、1万石を隠居領として残し、1万石を四男長政(ながまさ、戒重藩)に、残りの1万石を五男尚長(なおなが、柳本藩)に与え、柳本の周辺は柳本藩領となりました。

 後円墳頂上部の写真です。土中の石棺が崩れた事もあり、盗掘を逃れ、副葬品もそのままで保存されていました。

 後円部は径約72m、高さ約11mあり、古墳自体が台地の端にあるので、見晴らしが良い場所です。
 濠の向こうに奈良盆地の町並みと山並みを遠望できます。

(4)柳本藩の初代藩主・織田尚長は、当初は大泉村(現桜井市)に在住しましたが、3代将軍・家光の寛永年間になると、柳本城の跡地に柳本陣屋を構え、柳本が明治になるまでの藩庁となりました。黒塚古墳も陣屋の一部となり、古墳の周りにある水濠も西側に続けて掘られていったそうです。
 武家屋敷のあった柳本町の旧上街道筋には、昔の雰囲気を残す町並が残っています。
 陣屋の西門もどこかに移築されているそうですが、見つけることができませんでした・・・・・・・・

 下の写真は、古墳の東側の濠です。

 この先の古墳の東側に隣接して、竪穴式石室と副葬品を配列した実物大模型(レプリカ)などを展示する「天理市立黒塚古墳展示館」があるのですが、年末年始は休館と思い、時間も無かったので行っておりません。
 (写真なしです。)

 最後に、柳本の村民が立てた石碑です。

 「くまドン」には全く詠めませんが・・・、「文政6年(西暦1822年)に黒塚を整地して稲荷神の祠と碑を建てた。藩中の平安と、穀物の豊穣を神に祈り、鎮守の森になるように」と書かれているそうです。

 なお、黒塚古墳は、奈良盆地の東南部に位置する大和古墳群の一つで、台地の縁辺部に立地しています。
 「くまドン」見学する時間はありませんでしたが、近くには、崇神天皇陵(すじんてんのうりょう、第10代天皇)や景行天皇陵(けいこうてんのうりょう、第12代天皇)と、巨大な前方後円墳が並んでおり、古代ロマンの「山の辺の道」コースとなっています。
 奈良県は古代遺跡がゴロゴロしていますので、戦国・江戸時代の遺跡は陰(穴場)に隠れがちです・・・・・・・・・

 長くなりましたので、この続きは次回とさせていただきます。

前回までのブログは、
 「城005 奈良県の織田家 柳本藩(1) 橿原神宮の文華殿」
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 今回は、これで終了とさせていただきます。
 くまドンのブログに訪問していただき、ありがとうございます。

 次回も、奈良県のお城ブログが続きます。